那須紀行

那須岳
日光国立公園内、栃木県那須塩原市と那須町、福島県西郷村にまたがる複数の火山の総称で那須連山とも言う。
奥羽山脈の南端に位置し、主峰は現在も蒸気と火山ガスを盛んに噴出している茶臼岳(1897m、最高地点は1915m)、切り立った岩壁上の朝日岳(1896m)、最高峰で緑に包まれた三本槍岳(1917m)等がある。
茶臼岳以外の山は死火山?とか。
約60万年前から活動してており、北側の甲子旭岳が60万年前、噴火し、順次、噴火が南下、三本槍岳が40万年〜25万年前に、そして20万年前から5万年前までの間に朝日岳と南月山が噴火した。

上の写真は有料道路の途中から撮った那須連山。左が溶岩ドームを持つ活火山の茶臼岳、中央が朝日岳、右が鬼面山。

噴火では流動性の少ない安山岩質溶岩以外に、流動性の良い玄武岩質溶岩も噴出し、現在見られる広大な裾野を形成したという。
現在活動している茶臼山は3万年前から活動しているという。
この山は流動性の少ない安山岩を噴出しているため、こんもりと盛り上がった溶岩ドーム形の形が特徴。
噴火は爆発型で泥流を生じやすいといい、1408年から1410年の活動では茶臼岳溶岩ドームが形成され、火砕流が発生し、180余名の犠牲者が出たという。

茶臼岳山頂から見た朝日岳 茶臼岳山頂は瓦礫だらけ 茶臼岳の火口。蒸気が吹き出ている。

以降は小規模な水蒸気爆発や地震群発を繰り返している。
この茶臼岳に15年ほど前の秋に登った。上の写真はその時のもの。
ロープウェイの山上駅から20分ほど瓦礫の道を駆け上がると山頂だった。
(実は登る気はなかったのだが、子供が勝手に登り始め、心配で後を追った。)
岩の間から蒸気が盛んに吹き出ていたのが印象的だった。
子供談「雲が岩の間から生まれていた!」・・確かに!。
その那須茶臼岳、冬の景色は厳しい姿。
2009年3月29日、ロープウェイ山麓駅まで行ったが気温は−3℃、突風が吹き荒れているので体感気温は−10℃以下。
とても外に出られない。ここは初夏のころまで雪がある。

その那須山麓に南が丘牧場がある。

南ヶ丘牧場は、栃木県那須郡那須町にある酪農を中心とした観光牧場で、正式には 株式会社 南ヶ丘牧場といい酪農経営企業。

現在日本各地に4つの牧場を経営している。
観光に力を入れており、観光牧場として公開している。入場無料なので客も多い。

牧場内では乗馬、魚釣り、アーチェリー、バーベキューができ、「ソフトクリーム」「ペロシキ(ピロシキ)」「ボルシチ」「自家産牛ステーキ」「ジンギスカン」などが売られている。

日本には少ないガーンジー牛(イギリスチャネル諸島のガーンジー島)を育成しているのも特徴。

1928年に 創業者の岡部勇雄が満州大興安嶺山脈の麓で開拓に従事して、大規模な酪農を行ったが、ソ連の参戦で岡部らは命からがら日本に帰り、1948年開拓団として那須高原に入植。

以後、ホルスタイン、 ガーンジー牛を導入して牧場を経営。ついで牧場を観光地化し、ロシア風黒パン、ペロシキ、スモークチーズ等の製造販売開始し、順次、建物を移築して拡張して現在に至っている。

良い写真がなかったので、末娘の小学校4年の時の絵で誤魔化し。

乙女の滝(那須町)
乙女の滝は、白笹山から流れる那珂川支流、沢名川にある幅約5m、落差約10数mの滝。
南ヶ岡牧場前の県道266号を板室温泉方面に進むと県道沿いに駐車場があり、そこから沢名川の渓谷に下っていくとお目にかかれる。
滝の名前の由来にはいくつかの説がある。
その地元に残る昔話の1つが次のような内容という。
「昔地元の若い釣り人が沢名川に行くと、滝の上に盲目の美しい乙女が現れました。
この話が村人に伝わり、後にこの滝の名前になった。」というもの。
またこの乙女は、沢名川の上流にある沼ッ原湿原の子守石に伝わる昔話と関係があるようで、盲目になった蛇の化身であるという伝説もある。。
他にも、滝のやさしく美しい流れが乙女の髪のように見えるという説や、滝壷に若い人魚が現れたという説などが伝えられている。
それほど大きな滝ではないが、水量の多い夏場は迫力があり、ミストが凄い。
このため、周囲はコケが多い。マイナスイオンが充満していると書いてあったが、確かにその通りかもしれない。


藤城清二美術館(那須町)
那須の観光スポットはほとんど行ったが入場料を取るものが多く、必然的に入場料も要らない那須プレミアムアウトレットや南ヶ丘牧場などに人が集中する。
今回、金を取られる施設である「藤城清二美術館」に行ってみた。
24時間テレビでも登場していた影絵画家の作品を展示している。
さすが、24時間テレビの放送日(2014年8月31日)だったので人が凄い。
周囲の道路まで車が溢れている。

しかし、入場料は1600円と他の施設に比べて高い。
他の施設は精々1000円程度、しかも割引が効くものが多い。
でも、ここは割引はない。ただし、この料金が高いがどうかは訪れた人の作品の見かたで異なるだろう。
藤城清二の作品が好きな人にとっては安いものだろう。
でも1600円という入場料を取るだけの敷地内、建物の整備は行われていた。

(プロフィール)
東京に生まれる。慶応普通部入学。
海軍で九十九里浜の海岸防備へ。人形劇を、部下の少年兵たちとも行う。
戦後再び慶応へ戻り、本格的に人形劇に取り組もうと考えていた時、人形劇の本と出会う。
筆者・小沢愛国氏を訪ね、その時に見せてもらったジャワの影絵人形にすっかり心を奪われ、影絵の世界へ。
身の回りのあき箱や包み紙などを使って、手作りの影絵劇を子供たちに見せ始める。
同じ頃、猪熊弦一郎氏に絵画を習う。

黒を生かす所などモダンな作風に藤城氏が受けた影響は大きい。
人形と影絵劇団ジュヌ・パントルを結成。
慶応大学経済学部卒業。テアトル系の映画会社の宣伝部に入社。
アメリカ映画は映画のカット割りや画面の構図など、かなり勉強になったと話す。
花森安治氏が創刊した「暮らしの手帖」で人形劇の写真を連載するよう勧められる。
その3号目の打ち合わせの時に突然停電になり、ローソクの明かりの中で影絵の話が出て、影絵を連載することに。
最初の影絵絵本「ぶどう酒びんのふしぎな旅」出版。

この時期体をこわし、会社を辞職、影絵一筋に創作していく決心をする。朝日新聞に毎日曜日影絵を連載。
何でも好きなように描いてほしいといわれ、こびとが頭に浮かんできたのだという。
大阪ロイヤルホテルで影絵展を開き、以後毎年の定期開催に。
一度思わぬハプニングで影絵を破られたことがあり、ショックで数日寝込んでしまう。
外務省派遣文化親善大使としてアラブ等を訪問、影絵劇を上演。
この時の公演は思い出深いものであったと、氏は今でも回想している。
春の褒章で紫綬褒章を受ける。イタリアで開催の国際船と海の博覧会の公式ポスタ−を制作。

春の叙勲で勲四等旭日小綬章を受ける。 (公式HPより)

殺生石(那須塩原市)
栃木県那須湯本温泉付近にある溶岩。
この付近では卵の腐ったようなものすごいにおいがする。
この岩付近から硫化水素や亜硫酸ガス、そして砒素などの有毒ガスが噴出しているため、近づく人や動物などを殺したことから、生き物を殺す石という意味から転じて、その名がついたという。
しかし、「九尾の狐」伝説も伝えられる。
その内容とは『中国やインドで美しい女性に化けて悪行を重ねた九本のしっぽを持つ妖怪、九尾の狐は、日本に渡り、女官・玉藻の前として鳥羽天皇に仕えいたところを見破られ、那須に逃げ込んだ。
その後も領民や旅人に危害を加えた為、神様か授けられた矢で射られ石と化したが、この石は猛毒を吹き出し、あらゆる生き物を殺した。
その後、至徳2年(1385)に玄翁和尚によって打ち砕かれ、そのかけらが全国3ヶ所の高田と呼ばれる地に飛散した』という。
(砕かれた殺生石が飛来したと伝えられる地は多数存在しているが、一般に美作国高田(現岡山県真庭市勝山)、越後国高田(現新潟県上越市)、安芸国高田(現広島県安芸高田市)、または、豊後国高田(現大分県豊後高田市)と言われている。)

元禄2年(1689年)4月19日(新暦6月6日)、芭蕉はこの地を訪れ、殺生石を見て「おくのほそ道」に「蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す」「石の香や夏草赤く露あつく」という句を詠んだ。
5月の最終土曜日に那須湯本の殺生石の前で『九尾伝説』のお祭り“御神火祭(ごじんかまつり)”が行われる。

正面に殺生石があり、歩道が作られている。 地獄ということで地蔵が林立 この岩が殺生石である。

ここに「湯の花畑」がある。「みょうばん」の採取場で、江戸時代、那須温泉の人々は湯の花(みょうばん)を春・秋2回採取し、年貢の代わりに収めたという。
「解説板」には次のように書かれる。
「噴気の出るところに赤土を締め堅め、雨水が浸み込まないようにして茅葺きの屋根を作ります。
半年経つと木きれに「みょうばん」が結晶し、花が咲いた様になります。
「みょうばん」は皮膚病の薬や漬物の発色剤として使われ、現在は湯の花とよばれ入浴材として使われています。」

御前岩(那珂川町(旧馬頭町)健武)

旧馬頭町で一番有名なものと言えば何といってもこの岩であろう。
ほとんどの地図に名所として印が付いている。

解説によると
『今から約 280 年前(元禄 5 年)徳川光國公が領内検分の折、御前岩をご覧になられると
「これは誠に天下の奇岩じゃ」と驚かれて「かかるものを衆目にさらすことは、よろしからず」
と土地の役人に命じて、御前岩の対岸に竹を植えさせました。

この竹を腰巻竹といって県道から直接には見えないようさえぎられております。
御前岩の中程から霊水がしたたり落ちたといわれております。

言い伝えによると当時大字大内久通地区に淵がありサイマラ淵と名付けられており川岸には巨大な男根石があり「オンマラ様」と呼んでおります。

その「オンマラ様」は明治の末期大洪水があったとき哀れにもくずれてサイマラ淵に沈んでしまいました。

それを知った御前岩は悲しみのあまり霊水の変化は見られなかったと言うことです。』
と書いてあった。

この岩の存在は知っていたのだがなかなか行く機会がなかった。
念願?かなって見た実物はうわさどおり逸品、リアルであった。
解説板も余りにおかしくて涙無くしては読めない内容である。

しかし、こういう発想をする黄門さんもかなりスケベである。
これが御前岩。えらいもんである
それにしても大らかな逸話である。
こういうのは管理人、大好きである。

家族に写真を見せたら「見たい」と言っていた。
しかし、連れて来るには少し抵抗があり、まだ、実現していない。

職場でも見せたので誰か見に来た物好きがいると思うが・・。

この岩の割れ目のふちを良く見ると、ピンクのペンキを塗った跡がある。
これを見て思ったのだが、どうやってペンキを塗ったんだろうと素朴な疑問が湧いた。
右の竹林が腰巻竹である。
かえって卑猥であるような・・。
山側からだとロープを垂らして降りるしかないがこれは難しそうである。無理だろう。
川を渡って行くことも考えられるが、岩の前は深く、腰まで水につからないと岩まで行けない。

冬に川が凍結したら可能かもしれない。

果たしてどんな奴(絶対、男だ。)がどんな顔してペンキを塗ったのだろうか?
意外と真面目な顔して塗ったんだろう。
その表情、想像しただけで笑ってしまう。

しかし、よく縁にピンクのペンキを塗ることを発想したものである。
ところで「オンマラ様」ってどこにあったのだろうか?

侍塚古墳群(大田原市(旧湯津上村))

栃木県大田原市(旧湯津上村)の那珂川の河岸段丘上にある巨大前方後方墳である上侍塚古墳と下侍塚古墳の2基の古墳を盟主とする古墳群。
この2基は昭和26年6月9日に国指定史跡に指定。

国道に面した右の写真の下侍塚古墳が良く目立つ。
下侍塚古墳は上侍塚古墳に次ぐ全長 84m、後方部 長さ 48m 高さ 9.4m、前方部 長さ 36m 高さ 5mという規模で、築造は、出土遺物や墳形野特徴などから5世紀初め頃と考えられている。
元禄5年(1692)、徳川光国の命で助さんらが発掘調査し、鏡、鎧片、鉄刀片、土師器壷、などが出土している。
この古墳の北側東側に円墳6基(最大は5号墳の27m)、全長40mの前方後円墳1号墳、1辺17mの方墳8号墳など8基が散在している。(下の写真)
かつては10基があったが、破壊されたと言う。 

左の写真の上侍塚古墳は、那須地方に分布する6基の前方後方墳の中では最大規模。

全長 114m、後方部 長さ 58m 高さ11.5m、前方部 長さ 52m 高さ 6.5mという規模で、ここも助さんらが発掘調査し、鏡(捩文鏡)・鉄鏃・石釧・小札・管玉・鉄刀片・土師器高坏などが出土した。

下侍塚古墳と同時期の造築と言われる。
すぐ北側には、全長約48.5mの前方後方墳、上侍塚古墳の縮小版の上侍塚北古墳がある。
(現地案内板等を参照)

笠石神社(大田原市(旧湯津上村))
小さな田舎の神社に過ぎないが、実はここに国宝がある。
その国宝とは、多賀城碑、多胡碑と並んで日本三大古碑の一つ、那須国造碑。この石碑が神社の御神体である。
ここ栃木県大田原市の旧湯津上村で侍塚古墳と並んで有名なのが、この古碑。残念ながら覆堂が造られ、直接見ることはできない。
イースター島のモアイ像の帽子のように笠石が載せられており、笠石とも言われ、これが神社の名前でもある。
この形式は多古碑と同じだそうだ。碑材は黒御影石。

大きさは、碑身が最大幅48cm、最小幅43.5cm、高さ120cm。四柱造りの笠石は、51cm四方で高さ30cm。
右の写真、鳥居の奥の覆堂に安置されている。

1文字約2cm角で六朝的書風を保つ楷・行書の文字152字が彫られている。
7世紀末、那須国造に任ぜられた那須直葦提の功績を息子の意志麻呂らが顕彰するために建立されたという。

その後、長い間、謂れは忘れられており、地元ではただ「笠石」と言っていたという。
延宝4年(1676)、僧侶の円順が内容を解読し、領主である徳川光圀(この地は水戸藩領)が笠石神社を創建して、碑の保護を命じた。
その後、上侍塚古墳と下侍塚古墳が碑文に記された那須直葦提、意志麻呂父子の墓と推定して、助さんこと佐々宗淳に命じている。
侍塚のところで述べた我が国の発掘調査である。
残念ながら、黄門さんの推定、200年ほどの時間差があり外れていた訳である。
まあ、これは仕方ないことだろう。

 碑文は冒頭に永昌元年(689、「永昌」は後周則天武后の元号。持統天皇3年にあたる)の葦提の評督任官および「庚子年」すなわち文武天皇4年(700)の死去記事と息子と思われる意斯麻呂らによる本碑建立の由来が書かれる。
以下、現代訳にすると
「永昌元年己丑の四月に、飛鳥浄御原の大宮から、那須国造の追大壹でありました那須の直葦提(あたい、いで)は、”評督”との官職を授かりました。
そして庚子の歳の正月二日壬子の日の辰の節に、長逝しました。
そこで遺嗣子の意志麻呂を首とします私共は、碑銘を立て遺徳を頒し、故人を偲び祀りました。
うやうやしく仰ぎ奉りかえりますと、長逝しました公は、広氏の尊い後胤で、那須国の柱、朝廷の重鎮とも言うべき方でありました。
その一生は、浄御原の大宮より追大壱にあげられ、さらに評督職を下賜されて、二度にわたっての光栄にあづかり、光輝のある命脈を高めました。」
と書かれる。 

なお「永昌」は中国の年号で、当時朝鮮半島の新羅では中国の年号をつかっていたというので、那須地方に新羅と関係が示唆され、直葦提なる人物は渡来人または帰化人の子孫かもしれない。
しかし、渡来人否定説もあるらしい。
(現地解説板及びパンフレット等を参照)
ここは田舎であるが、侍塚古墳といい、この碑と言い、古代は豊かな地であったのであろう。
那珂川の水運とか、水に恵まれていた水田が発達していたためか?それとも八溝山の金?