信濃紀行1-1 続塩田平
岩鼻(長野県上田市/坂城町)
千曲川が流れる長野県上田市と埴科郡坂城町との境付近は両側にやたら目立つ垂直な崖、岩鼻がある。
崖の高さは南側で120m、北側の崖は200mあり、北側の崖上には和合城がある。
この崖、下から見上げると凄い迫力である。
遠くから見ても奇景色である。
この景観、見慣れた人には日常の風景であるが、始めて見る人は驚く。
↑上田の道の駅「上田道と川の駅おとぎの里」(長げえ!)から見た岩鼻の狭隘部と北方向。
右から張り出した岩山の上にあるのが名城「和合城」。狭隘部の先が長野盆地、川中島。
崖間の幅は700〜800mあり、そこを千曲川、国道18号線、しなの鉄道(旧信越本線)が通る。まさに交通の要衝である。
もっとも、ここしか通れるような場所がなかった。
(現在はトンネル技術の進化で、北陸新幹線、上信越自動車道は北側、太郎山山系をトンネルで通過する。
長野県は昭和49年(1974)「小泉、下塩尻及び南条の岩鼻」の名称で天然記念物(地質鉱物)に指定した。
「岩鼻」という名は、巨岩が今にも落ちそうにして千曲川に迫っている様子から、あるいは外観が人間の鼻の形に似ているからとも言われる。
南北の2つの崖はもともと陸続きであり、これを千曲川が侵食したことで、現在のような川を挟んで崖同士が向き合う地形となったという。
それまで岩鼻上流側、上田側は大きな湖であったいい、これを由来する「塩尻」、「海の口」、「海尻」、「海瀬」という地名が残っている。
↑岩鼻の南側の崖。高さ100m以上、でかい穴が開いている。
かつて、下を道路が通っていた。(現在はトンネルで抜ける)おっかねえ!
ねずみが岩を齧った?しかし、この穴、どうやってできたんだろう。
また、ここには大ネズミによって岩鼻が破られたことで、これより上流に存在した湖が失われたとする伝承がある。
そのあらすじは次の通りである。
かつて多くの子ネズミを従える大ネズミが村に住みつき、田畑を荒らし回っていた。
困った村人たちは大きなネコ(唐猫)をけしかけ、大ネズミを岸壁まで追い詰める。
大ネズミは死に物狂いで岩壁を食い破ると、湖の水がほとばしり、大ネズミや子ネズミ、そして唐猫ともども流れ去った。
岩鼻付近には「鼠」という地名があり(坂城町南条鼠の地図)、一説にはこの伝承に由来すると考えられている。
また、伝承の中で大ネズミを追い詰めた唐猫が流れ着き、息絶えた場所である長野市篠ノ井には、「唐猫神社」(軻良根古神社)という唐猫をまつった神社がある。
なお、「ねずみ」地名は和合城等の城郭があることから、狼煙リレーの狼煙や敵の襲来等を24時間監視し、合図の狼煙を上げる役目の「不寝見」に由来するという説もある。
おそらく、この事実が元だろう。
↑太郎山城砦群高津屋城から見た岩鼻、麓を千曲川が流れる。
この地は古代から交通の要衝であったが、当時は崖下を千曲川が蛇行しており、通れる場所が限られ、落石のリスクもあったという。
もちろん、洪水が起こると交通は不能となる難所でもあった。
そのため、この狭隘部は通れなかったという。
戦国時代は街道は西側の笹洞城のある室賀の谷を通り、室賀峠を越えて坂城に下りるルート、または北の崖を越え、和合城の東を通って坂城に下るルートを使っていた。
ここを突破しないと北信濃、川中島へは行けなかった訳である。
↑村上義清の本拠葛尾城から見た岩鼻の狭隘部、山の向こうが上田原。左の山の鉄塔の立つ山が和合城、千曲川が蛇行して流れる。
そんな地勢的背景で岩鼻の入口東側で武田信玄(当時は晴信)と村上義清間での「上田原の合戦」が起きている。
武田信玄はここの西の領主、室賀氏を調略し、西回りで坂城への道を開き、村上義清を越後に追っている。
近世、岩鼻下を北国街道が通過するようになったが、難所であることには変わりなく参勤交代で当地を通過する加賀藩の前田氏は当地の地形に危惧を抱いており、通過の際は金沢に使者を送り、自らの無事を伝えたという。
(Wikipediaを参考)
別所温泉駅(長野県上田市)
この駅は長野県のローカル私鉄、上田電鉄、別所線の終着駅。
この駅に始めて降り立ったのは半世紀以上も前のことだった。
でも、その記憶は抜け落ちている。
ここ別所温泉駅で降りて北向観音に行ったはずのだ。その写真は残っている。
しかし、上田駅から上田城まで同じ上田電鉄の今は廃線になっている真田傍陽線で行ったことは覚えている。
丸窓電車の丸窓越に俺のバカ面を写した写真がある。
2024年5月にその別所温泉駅に行った。
駅舎は小さい。そして、レトロ!泣きたくなるくらいの郷愁を感じる。
多くの映画やドラマにも登場する駅である。
1976年の男はつらいよ「寅次郎純情詩集」で別所温泉駅が登場した。
別所温泉の旅館で金が払えなくなり、警察のお世話になっている寅さんを「さくら」が迎えに行くシーンである。
駅舎はその時と同じ、塗装が新調されているだけである。
今は丸窓電車が駅に入って来るのではなく、東急払下げの現代的な電車が入ってくる。
なつかしき丸窓電車は駅の一角に展示されている。
1928年5月に日本車輌製造での3両が製造された。
初期の半鋼製車で、床は板張りである。
最大の特徴である楕円形の戸袋窓は、大正時代の木造電車に多かったが、1980年代までこの形態の窓を残していた車両はほとんどなかったという。
1986年10月1日に引退し、ここに保存されている。
半世紀前、俺のバカ面写真を撮ったのはこの車両か?
なお、この別所温泉も寅さんの聖地の1つ。
お世話になった警察署も今は派出所としてそのまま残っている。
さすが、カメラを向けるのは遠慮したけど。
常楽寺(長野県上田市別所温泉)
上田市の郊外、旧塩田の別所温泉は塩田北条氏の領土、塩田荘であり、信州の鎌倉と呼ばれ、鎌倉仏教や禅宗文化が栄えた。
別所温泉と言えば北向観音が有名であるが、管理はこの常楽寺が行っている。
天台宗の寺院で、同宗の別格本山である。本尊は妙観察智如来。山号は金剛山という。
平安時代初期の天長2年(825)、「七久里の里」と呼ばれていた別所温泉に観音菩薩が出現し、その霊地に菩薩を安置するため、円仁(慈覚大師)が開創したとされる。塩田荘は「信州の学海」と呼ばれるようになり、当寺はその中核を担った。
この塩田には安楽寺、長楽寺(廃寺)とともに「三楽寺」と並称されていた。
このうち、安楽寺には国宝 八角三重塔がある。
塩田北条氏は鎌倉幕府滅亡時に鎌倉に駆け付け、滅亡してしまうが、寺院はそのまま残る。
元和7年(1694)には長楽寺が廃絶されてしまう。
本堂は享保17年(1739)に再建されたもので寄棟造の茅葺、間口が10間(約18m)と結構広い。
上田市指定有形文化財になっている。
常楽寺には境内に国重文に指定されている多宝塔が一基建っている。
安山岩製で高さは274pある大型のものである。
この多宝塔の由来は次のように刻まれている。
「平安時代の初めのころ、別所の東北にある山の麓あたりの地の底が突然ゆれ動いて、大きな火の口があき、そこから紫色の煙がたちのぼり、南方へたなびいて今の北内観音堂の桂の木に止まった。
その先には金色をした千手観音の姿が見えたので、天長三年(826)北向の観音堂を建てて仏様を安置した。
そこで、このありがたい仏様が地中から現れた火口跡に、木造の多宝塔を建立し、常楽寺境内の最も神聖な場所とした。」
しかし、寿永年間(1182-84)にこの多宝塔が火災で焼けてしまい、弘長二年(1262)ョ真上人が、石で多宝塔をつくり、金銀泥で書かれた経を奉納した。」
以後、約730年、ここに建っている。
多宝塔の形は土台石の上に横長の直方体の石をのせ、幅の広いひさしをさしかける。
その上部は円筒形の身舎を造り出しその上に笠をのせ、一番上に細長い相輪を立てる。
常楽寺の多宝塔もこれと同形式で総高274.0cm、塔身は厚味のある四角形の石で上部を支える。
笠の背は低く降り棟の反りも少ない。軒先の切口は厚く四角で少しはねあげ、軒端を垂直に切り、重厚な風格を持つ。
その横には上田市指定文化財である石造多層塔が建っている。安山岩製で163pの高さがある。
大正13年(1924)別所温泉の旅館裏で水道工事中に多くの多宝塔、五輪塔、宝筐院塔が発見されたが、ほとんどは散逸してしまった。
この塔は関西の旧家にあったが、昭和56年この地に戻った。鎌倉時代の作とされる。