信濃紀行2 善光寺平
姨捨の棚田(千曲市)
JR信越線姨捨駅、長野自動車道姨捨SAからは、北に広がる長野盆地、眼下の千曲川の絶景を見ることができる。
ここは棚田が発達している。駅やSAから少し下った斜面部にそれがある。
棚田は日本各地にあるが、おそらくここが一番知名度があるのではないかと思われる。
古くから、「田毎(たごと)の月」として知られ、棚田に映る月が美しく見られる場所として知られている。
田毎の月とは長楽寺の持田である四十八枚田に映る月を言う。
この棚田は1999年に「姨捨(田毎の月)」として国の名勝(長楽寺境内、四十八枚田、姪石付近の棚田の3か所が指定対象)に指定され、
2010年には「姨捨の棚田」として重要文化的景観(名勝指定地を包含する64.3ヘクタールが重要文化的景観として選定)として選定され、さらに農林水産省により「日本の棚田100選」の第1号として選ばれている。
なお、従来から高知桂浜や京都府東山( 滋賀県石山寺とする説もある。)日本三大名月に数えられていた場所である。
千枚田とも言われる多くの棚田が形成されるようになったのは江戸時代からとされている。
しかし上杉謙信が武水別神社に上げた武田信玄討滅の願文(上杉家文書)に「祖母捨山田毎潤満月の影」との行があり永禄7年(1564年)には田毎に月を映す棚田が存在していたことが分る。
さらに道路工事に際して弥生時代の棚田が発掘されていて、棚田の形成はさらに遡るものと考えられる。
確かに斜面に段々に造られる棚田の見事さは素晴らしい。
それとともに遥か下に長野盆地、千曲川が流れる背景がそれを引き立てている。
当然ながら季節ごとに景観は異なり、冬は雪に覆われ、秋は黄金色に染まる。
そして初夏は苗が植えられた緑の風景となる。
田毎の月は水田に水が張られた初夏の風景である。
この棚田であるが、ここでの稲作は田が小さすぎ非効率である。
田毎に機械を移動させる手間ばかりかかる割に見合う収穫が少ない。
また、時代の波、農家の減少により、耕作ができなくなった田も多かったという。
そのため、一部、田のオーナー制を採用し、オーナーからの委託を受け、農家が田植えから収穫までを請け負っているのだという。
何とかこの景観を維持しているのだそうである。この風景のかなりの部分は観光用でもあるのだ。
長楽寺(長野県千曲市)
姨捨の棚田、田毎の月のある姨捨の中心がこの寺である。
寺の創建については不明であるが、古今和歌集に記されていることなどから、10世紀には、ここが姨捨山として知られていたと考えられている。
また江戸時代の写本と見られる長楽寺縁起(長野市立博物館所蔵)も存在する。
平安時代には存在していたのではないかと思われる。
天台宗の寺院で山号は姨捨山。姨捨山放光院長楽寺と号する。
本尊は聖観世音菩薩で信濃三十三観音霊場第14番札所になっている。眼下、付近に田毎の月で知られる棚田が広がる。
多くの歌人が月の名所であるこの地で歌、句を詠んでいるが、おそらくこの寺で詠まれたものであろう。
その歌碑や句碑が境内に多くある。
特に門脇の松尾芭蕉の句「俤や姥一人なく月の友」を刻んだおもかげ塚(芭蕉翁面影塚)が知られる。
芭蕉は木曽路から当地を訪れ、更科紀行にこの句が載る。詠んだのは貞享5年・元禄元年(1688)のことである。
小林一茶は4度ここに来ている。また、伊能忠敬も文化11年に訪れ日記に13の古詠を書きとめている。
本堂・庫裏は、天保5年(1834)に再建されたとあるが、建築様式から文化・文政年間(1804-1829年)の建築と推定されている。
本堂に接する観月殿は、元治元年(1864)の奉納額が飾られていることや、建築様式からこの頃の建築と推定されている
おもかげ塚の上方に建つ月見堂は、本堂と同じ頃の建築とされている。
境内の上方に建つ観音堂は、元禄4年(1691)に再建されたとあるが、虹梁の絵様の様式から宝暦・明和年間(1751-1771年)の再建と推定されている。
境内にある「姨石(姨岩)」が姨捨山縁起に書かれる伝説の姨捨山だと伝えられている。
高さ約15 m、幅約25 m、奥行約25 mという巨岩であり、頂上からの眺望と月の眺めが抜群
江戸時代後期の紀行文作家であった菅江真澄は夥しい人々がこの岩の上からの月見をしている様子を絵(秋田県立博物館所蔵)に残している。
しかし、これは本当だろうか?
夜、この岩の上で酒を飲んだら?酔っぱらって転落必死である。
こんな高い所から落ちたら、死傷者続出が間違いない。
また、千曲市指定天然記念物として姨捨長楽寺の桂ノ木が指定されている。
樹齢は500年以上とも800年-1000年とも伝えられている。
この木の存在から500年以上昔に寺の創建が遡ることが想定される。(Wikipedia参考)
不動滝(長野県千曲市佐野)
千曲市の西部、桑原地区から佐野川の谷を1qほど西に入るとこの滝がある。
この佐野川の谷は、現在は林道不動滝線が通るだけであるが、古来からは川中島と聖山、麻績、松本方面を結ぶ主要街道であった。
平安末期、この城の麓にある不動滝を訪れた西行法師の詩が「撰集抄」に収められている。
松尾芭蕉も「更級紀行」でこの滝を詠んでおり、多く人が行きかっていた。その谷間にこの滝がある。
林道の途中にある「不動滝」の標識が出ているところに車を置き、佐野川沿いの山道を行くと、途中、倒木等があるものの、佐野川にかかる橋をわたり不動滝まで行ける。
そしてこの滝が目の前に現れる。
そこは谷間のちょっとした平地であり、滝からの水粒子が霧のように舞うパワースポット空間である。
不動滝は佐野川に流れ込む滝の沢がひん岩の岩場に下る高さ14mの滝である。
さらに上流にも2つの滝がある。昔から打たれ水を浴びる修行の場であり、不動明王が祀られ、修験者が修行をしたという。
なかなか神聖さを感じさせる空間である。
平成19年NHKの大河ドラマ「風林火山」のロケがここで行なわれ、海の口城の落城から逃れた山本勘助がこの滝で倒れ込むシーンが撮影された。
高山寺三重塔(長野県小川村)
長野県小川村は長野市の西隣、筑摩山地の土尻川が流れる山間の地であり、長野と白馬を結ぶ幹線である大町街道こと県道31号線が通る。
この道路は長野オリンピック開催時に整備され、以前の蛇行した細い県道の時に比べ拡張整備され、これにより開けた感じの地になっている。
しかし、ここは何と言っても今では「おやき」で有名である。 小川村はこの郷土食の「おやき」を基に村興しを行い、全国的な大ヒットにつなげた。 おかげで本来、長野市に吸収合併される恐れがあったのだが、いまだに独立した村でいられるのである。 まさに「おやき」様さまである。 さて、ここで取り上げる高山寺三重塔のある高山寺、小川村役場から県道36号線を高度を上げながら鬼無里(きなさ)方面に北上した標高800mの山の山間にある。 寺は 「信濃三十三番札所巡り」の結願(けちがん)所として知られている。 大同3年(808)坂上田村麿が観音堂を創建したのが始めというが、あまりに昔すぎ伝説なのかどうか? 建久6年(1195)には、源頼朝が寺を移転、再建して三重塔を創建したと伝えられるので創建はここではなかったことになる。。 最盛期は末寺18ケ寺を持ち、七堂伽藍を誇っていたという。 今ある三重塔は、老朽化して倒れそうだった塔を江戸時代の元禄7年(1694)から5年の歳月をかけ、木食山居故信上人(1655〜1724)によって修造再建されたものという。 さらにその後、柿葺屋根の葺替が3回実施され、大正11年(1922)に銅板葺に、平成元年に昭和大修理を行い現在に至る。 長野県宝に指定され高さは17m、意外に小さく感じる。 何度も修理が行われているためか、非常にきれいな印象である。 |
諸角豊後守の墓
長野市立下氷鉋(しもひがの)小学校の北東300m、国道19号線と県道35号が交差する下氷鉋南交差点の南西200m、セブンイレブンの裏に墓がある。
かつては、国道19号線もなく、ここはりんご畑と水田に囲まれた墳墓であったが、昔からこのような状態できれいに管理されており、管理人を始めとする地元の悪ガキどもの格好の遊び場、並びに集合場所であった。
墓の主、諸角(両角、室住、諸住とも書く)豊後守虎定(昌清とも書いたものがある。)は武田信虎、信玄の2代にわたって仕えた重臣というが、実態は100人程度の足軽部隊を率いる足軽頭、部隊長クラスの武将であったらしい。
永禄4年(1561)の第4回川中島合戦で81歳と高齢で参戦、武田信繁が討たれると、わずかな手勢で敵陣に突入し、奮戦の末、討ち死、戦死したこの場所に葬られたという。
地元では、この墓を「もろずみさん」と呼び、塔之腰部落の「諸角講」の人々によって墓は維持管理され、毎年、慰霊祭が行われている。 故郷を遠く離れたこの地で命を落とした諸角豊後守虎定に対する同情が地元の人に強く、こんなに丁寧に維持されているのであろうか? なお、諸角豊後守の墓は、山梨県甲斐市竜王の豊後守開基の慈照寺にもあるそうであり、塔之腰の諸角講の人たちはここにも墓参しているそうである。 また、千曲市倉科に諸角豊後守の子孫という家が何軒かあり、この人たちは、毎年彼岸には塔之腰の豊後守の墓に墓参りし、武田典厩信繁の墓のある典厩寺で法会を営み、一族の絆を深めているそうである。 彼が戦死して450年も経つのに彼にかかわる行事が、子孫や地元で今も絶えることなく続いているのである。 |
しかし、以前、2006年12月14日、ブログでこんな記事を書いてしまった。
『(前略)実はこの墓の前の道は、管理人の中学への通学路であり、ここも遊び場の1つであった。
今はすっかり風景も変わってしまっているが、当時は果樹園と水田が周囲にあるだけであり、民家はなかった。
今でも墓の南側には当時の風景が残っており、ほっとした。
小学校のころ、この付近で遊び、そのうち幼馴染のKが便意を催した。
Kは我慢できず、周囲の制止を振り切り豊後守殿の墓の裏で脱糞するという蛮挙に出た。
おそらく草の葉っぱで処理をしたと思うが、そこまでの記憶は定かではない。
そのKがその冬、肥溜めに落下した。
当時、そこらじゅうに肥溜めがあり、通常は竹や板を渡し、わらをかぶせていた。
しかし、雪が降ると一面、真っ白になり、どこが肥溜めか分からなくなるのである。
Kはそのような状況の中、不幸にもわらを踏み抜いてしまったのである。
仲間は、豊後守の祟りと恐れた。
今でも、管理人、あれは祟りだと信じている。』
このエピソード、「諸角講」の人が聞いたら怒るだろうなあ。
桑山茂見の墓(狐丸塚)
広田砦の南、広徳中学校南のりんご畑の中に古い五輪塔がある。 これが桑山茂見の墓と伝えられる。 この墓は「狐丸塚」「狐塚」といわれる塚の上にあったものといわれ、この塚は首塚の一つであったという。 畑化のため、塚は破壊されたが、塚の上にあった五輪塔だけをりんご畑の中に残したのが今の姿である。 この墓に係る桑山茂見は、武田信玄に仕えた小笠原若狭守長詮の足軽級の無名の家臣である。 永禄4年(1561)の川中島の戦いで、主君を逃がすために主君の鎧甲に身を固め、狐丸の太刀を振りかざして戦い、身代わりに討ち死にしたと伝えられる。 合戦後に里人が桑山茂見の死を哀れみ、亡骸と武具を集めて塚を築いたという。 この塚の名前については伝説があり、夜ごと塚に狐が集まり鳴き騒ぐという噂がたち、若狭守が塚を掘らせたところ、若狭守が与えた太刀「狐丸」がみつかり、以来、この塚を「狐丸塚」「狐塚」と呼ぶようになったといわれる。 この狐丸の太刀についてもいわれがあり、京都三条の刀鍛冶、宗近は名刀を打つことを願い、藤の森の稲荷社(京都府伏見区深草鳥居崎町・藤森神社)に日参した。 |
その後、宗近が劔(剣)を打つ時に、一人の童子が現れ、宗近が聞くとその童子は「我は宇賀の御魂の神勅で参った末社の白狐神である」という。
このようなことから、白狐神が相槌して打ったので、この刀を狐丸と名づけたという。
なお、狐丸塚の伝承は、川中島町南原にもあり、『原村誌』には「文化年間(1804〜18)、農民が塚を崩したとき、一刀が出土した。祟りのあることを恐れて元に埋め戻したという。
さびた武具が塚から出たというような話は、この付近には多くあり、ここが激戦地であった証拠と言える。
なお、狐丸伝説は、稲作地帯の川中島では、狐が人家の近くに生息し、稲の害虫であるイナゴを食べることから、「うかたま」信仰と川中島の戦いを結びつけ、「狐丸塚」の民話を生んだものという説がある。
清水寺(長野市若穂保科在家)
「きよみずでら」でも「しみずでら」でもなく「せいすいじ」と読む。
保科氏発祥の地、菅平の西の沢筋にあたる保科の谷の奥にある真言宗智山派のお寺、正式には阿弥陀山護国院というが、通称は「保科のお観音さん」とか「牡丹のお寺」と言われている。
保科氏館跡である広徳寺の東、500mに位置する。
天平14(742)年行基が仏像を納めた草堂を建立したことにはじまるという。 延暦2年(801)坂上田村磨が直刀などを寄進し、大同元年(806)京都清水寺の号を賜り寺として建立したという。 奥州からの帰路、ここに立ち寄った田村麻呂は、無事のお礼に「鉄鍬形」をこの寺に奉納した。 この「鉄鍬形」は現存しており、日本最古(重要文化財)のものであり、田村麿所有のものに間違いないと言われる貴重なものである。 江戸時代には領主、真田氏の保護を受け、寺は盛隆を極め、総門・鐘楼・本堂・庫裏などの他、仁王門から観音堂に至る参道両脇には経蔵・三重塔・大日堂・釈迦堂・薬師堂・八将社などがあった。 しかし、大正5年に大火に会い、建物はほとんどを焼失してしまう。 しかし、「鉄鍬形」、両界曼陀羅図や千手観音など9つの重要文化財は無事であり、寺で保管されている。 北信濃の三大霊場の一つで、信濃三十三番札所の十六番ともなっている。 |
戦前は2000株の牡丹が植えられ、牡丹寺として知られたが、戦中には農地に転用されほとんど全滅状態であった。
現在は、地元の努力で400株まで復興した。
JJモデル出身の女優、賀来千賀子の女優デビュー作TBSテレビの「白き牡丹」1982(このドラマでの彼女の演技、椅子から転げ落ちるほど、余りに下手でこれが返って印象に残っているのであるが。)
このドラマは、この保科と須坂が舞台で、タイトルの牡丹はこの寺の牡丹を指す。