信濃紀行1 塩田平

長野県上田市の南側一帯を塩田平という。
かつては「塩田町」という独立した町であり、「別所温泉」でも名高い。
かつて上田には国分寺が置かれ、信州の中心であった。
そのため、国宝建築を始め、多くの文化財が残り、信州の鎌倉とも言われる。
その一部をここで紹介。

安楽寺八角三重の塔(上田市塩田別所温泉)

信州上田市の南西部一帯、通称、塩田平付近を中心にこの地域に4つの三重の塔がある。
そのうち2つは国宝で、残りの2つは国の重要文化財である。
そのうちの1つ、安楽寺の三重の塔。
この寺は、信州の鎌倉と言われる別所温泉のある谷間の奥にある名刹である。
何といってもこの寺は、国宝八角三重の塔で超有名である。
この安楽寺、鎌倉時代に北条氏が開いた寺かと思ったが、それよりはるかに古く、天長年間(824〜834)に開かれたと伝えられる。
しかし、寺の名で出てくるのは鎌倉時代になってからであり、鎌倉の建長寺を開いた蘭渓道隆が安楽寺の和尚に宛てた手紙などが存在するという。
鎌倉の建長寺とは兄弟寺の関係であったらしい。
建長寺と同じ禅寺であり、安楽寺には50人の僧が修業していたとの記録がある。
おそらく信州では最も古く、格式の高い禅寺と言えるだろう。ここの最大の宝が国宝、八角三重の塔である。
長野県には国宝建物は5つあるが、そのうち第一に指定されたのがこの塔という。
この塔は鎌倉末期の建築といい、その姿が素晴らしい。八角形の形の屋根なのである。
最近の科学的年代測定では1290年代の建設であったと推定されている。
このような感じの塔は中国では見かけるが、現存している例は国内にはない。
塔は一番下に裳階(ひさし)がついているため、一見、四重塔に見える。正確には「裳階付三重塔」というのだそうである。
また、縁や手すりもなく、板壁で、屋根を支える垂木が扇の骨のように放射状に外側に出ており、下から見上げるときのこの襞のように見える。
なぜ、こんな中国風の塔がここにあるかというと、当時の安楽寺住職の幼牛恵仁が中国生まれであり、故国の塔を思い出して建てたのではないかという。
そのバックは当時、塩田を支配していた鎌倉北条一族である。この塔、山間の奥まった場所にひっそりと建っている。
その場所はかなりジメジメした感じの場所である。意外に小さく感じたが、さすがに風格があり感動ものである。
この塩田の地も南北朝の騒乱や戦国時代の騒乱の舞台になった場所である。
それらを潜り抜け、現在までこれらの文化財が伝えられていることにも感心する。

大法寺(青木村)

上田と松本を結ぶ国道143号線沿い青木村の上田市との境となる東に位置するは天台宗の寺である。

この寺は奈良時代前期の大同年間(801〜810)坂上田村麻呂の祈願で僧義真によって再興されたという記録が寺に残っているという。
ここには国宝大法寺三重塔、通称「見返りの塔」がある。

塔の姿があまりにも美しいので、思わず振り返るほどであると意からこの名がついたという。

高台に建てられていることと、初重が特に大きく、下から見れば凄くスタイル良く見えるのがその理由という。

このような形式は奈良の興福寺三重塔が同じらしい。塔は正慶2年(1333)に作られたものというので、建武の親政の時である。

大工 天王寺四郎某のほか、小番七人により建てられたという。

大法寺の五百羅漢
当郷の大法寺に五百羅漢の石像がある。
ちなみに羅漢(正式には阿羅漢)とは、「仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。もとは釈迦の尊称の一つであった。
インドの宗教一般で「尊敬されるべき修行者」をこのように呼んだという。
初期の仏教では、修行者の到達し得る最高位をこのように呼んだという。
中国・日本では第1回の仏典編集(結集(けつじゅう))に集まった500人の弟子を五百羅漢と称して尊敬し、禅宗では阿羅漢である摩訶迦葉に釈迦の正法が直伝されたことを重視して、釈迦の弟子たちの修行の姿が理想化され、五百羅漢図が作られ、祈願の対象となった。」Wikipedia参考。
という高尚なお方達である。
しかし、この五百羅漢を称するこれらの石像はいったいなんじゃ?
この方々、尊敬されるべき修行者かい?どう見ても、その辺にいるただの飲兵衛のおっさん達じゃねえか。
この付近の住民、自分が酒を不自由なく飲みたいので、その願いを込めて、こんな石像を造って寄進したようである。
このおおらかさといい加減さ、別の意味で凄い&楽しい。写真撮りながら思わず笑っていた。

北向観音(上田市別所温泉)

別所温泉の中にあるお寺である。
本堂が北に向いているので北向観音と通称されるが、正式には天台宗金剛山照明院常楽寺という。
本堂が北に向いているのは全国でも珍しいという。
「厄除観音」として南向の長野の善光寺に対しており、「片方だけでは片詣り」になると言われ、参拝客が訪れる。
本堂が北に向いてるのは、観音様が「北斗星が世界の、よりどころとなるよう我も又一切民衆のよりどころとなって済度をなさん」という、お告げによるものという。お参り前に清水で手を清める寺社が多いが、ここは温泉である。
温泉で手を洗うのである。何と境内から温泉が湧いているのである。
寺の建立は天長2年( 825)建立されたという。
北向観音本堂 境内の愛染堂、左が温泉の心手洗
平安時代は平氏がスポンサーであり、安和2年(967)平維茂が三楽堂、四院、六十坊を増築したと伝えられる。
しかし、寿永元年(1182年)源平の戦いで焼失し、荒廃したが、源頼朝の命で復興、県長四年(1252年)塩田陸奥守北条氏によりさらに整備された。
また、金沢文庫で正応5年( 1292 )常楽寺で書写した経文が発見され、鎌倉時代には天台密教の寺であったことが分かる。
境内にこの地方では珍しく大木になった桂の雄木がある。
高さ22m、目通り5.5m、枝張り14mという大きさがあり、霊木とされている。
境内の愛染堂とこの桂の木を結んで「愛染桂」といって縁結びの霊木として信仰され、これが川口松太郎の「愛染桂」のヒントになったという。
観音堂の西方崖の上に「医王尊瑠璃殿」という薬師堂がある。
はじめの建物は焼け、文化6年(1809)再建されたもの。
この薬師堂は温泉の効き目にあわせて病気を除き解脱するという深い温泉薬師信仰によるもので、「瑠璃殿」とは薬師如来を瑠璃光如未と呼ぶところからとったという。
医王尊瑠璃殿 愛染桂の木

生島足島神社
長野県の上田盆地の南東端の田園地帯にある神社。
池に囲まれた朱塗りの社殿と武田信玄の願文・起請文で名高い。
この神社、なかなか変わっている。似たような神社は聞いたことがない。
神社創建の年代については良く分からないが、奈良時代以前には既にこの地に存在していたという。
古代、この上田地方は信濃国の中心地であり、中央から国造が派遣され、国分寺が置かれていた。
この神社は当然、これらに係るものと言われている。
大和朝廷から派遣された国造が、朝廷の意向を受けて創建したという説がある。
神社の名前も変わっているが、生島神と足島神が合祀されものと言う。
前者は「生国魂大神」で大和朝廷の神、後者は「足国魂大神」が正式な名であり、こちらは馬使いの神という。
(上田市誌は、この神社を熱心に崇拝した北条氏や真田氏は、牧を経営する馬使いの末裔であり、これが崇拝の背景ではなかったかと推察している。)

神社のHPによると、日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より日本総鎮守と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神なのだそうだ。
余り聞いたことのない話ばかりであり、これ自体が普通の神社ではないことを感じさせる。

当然、朝廷との係りが強く、平城天皇の代、大同元年(806年)には神封戸の寄進があり、醍醐天皇の代(901年〜922年)には名神大社に列せられた。
また、鎌倉時代、建治年間(1275年〜1278年)には塩田城の城主、北条国時(陸奥守入道)が社殿を営繕し、祭祀料としての田地を寄進、戦国時代には武田信玄の崇拝を受けた。
この地を攻略した武田信玄は天文22年(1553年)、当社に社領安堵状を捧げ、永禄2年(1559年)願文を奉納し上杉謙信との戦い勝利を祈願した。
永禄9年、10年(1566〜1567)、配下の信濃、甲斐、上野の武将達から起請文を出させた。
この起請文83通が残されており、国の重要文化財に指定されている。
この起請文提出は、子義信との確執により動揺する家内を引き締めることが目的であったという。
信玄自身の願文は信玄直筆といわれるが意外に小さく葉書大のものであった。
字は余り上手いとも思えないが、信玄自筆という点に価値がある。
(信玄直筆の書として長野市境福寺の「第一義」の字があるが、当然であるが、同じ筆跡であった。)。

武田氏滅亡後、この地を支配した真田昌幸、信之、江戸時代の歴代上田藩主も神領を寄進し、社殿を整備する等、崇敬を集めたという。
明治2年、宮中に親祭され、同32年、勅使差遣になり国幣中社に列せられる。
この神社の本殿が派手で朱塗り。池(神池)に囲まれた島の中に建っている。
なお、周囲に池を巡らせて神域とされる島をつくる形式は「池心の宮園池(いけこころのみやえんち)」と通称され、出雲式園地の面影を残し、日本でも最古の形式の一つなのだそうだ。
御扉の奥には御室と呼ばれる内殿(長野県宝)があり、内殿には床板がなく大地そのものを御神体(御霊代)としているという。
地面が御神体というのも珍しいものであり、これからもこの神社が並の神社ではないことを示している。

上田ローマン橋

長野県上田市にある東部湯の丸ICと上田菅平ICの間に設置されている上信越自動車道の橋。
全長714.5m。1996年完成。この橋は千曲川に合流する菅平から流れる神川の侵食した低地部を越える形で設置されている。
RC連続アーチ橋という形式で、径間数が20個、橋長とも国内最大級の橋梁という。
その姿が古代ローマの水道橋を連想させることから「ローマン橋」の名称が付けられている。
イラストは東の神川の低地部からから見たローマン橋である。
この橋、真っ直ぐではなく、カーブしている。道がカーブしているからか、橋桁も曲線であり、この曲線の組み合わせが非常に面白い。
周囲の風景は田舎の田園地帯であり、その中のこの変わった形の橋。
違和感があるのだが、意外とそのミスマッチが、周囲の景観とマッチしているのである。
本当は下り車線を走行する時に目の前に虚空蔵山が迫ってくる風景が最高である。

しかし、画ネタとするその写真の撮影は困難。
何しろジェットコースターに乗っているようで、下りでスピードが出るうえ、道がカーブしているので危険。ってことで断念した。
しょうがないから橋の東下から北西側を見た風景にしてみた。
正面の山が伊勢崎砦のある虚空蔵山、その右のピークが戸石城の支城の米山城、そしてその右端に戸石城(橋で隠れている)がある。
いずれも戦国史を飾る城である。

上田市西部から見た風景。ローマン橋がきれいに写っている。
橋の下のビル街が上田市街、森になっている部分が上田城。
背後の山は湯の丸高原の湯の丸山(2101m)。
伊勢崎砦のある虚空蔵山から見たローマン橋