信濃紀行3 中南信

諏訪大社上社(諏訪市)
全国に25000社もあるという「諏訪神社」の総本山で、日本3大奇祭の1つ「御柱」祭が有名。
「御神渡」も有名。
平安時代に編集された延喜式では、当時の神社の中の最高位である名神大社とされていた。
氏子の総数は国内に10万人〜50万人もいるという。
並みの神社ではなく、神事を統括する者が大名である。

平安時代 - 江戸時代を通じて上社では諏訪氏がその「大祝」を務めている。
戦国時代、諏訪氏を滅ぼし、(その祟りで武田が滅んだという人もいるが。)強引に諏訪氏の後継に位置付けられた「武田勝頼」もその1名である。
諏訪湖周辺、南側に上社、本宮・前宮の2宮、北側に下社、春宮・秋宮の2宮があり、計4つの神社がある。

久々に上社に立ち寄ってみた。
さすがに荘厳な雰囲気。
上社は本宮幣殿、本宮拝殿、本宮左右片拝殿、本宮脇片拝殿、本宮四脚門の6棟の建物が国の重要文化財に指定されている。
社殿の四隅にはあの有名な御柱が建つ。
この御柱の謂れであるが、縄文時代の男根石を連想してしまう。

ミシャグチ信仰の石柱との関連性があるという説が有力で、神長官守矢によると御柱はミシャグチを降ろす依り代であるという。
富士見町の御射山や松本市の三才山などの地名は、このミシャグチ信仰が地名として残ったものとも言われている。
なお、ミシャグジ信仰は東日本の広域に渡って分布しており主に石や樹木を依代とする神で蛇の姿をしている。
そのルーツは縄文時代にさかのぼり、縄文土器の飾りに蛇が描かれていることとも関係するという。
蛇は脱皮をすることで、生まれかわり再生するということで信仰の対象になったものという。

ミシャグジ信仰は地方によって様々な形があるが、諏訪地方では特に諏訪の蛇神であるソソウ神と習合されたためか白蛇の姿をしているともいわれており、建御名方神や洩矢神(モレヤ神)と同一視されることもあるという。
『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われている通り、軍神としても崇拝された。
中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業の守護祈願でも知られるが、これも八ヶ岳山麓に栄えた尖石遺跡などの縄文文化との関連を連想させる話である。
祭神 は建御名方命、八坂刀売命とされているが、これは表向きであり、本来の祭神は先に述べたミシャグチ神などの土着信仰に関わるものであるとされる。
記紀神話では「天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、出雲を支配していた大国主命に国譲り、つまり出雲王朝の支配権を譲渡するように迫ったという。

これに対して、大国主の長男である建御名方命が、国譲りに反対し、武甕槌命と相撲をしたが負けてしまった。
そこで建御名方命は諏訪まで逃れ、その地で王国を築いた。
これが諏訪大社の起源」という。

この話からは諏訪大社は、出雲大社同様、大和朝廷に征服された独立王国の神であった可能性が大きい。大和朝廷も征服した王朝の神は、その地の民の反乱を招くため、破壊はせずに尊重し、大社に位つける融和政策を取ったようである。

そういえば邪馬台国、諏訪説などもあった。
この諏訪大社が大和朝廷とは一線を画す神社であることは、土着の神々がルーツということが、その証拠の1つであり、神話もそれを裏付けているようである。

したがって、この地に栄えた縄文文化が根底にあると考えるのが合理的かもしれない。
あの国宝土偶縄文ビーナスとの関係は?
御柱祭もどことなく、原始の雰囲気を感じさせる祭りである。
特にあの坂落しは尋常ではない。
あの坂、現地で見れば恐ろしいほどの勾配である。

この祭りには狂気の匂いが漂う。坂落しの時は坂の下に救急車が何台かスタンバイする。
当地の友人の話では、見学者はどこかで怪我人が出ることを期待しているとか?
これは生贄じゃないのか?
やはり、そのルーツ、やはりこの地に栄えた縄文文化に繋がると思うのだが。
(Wikipedia、諏訪大社のHP等を参考。
諏訪大社、縄文ルーツ論は長野県考古学会の会長を務めた森嶋稔氏に聞いた話。
それ以前、諏訪の有名な考古学者、藤森栄一氏が展開していた。)

尖石(茅野市豊平)
尖石遺跡は、八ヶ岳山麓にある縄文時代中期の遺跡。
「尖石」の名称は遺跡の南側にあった三角錐状の巨石の通称に由来する。

遺跡は八ヶ岳西側山麓地帯の大扇状地状にある標高1050-70mの台地の上にある。
台地の中央部に沢があり北側が与助尾根遺跡、南側が尖石遺跡。
地元の考古学者宮坂英弌(ふさかず)によって昭和初期から独力で調査が行われ、成果が発表されていった。
尖石では竪穴式住居跡33ヶ所、53ヶ所の炉跡や列石、竪穴群、屋外埋甕などが発掘された。
土器が多く、石器の出土が極端に少なく、宮坂は、ワナ猟とクリ林、黒曜石の交易が行われていたと考えたが、藤森栄一は狩猟・採集中心ではなく、焼畑農業の存在を考えた。

いわゆる縄文農耕であり、この考えが三内丸山遺跡まで続く。
集落遺跡は、東西170m・南北90mの範囲をU字形に巡り中央に広場が存在していたことが判明し、これによって日本で最初の縄文時代の集落の存在が確認された遺跡となった。
宮坂の功績によって尖石遺跡は1952年に特別史跡に指定。
宮坂没後、1980年には尖石考古館が設置される。
ここにあの国宝土偶「縄文ビーナス」が展示される。
さらに1993年には与助尾根も特別史跡に追加指定された。

その遺跡の由来ともなった「尖石」、高さ1.1mの三角錐型の石であるが、これは地表に出ている部分のみ。埋まっている部分がどれほどあるのか分からない。

肩部に樋状の溝があり磨かれているので、古代に石器を研いだ砥石だろうとも言われるが、その行為自体、豊穣を祈る儀式のためだったのかもしれない。
また、はるか東方に仰ぐ八ヶ岳赤岳を祭ったご神体だろうとも言われている。

尖石遺跡が存在していたころから信仰の対象であったのであろう。今だに強烈なオーラを感じる。

霧が峰
長野県上田地方と諏訪地方の間にある主峰車山(1925m)を中心にした霧ヶ峰火山群により形成された標高1500〜1900m、東西10km・南北15kmに広がる緩やかな地形の高原。
第三期フォッサマグナ地溝帯の中に噴出した霧ヶ峰火山の溶岩流によって形成され、さらに、その上に御岳火山の火山灰をかぶり、現在のような主峰車山(1925m)を中心とした、高原状台地を形成したものだそうである。
森林はほとんどなく大部分は草原となっている。
名前の通り年間298日は霧がかかり、特に車山付近の霧が深く、絶好の展望が見られるチャンスは少ないという。
この霧は南よりの風が上昇気流を生み発生すると言われている。
これだけの高い場所であるため、1月の最低気温の月平均は‐14.8℃、8月の最高気温の月平均は24.0℃で、冬は旭川より低く、夏は東京の5月か10月下旬の気温と同等、年間平均気温は2.5℃という。
ほぼ、1年の半分は季節的には冬であるが、積雪は1m程度とそれほど多くはない。
草原主体の高原であるため、900種類の高山植物が見られ、草原、湿原、岩場、林、渓流など自然環境が多様で、そこに生育する植物の種類が多く、群落も発達している。固有種としてキリガミネスゲ・キリガミネアサヒラン・キリガミネヒオウギアヤメなど約30種がある。
湿原が発達しており、八島ヶ原湿原は尾瀬ヶ原よりも泥炭層が発達しており、約8.1mの厚さがあり、およそ1万年以上かかり現在のような湿原になったという。学術的にも貴重であり、車山湿原、踊場湿原の3つの湿原を併せ、国の天然記念物に指定されている。
この泥炭層にふくまれる花粉の分析によって古代から現代までの気候の移り変わりを推測することもできるという。
詳細http://www.lcv.ne.jp/~kirivc/syokusei.htm

この霧が峰高原、現在は1大観光地であるが、一気に大衆化したのは1968年に開通したビーナスラインによる。

この道路は、長野県茅野市本町西の国道299号・国道152号と上田市武石上本入の美ヶ原高原美術館を結ぶ蓼科有料道路と霧ヶ峰有料道路の愛称である。

かつては有料道路であったが、2002年に全線無料開放され、中央自動車道との接続でさらに便利になり、雄大な自然が満喫できるようになった。

このビーナスラインの建設は自然破壊問題で色々と論議があったが、多くの努力により自然とのバランスが上手く取られているように思える。

左の写真は車山山頂から見た東の白樺湖と蓼科山。
車山から見た美ヶ原方面、遠く北アルプスが見える。 楯状台地が広がる。 高原にはニッコウキスゲが咲く。