水戸紀行 2

旧茨城県庁舎(水戸市三の丸)
水戸城の三の丸の地には茨城県の県庁があった。
県庁移転に伴い、ほとんどの建物は撤去されたが、旧県庁本舎はそのまま残されている。

この建物は昭和5年(1930)に建設された。明治時代から流行している近世ゴシック建築様式で赤レンガ張りの外観である。
デザイン、外装材、スタイルなどに、昭和初期の建築物の流行的傾向が見られるそうであり、落ち着いた重厚な印象を与えている。
現在、茨城県に残る明治以降の洋風建築物では最大の規模だそうである。
平成11年(1999)まで69年間、現役で使われ、現在は三の丸庁舎として使用されている。
窓が多く、非常に熱効率は悪そうで夏、暑く、冬、寒いと県庁勤務の人が言っていた。
県庁として現役時代のこの建物には、一度だけ入ったことはあるが、さすが古臭くて、人や書類も多いので、狭く、居住性は悪そうであった。
当時はこの建物だけではとても足りず、周囲に多くの分庁舎があって、敷地全体がごみごみした感じであった。

県庁移転後、周辺の建物は撤去され、敷地は公園となり、本庁舎が堂々と建っている。
周囲がすっきりして広々としたお陰で、貫禄と味を感じさせている。
横にあるポプラの巨木が建物の色と良くマッチし、秋日を浴びて美しい。

パスポート発行手続きはここでやっている。隣接して茨城県立図書館があるが、ここは県会議事堂を再利用したものである。
建物の周辺は駐車場と公園となっており、都心部の公園なので子供連れのお母さん達が多い。
確かにここは横に水戸警察署もあるので超安心である。

なお、県庁が郊外に移転し、県庁職員もいなくなったので、この周辺はすっかり寂れてしまった。
かつては水戸駅から旧県庁付近にかけての一帯は大繁華街で水戸の中心地であったが、中心地は県庁が移転した南の国道50号線沿線の郊外に移っており、ここ旧県庁周辺は、今は日曜日でもがらんとした感じになっている。
(電線が地中に埋設され、電柱やアーケードが撤去され、すっきりしたこともある。
一番大きい要因は駐車料金が高いなど、自家用車で来にくいことがある。)
でも、非常に落ち着いた雰囲気でこれもまた良い。

この旧県庁舎、映画やテレビドラマの撮影に使われている。
以下、いばらきフィルムコミッションHP http://www.ibaraki-fc.jp/about.htmlより、その出演リスト

映画:「魍魎の匣」「スクラップ・ヘブン」「日本の青空」「日本以外全部沈没」「NANA2」「不撓不屈」「イケルシニバナ」「半落ち」「ポチの告白」「バブルへGO!」

テレビドラマ:日本テレビ「最後の弁護人」・フジテレビ「海のオルゴール」・テレビ東京「奈良斑鳩の里 殺意の径」・日本テレビ「ブラックウィドー」・フジテレビ「壁ぎわ税務官」・テレビ朝日「新幹線を作った男たち」・NHK 「ねばる女」・TBS「検察審査会」・テレビ東京「新米事件記者 杜乃三咲の事件簿」・WOWWOWドラマ「自由戀愛」・テレビ朝日「弟」・テレビ朝日「富豪刑事」・フジテレビ「世にも奇妙な物語’05」・テレビ東京「新米事件記者・三咲2」・日本テレビ「小泉純一郎5つの謎」・テレビ朝日「仮面ライダーカブト」・テレビ朝日「愛と死をみつめて」・テレビ朝日「PS 羅生門」・フジテレビドラマ「遥かなる約束」・フジテレビ「潮風の診療所〜岬のドクター奮戦記」・フジテレビ「ザ・ヒットパレード」・テレビ朝日「警視庁捜査一課物語 9係」・テレビ朝日「誕生」・テレビ東京 「上を向いて歩こう〜坂本九物語〜」・フジテレビ「紅の紋章」・TBSテレビ「松本清張ドラマ“波の塔”」

テレビバラエティ:テレビ朝日「大発見!驚異の免疫パワー」・テレビ東京「TVチャンピオン 似顔絵職人選手権」
CM・写真撮影他:BBC 「Time Watch」・プロモーションビデオ 「ヴィドール」・スチール撮影「銀杏坂商店街ガイドブック2007」・スチール撮影「雑誌FUDGE」

格さんの墓(水戸市松本町)
ご存知、TVドラマ「水戸黄門」に登場する渥美 格之進のことである。
もちろん佐々木助三郎こと助さん同様、架空の人物である。
ドラマでは、まじめで実直と言う設定である。
ドラマの最後を飾る乱闘シーンでは、格さんは柔術と素手による打撃で戦う。
剣の腕は助さんが上らしい。

最後の決めゼリフ「ひかえい、ひかえい。ここにおわすはどなたと心得る。先の副将軍、水戸光圀公なるぞ。」と言って、印籠を取り出すのが彼である。

ちなみにドラマ「水戸黄門」のベースは、明治時代、大阪の講談師「玉田玉知」が、幕末の講釈師の創作による『水戸黄門漫遊記』の中に、徳川光圀のお供役として、澹泊をモデルにした家来を登場させ、澹泊の通称である安積覚兵衛から渥美格之進(格さん)と命名したことによるという。

その格さん、モデルが実在の水戸藩士・安積澹泊。その彼の墓が水戸市北西部の常盤共同墓地にある。
この墓地、水戸藩士の墓地団地である。すぐ西には愛宕山古墳や茨城大学がある。

北は那珂川が望まれる台地の縁で、眺めがいい。
諱は覚、字は子先、通称は覚兵衛、号は澹泊、澹泊斎、老圃、老圃常山、老牛など沢山の源氏名?を持っていたようだ。
生きたのは明暦2年11月13日(1656年12月28日)から 元文2年12月10日(1738年1月29日))で82歳まで長生きした。
地元水戸生まれ。この人、学者である。剣術の腕は?である。
多分、大したことはなかったんじゃないかな。

寛文5年(1665年)江戸にて朱舜水の門下となり儒学を学んで、水戸に帰って天和3年(1683年)彰考館編修となり、光圀の命により『大日本史』の編纂を始め、元禄6年(1693年)38歳で彰考館総裁となる。
正徳4年(1714年)には、彰考館総裁を辞任するが、死ぬまで大日本史の執筆、校訂を続けた。
勤勉博識で多くの著作を残したという。
石高は300石だった。生粋の学者人生である。
その彼がTVドラマの超有名人。一番、驚いているのは彼本人だろう。

保和苑 (水戸市松本町)
水戸藩家老「中山氏」の菩提寺である大悲山保和院(だいひざんほわいん)桂岸寺(二十三夜尊)の境内に作られた日本庭園で、徳川光圀が好んだ庭園だったという。
名付け親も彼である。日本式庭園の苑内は1.5haの広さがあり、青や白色の西洋あじさい、がくあじさい等30数種類、約6,000本が咲いている。
この直ぐ西が、「常盤共同墓地」、「回天神社」である。

整備されたのは最近であり、昭和初期に地元有志の手によって拡張整備され、池に築山を配した純日本庭園になったという。
でも1つの寺では管理できなかったのだろう。

昭和25年、管理が桂岸寺より水戸市へ移管され、昭和36年地元と市による保和苑振興協議会が発足し、運営され、昭和30年代、苑を拡張してあじさいの植栽が行われ、あじさいの名所になったそうだ。
水戸市の凄いところは、ここや偕楽園、千波湖周辺をきれいに管理し、無料で市民に開放していることである。
この金のないおりに見上げたものだ。

回天神社と水戸殉難志士の墓(水戸市松本町)
この神社は、昭和44年には明治維新百年を記念し造営された新しい神社である。
ここは、安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変、天狗党の乱で亡くなった1,785名の水戸藩志士の霊を慰めるために造られた。

しかし、これだけの人材を幕末、水戸藩は失っているのである。
かなりの者がエリートクラスの人物である。

一気にこれらの優秀な人材を失った結果、水戸を始め、茨城県は引っ張っていく人材が不在となってしまったのである。
これが、つい最近まで後進県に甘んじていなければならなかった原因と言える。
つまり、100年間も影響が出たのである。
ここには、墓石371基が、整然と並んでいる。
天狗党の烈士の墓である。整然とした中に戦慄を感じさせる光景である。

この神社の1角に「回天館」がある。
以下、回天館前の解説抜粋
 『元治元年(1864)3月27日、尊王攘夷の旗を翻して、筑波山に挙兵した藤田小四郎、田丸稲之衛門等のいわゆる天狗党の志士達(当初72名)は、幕府討伐軍や水戸の佐幕派と各地で激戦を展開した。
やがて、小四郎達は武田耕雲斉を総大将に仰ぎ、尽忠報国の至誠を、禁裏守衛総督として京都に滞在の、一橋慶喜(後15代将軍)を通して、朝廷に訴えるため、常陸大子に集結し、11月1日京都へ向って出発した。

 総勢1000名の志士達は、下野、上野(下仁田)、信濃(和田峠)等において、幕命を受けた諸藩兵と戦い、厳しい雪道の難行軍が続いた。
12月初旬、越前国(福井県)に到着したところで、頼みとする慶喜公が、一行に対する討伐を命じたとの報を得て、軍議の結果12月17日加賀藩に降伏した。

志士達823名は、越前藩の3寺院に分散収容され、加賀藩の手厚い保護を受けたが、翌慶応元年正月29日、幕府討伐軍軍艦田沼玄番頭意尊によって、敦賀にあった16棟の鰊蔵に押し込められ、残酷極まりない処遇を受けた。
同年2月4日から23日の間、総大将の武田耕雲斉や藤田小四郎達351名がこの鰊蔵から引き出され、敦賀の松原において斬首された。
斬首を免れた志士達も、流罪、追放等の措置を受け、故郷に帰ることのない無念の死を遂げた。
昭和32年、維新回天の偉業に殉じた天狗党の忠誠の魂と、無念の血涙とが沁み込んだ16棟の鰊蔵のうち、1棟が、敦賀市の厚意によって水戸市に寄贈され常盤神社境内に復元され、回天館と名つけられました。
しかし、老朽化してきたため、この歴史的建物を保管管理するため、有志を募り、志士を祀るここ回天神社に移築したものである。」

内部にも入れるが、天狗党の資料などを展示されている。
扉や板壁などには牢居していた人々の血書の文字が散見される。
ここに50人くらいが閉じ込められていたという。
天井や壁には浪士の怨念が篭もっているかのようである。


藤田 東湖の墓(水戸市松本町)
格さんが眠る常盤共同墓地に眠るもう1人の有名人が彼、藤田東湖(ふじた とうこ)である。
彼がいたから水戸の尊王攘夷思想が生まれ、それが安政の大獄、桜田門外の変、天狗党の乱に至ったとも言える。
そんなキーを握っている人物が彼である。

生まれたのは、文化3年3月16日(1806年5月4日)、亡くなったのが 安政2年10月2日(1855年11月11日))である。
彼は幕末の水戸藩の政治家、水戸学藤田派を創設した学者でもある。
水戸藩では戸田忠太夫と双璧をなし、徳川斉昭の懐刀として水戸の両田とも言われた。
(武田耕雲斎を加え、水戸の三田ともいう)

水戸学の大家として全国の尊皇志士に大きな影響を与えた人物である。
「東湖」は当然、号であり、生家の東に千波湖があったことにちなむという(今の千波湖は埋め立てられているため、現在、生家跡から東に湖は見えない)。本名は彪(たけき)、字を斌卿(ひんけい)と言い、虎之助、虎之介、誠之進の通称を持つ。
藤田家は江戸初期は百姓をしていたが、水戸城下へ移って古着商を営み、武士になったという。

多分、献金か、借金の棒引きで武士になったのではないだろうか。
200石取りだったという。武士としての腕は不明であるが、学者としては一流であったようであり、水戸学を大成する。
政治家としては、徳川斉昭を補佐し、郡奉行、江戸通事御用役、御用調役を歴任、天保11年(1840)には側用人として藩政改革に当たる。

しかし、弘化元年(1844)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、同年9月には禄を剥奪され、同3年(1846)斉昭が謹慎解除されるとそれまでの責めを受け江戸屋敷に幽閉、翌年謹慎処分となる。嘉永3年(1850)水戸に戻り、安政元年(1854年)に斉昭復帰とともに側用人に復帰している。
しかし、文政2年10月2日(1855年11月11日)に発生した安政の大地震の際、小石川後楽園にあった屋敷で、母親を助けて倒壊した屋敷の下敷きとなって圧死する。享年50歳であった。

愛宕山古墳(水戸市愛宕町)
北に那珂川を望む水戸台地の縁にある。
5世紀初頭の築造と考えられる県内に3番目に大きな全長136.5mという大きさを持つ前方後円墳。
ちなみに1位は石岡の舟塚山、2位は常陸太田市の梵天山だそうだ。
古墳全体が巨木に覆われ、後円部には愛宕神社が建つ。(左の写真)

説明立看板には、
「この古墳は全長136.5m(前方部幅75m、高さ9m、後円部径78m、高さ10m)の規模を誇り県内最大級の前方後円墳である。
有段の墳丘と、みごとに長く延びる前方部、東方、北西の一部に堀を残すなど、その古式形態を保ち築造当時の面影を現代に伝えている。
古墳の築造年代は、その墳形や後円部墳頂及び裾部におて発見された大型の円筒埴輪などから6世紀初頭であると推定される。
当時那珂川両岸におかれた仲国(なかのくに)の支配者として君臨した首長の墓であることが考えられ、考古学及び古代史研究の上重要な意義をもつ古墳である。
  水戸市教育委員会 」

国道118号の末広町三と袴塚二の中間の東段丘上住宅街の中にあるが、この辺は道が狭く入り組んでいて分かりにくい。
南西側にちゃんと駐車場があり、後円部の頂上にある愛宕神社までここから参道がついていて、行けるのであるが、その場所が見つかるかどうか?
だめなら、水戸市生涯学習センターの駐車場から行くのが良い。
ここは広い。
東側にも前方部から登る参道が付いている。

ちなみに水戸市生涯学習センターの駐車場にも馬塚古墳という円墳がある。(右の写真)
主の愛宕塚の陪塚であったが、5基の円墳と1基の前方後円墳があったが、この1基を残して隠滅しているそうだ。

水戸市水道低区配水塔(水戸市三の丸)
水戸城三の丸の旧茨城県庁に行き、北側を見るとこの洒落た建造物が目に入る。
これが水戸市の低地への配水を目的として1932(昭和7)年に造られた「水戸市水道低区配水塔」である。

壁面や窓の周囲に細かいレリーフが飾られ、2階部分の装飾回廊、入口はゴシック風装飾がされ、イスラムの寺院のようにも見える。
管理人はずうっとこれをイスラム寺院だと思い込んでいた。

多分、御茶ノ水のニコライ堂を連想したためだろうか?
水戸市は台地上の上町(のちの上市)と千波湖を埋め立てて開かれた下町(下市)に分かれており、この施設は下市地区への配水用に使われた。当時の金で5万1159円を要したという。

設計は、津市や鶴見・熱海・真鶴の水道工事監督も務めた、水戸出身の水道技師・後藤鶴松で、起工式の日に生まれた娘を塔美子と名付けるほど、この工事に力を注いでいたというエピソードがあるそうである。

竣工直後から水戸の新名所として評判になったという。
1985(昭和60)年5月、近代遺跡として近代水道百選委員会により近代水道百選に指定され、1996(平成8)年12月、文化庁から登録有形文化財の指定(文化庁)されている。
1998(平成10)年まで現役であったが、現在は公園となり保存されている。
高さ21.6m、直径11.2m
http://www5f.biglobe.ne.jp/~punch-ht/mitotei01.html参照。


涸沼の風景
涸沼(ひぬま)は茨城県中東部、鉾田市、東茨城郡茨城町、大洗町の1市2町にまたがる汽水湖。
面積は8.8平方q、周囲22q、最大水深3.1m。中禅寺湖と大きさは同じくらい。
かなり大きな湖であるが、残念ながら全国的に知名度は低い。
周囲に山もなく、のっぺらした感じだからだろうか。この点、少し南の霞ヶ浦や北浦と同じである。

昔は太平洋の入り江だったが、海への出口部が砂州や河川の堆積でせき止められ、湖化したものである。
霞ヶ浦、北浦、千波湖も同じ過程で誕生した。
海とつながっていた少し北の岡先端にには巨人伝説「だいだらぼっち」で有名な大串貝塚がある。
ここの貝はアサリ、アワビ、サザエやシジミであり、海と川の貝の混在という。
この貝塚、常陸風土記に記載があり、もっとも古い貝塚の記録だそうである。
湖からは那珂川に注ぐ涸沼川が海と繋がり、満潮時には海水が流入するため、海水魚と淡水魚がすむ。
ニシンも遡上し、ボラ、セイゴ、ハゼ、コイ、シジミなど年平均約3000トンの漁獲量がある。
釣り客も多く、天橋立状の砂州が延びて広浦の秋月、親沢の砂州とともに、水戸八景の一つに数えられ名勝になっている。

北岸 親沢から見た西の筑波山方面 親沢から見た東の大洗方面
古くから記録にあり、大串貝塚同様『常陸国風土記』に記載があり、香島郡条の香島郡の範囲を記した部分に、
「北は那賀と香島との堺なる阿多可奈湖」という記述がある。「阿多可奈湖」は「アタカナノミナト」と読むという。これが涸沼のことという。
『新編常陸国誌』は「阿多可奈湖」とは「暖湖」という意味で、涸沼が「水勢疾カラズ、水留滞シテ清冷ナラズ」という状態であるところからこう名付けられたとしている。
一方、那珂湊を指すという説、両者をまとめて指す総称という説もある。
『将門記』には「蒜間之江」と書かれる。
その他、涸沼には「蒜間湖」「乾沼湖」「日沼」「干湖」「蒜湖」「広浦」とさまざまな別称がある。

地元では涸沼といえば「しじみ」、南岸にある保養施設、「いこいの村」に泊まったら、3食ともしじみ攻めで参った。嫌いじゃないけど、毎食出ると・・ちょっと、ご容赦を。
この「いこいの村」・・思い出がある。以前、ここでの結婚式に招待された。
ここの女子職員と管理人の部下が結婚式を挙げた。なんでも4対4の合コンをやり、そのうち3組が次々とゴールインしたのだ。(取り残された1名は誰かはあえて追求していないが・・・)
その最後の3組目の式もやはり嫁さんの職場で、ということで招待された。
支配人さんとは3度目の顔合わせ、もう顔馴染み。
はじめ「女の子の幸せは結婚して・・・」なんて殊勝なことを言っていたが、酔うと「主力3人が抜けて・・この先、どうやって乗り越えればいいんだ・・」とぼやく。
これにはかける言葉も見つからなかった。

←南岸、親沢の対岸、網掛公園から見た東の大洗方向

勘十郎堀(茨城県茨城町)
江戸時代の奥州方面から江戸方面への物流は、リスクの高い太平洋沿岸を航行することを避け、船が那珂湊から涸沼川をさかのぼり、涸沼に入り、涸沼南西部の海老沢や網掛で陸揚げを行い、小川や下影吉方面に陸送し、霞ヶ浦や北浦の水運を利用して江戸に運ばれたという。
しかし、陸揚げ、陸送し、再度、船積を行うのは非効率であり、陸送ではそれほど多くの荷物が運べないという欠点があった。
このため、水戸藩は宝永4年(1707)浪人松並勘十郎を起用し、海老沢から現在の鉾田町紅葉地内の巴川までの間に紅葉運河(約8km)と大洗町大貫町の海岸から涸沼川までの間を結ぶ大貫運河(約1km)を開削する計画をたて工事に着手した。

水戸藩はこの運河計画により那珂川と涸沼、北浦、利根川を直接水運で結んで外海より安全な航路と大量輸送を確保し、その航路を利用する舟から通行税を取り立てて藩財政の立て直しにあてようとした。
しかし、工事は難航し、水戸藩内の各地から領民を強制的に集め過酷な労働に従事させたため、犠牲者も出たという。
動員した人数は述べ130万人にも達し、賃金もほとんど払わなかったという。
そのため、宝永6年(1709)領内全域で農民一揆が発生し、計画は頓挫、勘十郎ら関係者は責任を転嫁され、投獄され、獄死したという。

政策を指示した独裁者が政策実行担当者を死刑にした国がどこかにあったねえ。
会社でも似たことしている所も多いねえ。
この運河は勘十郎にちなんで勘十郎堀と呼ばれたが結局、、完成することはなかった。
今残る堀は幅24m、深さ20〜30mほどとなり、元々谷津であった部分を利用して、これを掘り下げ拡張したものであるが、これを人力のみで工事したというのは信じれられない。
現在、重機を使ってもこれだけの土木工事量は凄まじい量である。
とても江戸時代には無理と思うが。
発案者、アイデアは良かったのだが、現場を見てないのかもしれない。