松代紀行

象山神社
幕末の松代藩士で思想家の佐久間象山を祀る。
知恵と学問の神として信仰を集め、受験の神様として合格祈願の参拝が多い。本殿等は国の登録有形文化財で、園池は登録記念物。
大正2年(1913)の象山殉難五十年祭を機に、地元松代町出身の大審院長横田秀雄を中心に神社建立が計画され、昭和13年(1938)に創建された新しい神社である。
この場所は真田信之の家臣で信之に殉死した鈴木右近忠重の子孫の屋敷跡があった場所である。

神社入口に建つ象山像 神社の鳥居

境内には象山ゆかりの建物が移築されている。
境内にある高義亭は 安政元年(1854)象山は吉田松陰の渡航事件に連座し、9年間国元蟄居を命ぜられ、松代藩御安町にある江戸詰家老望月主水の下屋敷に住むことになった。
その屋敷を聚遠楼と称していたが、その一角にあった別棟を書斎として客間に当てていたのが高義亭。
幕末、多くの明治維新の志士たちが訪れ、この二階の七畳半の間で対談し、国家の時勢を論じたという。
昭和53年(1978)現在地に移築。長野市指定文化財。

境内に移築されている象山が謹慎していた高義亭 神社南西側にある象山生家跡

佐久間象山宅跡は、象山神社に隣接する。
当時のものは井戸のみ「象山先生誕生地」の碑が建つ。長野県指定史跡。
ここに象山は2度目の江戸留学となる天保10年(1839)まで住んでいた。
下級藩士ではあったが、父国善が卜伝流剣術の達人で道場を開いていたため、比較的裕福な幼少時代であったらしい。
しかし、元治元年(1864)、佐久間象山が京都において暗殺されると佐久間家は断絶となり、屋敷も破壊された。


松代大本営
太平洋戦争末期、空襲などを避けるため、皇居、大本営、その他重要政府機関等の国家中枢機能を現在の長野市松代地区などの山中に掘られた地下坑道に移転しようとした。
1944年7月のサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になり、松代への移転工事が閣議で了承された。
地下壕は3か所掘られ、象山地下壕には、政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。
舞鶴山地下壕に皇居、大本営を移転し、舞鶴山にコンクリート製の庁舎が外に造られた。
皆神山地下壕は備蓄庫とされた。
3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。

選定理由は近くに長野飛行場があり、固い岩盤で掘削に適し、10t爆弾にも耐える、山に囲まれていて、地下工事をする十分な面積がある等という。
工事は極秘に進められたが、運び込まれる大量の物資と人が住民の目に留まり、地元では「大本営と天皇陛下が東京から移ってくる」という噂が広がっていたという。

地震観測所になっている舞鶴山地下壕 竹山城の下にある象山地下壕 天皇の御所に予定されていた福祉施設

1944年11月11日から工事が開始され、朝鮮人約7000人と日本人約3000人が当初8時間三交代、のち12時間二交替で工事に当たった。
最盛期の1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が作業に従事した。敗戦時には地下壕の75%が完成していた。
おそらく原爆にも耐えられるものであったようだ。

しかし、昭和天皇は東京から疎開する気は無かったともいわれる。
ここの工事では朝鮮人労務者の酷使の話が伝わるが、どうも実際とは違うようである。
朝鮮人労働者の食糧配給は日本人より優遇され、現地の住人との関係も良好であったという。
終戦後、帰国する際は一人当たり250円の帰国支度金が支払われたという。

その松代大本営地下壕、うちの爺さんが中部電力の電気技師として参加していた。
断片的な話は聞いたことはある。朝鮮人と宴会をしたとか、食べ物を分け合ったとかいう話をしていた。

現在、舞鶴山の地下壕は気象庁地震観測所の精密地震計が設置され、皮肉にも北朝鮮の核実験の地震波も観測した。
その壕の入口の東にある養護施設の場所は天皇の御所として準備されたものという。
象山地下壕は一般開放され見学することができる。貴重な戦争遺跡である。
ちなみに象山地下壕のある山の上にあるのが石垣の城、竹山城である。


山寺常山邸

山寺家は石高160石の中級武士の家柄で代々松代藩に仕え、幕末には鎌原桐山と佐久間象山とともに松代の三山と称される山寺常山を輩出している。

常山は8代藩主真田幸貫からの信任を得、寺社奉行、郡奉行などの要職を歴任し、明治維新後は人材育成に力を入れた。

現在の表門は江戸時代末期ころ建てられたと推定され、寄棟、桟瓦葺き、長屋門形式、間口の広さは松代の中で最大級である。
敷地内にある書院は大正時代末期から昭和初期に建てられた建物で当時の近代和風の様式を伝える貴重なもの。
主屋やその他の建物は大正時代に解体されている。


山本勘助の墓
現在は千曲川の堤防内にあり、千曲川が西側を流れるているが、江戸時代初期は千曲川はこの場所の東、金井山の山麓を流れており、その河蹟湖として金井池がある。
その後、洪水で海津城が被害を受けたため、現在の場所を流れるようになった。

したがって、当時はこの場所は川中島の古戦場として知られる八幡原のすぐ北東の地続きであった。
永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いで戦死した山本勘助は、実在の人物ではあったが、軍師であったかは不明。
おそらく旗本クラスの家臣であったのであろう。

有名にしたのは「甲陽軍鑑」であるが、この本自体、かなりフィクションを交えたものであり、歴史上価値ある文献とは言えない。
この作者の先祖が山本勘助ではなかったかと言われ、当然、先祖をヨイショしたという説が有力である。
その勘助さん、実際、この合戦で戦死したらしい。
しかし、その戦死の地は南長野運動公園付近の勘助宮という。

遺体は「陣ヶ瀬東高畑」に葬られ、五輪塔が建てられ「勘助塚」と呼ばれているたと言い、松代町東寺尾に「勘助塚・勘助塚下」という地籍があり、その地という。
江戸時代、元文年間(1736〜1741)に松代藩士鎌原重孝が千曲川の洪水による墓の復興に着手、子重栄と原正盛らが引き継ぎ、元文4年(1739)に川の自然堤防に建っていた信州柴阿弥陀堂の境内に遺骨を移し、墓碑を建立。

文化6年(1809)勘助の没後250年にあわせて、中台を設け土台を高く石積みし現在の墓となったという。碑面には「山本道鬼居士墓」と刻まれている。
長野市「信州・風林火山」特設サイト「川中島の戦い」参考

長国寺
松代藩真田家の墓所である。寺のルーツは真田氏発祥の地、現在の長野県上田市真田町の天文16年(1547)真田幸隆が建立した長谷寺。
1622年(元和8年)真田信之が上田から松代に移されると、当時の長谷寺の住職を開山として松代に建立されたのがこの寺である。
真田家からは200石、幕府からも朱印地100石が与えられていた。

最盛期は七道伽藍が立ち並んでいたが、享保2年(1717)の大火で全焼。寛保2年(1742)の大洪水(戌の満水)で本堂が大破するなどしたが、文化7年(1810)復元。
明治5年(1872)本堂から出火、寺宝・経巻・文書などほとんどを焼いてしまったという災害に会い続けている。
現在の本堂は明治19年(1886)に再建されたもの。

しかし、真田家霊屋は離れた場所にあったため、災害には会わず真田信之(初代)、真田幸道(3代)、真田信弘(4代)の霊屋3棟が現存する。

国の重要文化財である真田信之霊屋と表門は万治3年(1660)の建立、入母屋造で正面に千鳥破風と軒唐破風付きの向拝を設けている。
建物内外を極彩色と装飾彫刻で飾っている。

本堂裏にある開山堂(長野県宝)は、もとは真田幸道霊屋として建てられたが、明治19年(1886)の本堂再建の際に移築された。
方三間、宝形造で、回縁と前面の向拝は撤去されている。


←は明治19年再建の六文銭が輝く本堂。
右手にちらりと見える山が雨飾城。

長国寺には真田氏歴代藩主の墓や家臣の墓も多く、松代藩家老勝手係恩田民親の墓などがある。
恩田民親(おんだ たみちか、享保2年(1717) - 宝暦12年(1762)1月6日)は江戸時代中期の松代藩家老。
恩田木工(おんだ もく、「杢」とも記される)として知られる。

松代藩家老1000石を知行する恩田民清の長男として、松代に生まれ、享保20年(1735)家督を相続。
延享3年(1746)家老となる。
このころは松代藩の財政は財政難に陥っており、輪をかけるように寛保2年(1742)城下を大水害(戌の満水)が襲い、復旧のため幕府より1万両の借財を受けた。
5代藩主信安は原八郎五郎を家老に抜擢し藩政改革に当たらせたが、失敗。
ついで田村半右衛門を勝手方に任命し、財政再建に当たらせるが、「田村騒動」と呼ばれる一揆が起き、失脚。
当時は贈賄や脱税、横領などの汚職が横行し、これを撲滅できずに失敗したという。
宝暦2年(1752)信安の後を次ぎ、藩主となった真田幸弘により、宝暦7年(1757)民親は「勝手方御用兼帯」に任命され改革に着手。
彼は原八郎五郎の政策を踏襲し、質素倹約の励行、贈収賄禁止、不公正な民政の防止など綱紀粛正に取り組んだ。
藩校「文学館」を開き文武の鍛錬を奨励した。逼迫した藩財政自体は改善しなかったが、民親の取り組んだ公正な政治姿勢や文武の奨励は、藩士・領民の意識を改革した。
しかし、宝暦12年(1762年)正月、病で46才で死去。

彼の意思は、藩主幸弘や、民親の義弟、望月治部左衛門により受け継がれた。
彼の行動記録が後世、松代藩士馬場正方によって書かれた『日暮硯』。しかし、内容は民親の仁政を讃えたものであり、脚色も多いという。

真田信之霊屋 真田幸道霊屋から転用された開山堂 恩田木工の墓

日本電信発祥の地
日本で初めて電信実験に成功した場所がここ、長野市松代町の町中にある。

ここで、あの佐久間象山が江戸末期、嘉永2年(1849)、この(旧)松代藩鐘楼鐘楼と約70mほど離れた御使者屋との間に電線を張り、ダニエル電池を使用して,日本初の電信実験は成功させる。

その電信機はオランダの「ショメール百科全書」をもとに象山自らが製作したものであったという。
この電信実験で象山は「サクマシュリ」という自分の名前を送ったといわれている。

この時に用いた 電信機は「トンツー」の電鍵ではなく、指針を円盤上に配列した文字に合せて 回転させ、この回転を接点の断続数として送信し、受信機では電気パルスの数だけ指示針が回転する仕組みの「ブレゲー式指字電信機」であった。
なお、使用した「ダニエル電池」も日本で最初に使用された電池であった。

この場所は「日本電信発祥の遺跡」として電々公社そしてNTTが保護した。
この(旧)松代藩鐘楼は、初代は藩祖真田信之が寛永元年(1624)に設けものといい。
ここに松代藩足軽千人余の番割りをした割番役所を置いたので割番所ともいった。
昼夜の別なく一刻(約二時間)ごとに鐘を鳴らし時刻を知らせたという。また、火事など非常時にも鳴らしたという。

今の鐘楼は、亨和元年(1801)に再建されたものであるが、文化3年(1806)に作られた鐘は太平洋戦争中に供出され、現在の鐘は平成3年に昔どおりに復元されたもの。
長野市文化財として昭和43年12月20日指定。


長野電鉄 屋代線 松代駅
長野電鉄 屋代線の駅であり、平成24年3月31日屋代線の廃線で、この駅も使命を終えた。
この屋代線は、長野県千曲市の屋代駅から長野県須坂市の須坂駅までの千曲川東岸24qを走る鉄道。
この鉄道、開業までに紆余曲折があった明治時代、信越本線が敷かれることになったが、その想定ルートは屋代から松代を経由して長野に向かうルートであったという。
しかし、蒸気機関車の煙で火事になるなどの噂で松代経由は反対に会い挫折、現在の篠ノ井、川中島ルートになった。
そのお陰で田園地帯の篠ノ井は発展。
松代は気がついたら世の中から取り残されてしまった。

そこで河東鉄道により90年前、1922年(大正11年)に屋代 - 須坂間が開業さらに1925年(大正14年)に木島まで延伸。
しかし、既に幹線は信越本線であり、松代発展の打開策にはならず、松代は発展から取り残された街になってしまった。
でも、そのお陰で貴重な城下町がタイムカプセルの中で保存されることとなり、現在、貴重な観光資源になっている。

ちなみに10万石以上の城下町で市になっていないのはこの松代のみである。(現在は長野市であるが、吸収合併によるもの。)
この松代駅、見るからに見ずぼらしい。
でもどこか懐かしさを感じさせる。
それもそのはず、大正11年の創業当時のものである。

松代の街、平成になって脚光を浴び、海津城や武家屋敷が復興整備されるが、駅舎はそのまま。
河東鉄道、当初は蒸気機関車による運行であったが、1926年(大正15年)には屋代 - 須坂 - 木島間が電化。
昭和40、50年代には上野から直通の急行「志賀」が乗り入れていた。

2002年(平成14年)、信州中野 - 木島間の木島線が廃止され屋代 - 須坂間を屋代線に名称変更した。
もともと幹線ではなく、自動車が普及すると利用客は減少の一途をたどり、営業努力や県と沿線3市への資金援助を要請を行い、2009年(平成21年)に地元自治体や長電により「長野電鉄活性化協議会」が設立された。
翌2010年(平成22年)から「地域公共交通の活性化及び再生に関する法律」による「長野電鉄屋代線総合連携計画」を発表し、サイクルトレインやパークアンドライド用駐車場整備といった社会実験を行なった。
しかし、回復はかなわず2011年(平成23年)2月2日に催された活性化協議会の議決で路線廃止と代替バスの設置が決定、同年3月25日に国に廃止届を提出し、2012年(平成24年)4月1日に廃線が決定してしまった。

明治時代のちょっとした判断ミスで誕生し、その判断ミスに振り回された鉄道であった。
松代から屋代や須坂などの小都市ではなく、松代−長野間に直通線があれば、その沿線が平地で現在、大住宅地なので今も鉄道は健在であったかもしれない。
管理人、この屋代線に乗ったのは数回。
それもそのはず、乗る用事がなかった。
沿線の屋代、松代、須坂、いずれも小さな町で所用もなかった。



高坂弾正忠昌信の墓(春日虎綱の墓)

武田信玄がラブレターを送ったことで有名な人物である。
単なる信玄の「おホモだち」と取りかねられるが、実は軍事的能力もあり、徳も備えたなかなかの名将であったと言われる。
大河ドラマ「風林火山」では、山本勘助に兵法や築城の教えを受けたことになっているが、真偽はともかく、対上杉の最前線であり重要拠点の海津城の初代城主を務めたことからも、それが真実であることが伺える。
あの有名な「甲陽軍鑑」の原作者説もあるくらいである。
山梨県笛吹市石和町市部字広岡に生まれ、幼少のころから活躍して頭角を現し、海津城主として、北信濃の占領地を支配し、天正6年(1578)病没、彼が再興したと伝えられる明徳寺に葬られた。

山県昌景、馬場信春、内藤昌豊などの武田の武将ほどの戦場での華やかさはなく、「逃げ弾正」という別名があるくらいである。
この言葉は、撤退時の殿役ということではあると思われるが、いかにもマイナスイメージである。
川中島の合戦後、敵味方の区別なく戦死者の遺体を丁重に収容し、上杉軍の戦死者については、武具に至るまで取り揃えて引渡し、上杉謙信を感心させたという。

明徳寺の山門。 本堂は入り口が建物の左寄りにある変わった造り。 高坂弾正の墓。
後の敵に塩を送るというエピソードは、謙信の高坂弾正の行為に対する返礼であったともいう。
この明徳寺の本堂は左右対称ではなく、入り口が建物の左寄りにある変わった造りで、山門も味がある。
本堂には「酒飲み弥勒」の別名がある弥勒菩薩が安置され、ヒキガエルが産卵のために群集する「蛙合戦」の池などがある。

この高坂弾正の墓は、欠けているが、かつて瘧などの熱病を患う者が、墓石に塩を供えて祈ると必ず験があるといわれ、多くの患者や家族が削り取ったのでこのようになったものという。

なお、この明徳寺にはもう1人、超有名人物の墓がある。
あの「硫黄島からの手紙」の主人公、硫黄島守備隊司令官 栗林忠道中将の墓である。(戦死により大将に昇格)
栗林中将はここ松代の生まれで、ここが菩提寺である。
中将については特に説明は不要であろうが、太平洋戦争に係る日本の軍人の中でもっとも有能な将軍であると言えるだろう。
戦国時代なら「立花道雪」かな?あの戦法は真田戦法?
映画の影響か、墓には花と線香が絶えず、この日も部下だった人なのだろうか?高齢の老人が手を合わせていた。
時代は異なるとは言え、高坂弾正と栗林中将、この2人の名将がこの寺で隣同士で眠っているのである。

皆神山

長野市松代市街地の東にある鉢を伏せたような奇妙な形の山である。
扇状地の真ん中が、いきなり盛り上がった感じであり、昭和新山とも似ている。
遠くから見ると巨大な前方後円墳のようにも見える。
右の写真は西の千曲川の堤防付近から見た皆神山である。


この山は30万年前のカリウム-アルゴン年代をもつ溶岩ドームなのだそうだ。
火山活動により、むくむくと岩が盛り上がっただけで、裂けて噴火は起こさなかっただけのようである。
つまり裂けなかったニキビのようなものだろう。
しかし、長い地球の歴史の中では、ついこの間のこと。
この山の地下にはまだマグマが脈動している。

東側、明徳寺付近から見た皆神山 山頂部は平坦で畑がある。 山頂部の鞍部 皆神神社山門

昭和40年代始めに松代群発地震があったが、その震源がこの山の直下であり,そのとき、この山の周辺で隆起・地割れ・湧水がみられたという。
つまり地下のマグマが活発に活動していたのである。
マグマのかわりに水が噴出したので,松代群発地震は「水噴火」にともなった地震だったと考えられているそうである。
ちなみに山の北側には松代温泉があり、当然、この温泉の熱源は皆神山地下のマグマだろう。
山の標高は659mあり、すそ部の直径1.3qで上から見れば円形、周囲1周が4.5q、自動車で悠々1周できる。
平林地区からの比高200m、松代市街側の麓からは290mと比高はかなりのものである。
周囲は結構、急斜面である。でも、ちゃんと頂上まで自動車で行けるのである。
山頂部は比較的平坦で500m四方ほどの広さがあり、畑もゴルフ場まである。
人家(皆神神社の神主さん宅)もある。
第二次大戦末期に大本営移転を目的として地下壕がこの山の地下にも掘られたという。

この山は古代から神聖な山であったらしく、山頂部の平坦地で縄文土器が出土しているというので、縄文時代から祭祀が行われていたと言われている。
城があってもおかしくない感じの山であるが、物見程度のものはあったかもしれないが、城郭遺構はない。
もっとも、この山に城があったとしても、急勾配で攻めにくいが、登攀ルートが多くありそうであり、守りにくい。それに独立した山なので、完全包囲が出来る。
肝心の脱出ルートがない。そんなことで城は造られず、ずうっと信仰の山であり続けたようである。
この皆神神社は、熊野出速雄神社を中心に、その境内社侍従大神、木花咲那姫命を祀る富士浅間神社、少彦名命を祀る嘉佐八郎社などを尊称したものだそうである。
この山は古くから修験道場であったといい、熊野出速雄神社本殿は、十五世紀末期から十六世紀前期のものであり、長野県の県宝である。

皆神神社本殿 山の最高箇所に建つ富士浅間神社 神社の横は何とゴルフ場! 御神木
この山、別の分野で超有名な山である。
その分野では、ここは聖地でもある。皆神山については、信仰の山であったことも要因であろうが、超古代文明を語る分野においては「ピラミッド説」が有名であり、ごていねいに神社近くの駐車場に、これについての写真の解説板まである。
その内容が凄い。
いったい、誰が書いたものだろうか?
以下、その解説の内容。


『世界最大で最古の皆神山ピラミッド
皆神山の造山方法はエジプトのピラミッドのように人の労力ではなく初歩的な重力制御技法(部分的干渉波動の抑圧)により、当時長野盆地が遊水湖沼となっておりその岸のゴロタ石等堆積土砂石を浮遊させ空間移動させるといったダイナミックな方法でした。

◎皆神山の造山方法はエジプトのピラミッドのように人の労力ではなく初歩的な重力制御技法(部分的干渉波動の抑圧)により、当時長野盆地が遊水湖沼(最後のウルム氷期の終末期で東・南信の氷解水による)となっておりその岸のゴロタ石等堆積土砂石を浮遊させ空間移動させるといったダイナミックな方法でした。
(従って現在でも皆神山山塊だけが非常に軽く負の重力異常塊となっています。)
◎この皆神山の盛土的山塊が自重により不均衡凝縮=ねじれ摩擦現象=起電=電流発生といったダイナモ機能山塊となり、電磁波が生じ、この磁力と重力制御(反重力)により物体(電磁反発飛昇体)が垂直に離着陸するようになったのです。
古文書に出てくる<天の羅摩船>等がこの飛行体です。
 皆神山は,古い古墳時代や弥生時代更に遡っての縄文時代やエジプト,インダス,黄河,シュメール各文明よりずっと古い、今から2〜3万年前(浅間山、焼岳ができたころ、飯代、妙高、富士は約九万年前)の超太古とのいうべき遠い旧石器の時代に造られました。
(人工造山=ピラミッド,ピラミッドはギリシャ語源で三角型のパンの意。)
◎この皆神山を造った人間は、古事記に出てくる須左之男命(自然主義的な科学技術者の集団の総称)で現代科学とは全く異質ではるかに優れた高い知的能力をもつ人類でした。(旧人ネアンデルタール人系)
◎では、何のために造ったかというと,墳墓ではなく地球上の各地や,宇宙空間への航行基地として造られたのです。
◎超太古の宇宙航行基地である皆神山の祭神は従って高度の知的能力集団でみんな宇宙航行や宇宙基地に関係する次の四神です。

○熊野出速男命
宇宙船<天の羅摩船>等の航行の技術、管理を引き継いだ最後の集団で,北信地方の開拓祖神
○少名毘古那神
宇宙船で皆神山航行基地を離着した大国主命の参謀集団。
○泉津事解男神
皆神山航行基地をはじめ、全宇宙基地を管理した集団。
○速玉男神
地球周回軌道の人工衛生(宇宙航行の中継基地)の技術者集団。

◎このように皆神山は、神々が活躍した基地であり,宇宙船で現れたり姿を消したりしたので自然人たちは,神聖な山=高天が原として崇め、後世に伝えたものです。』

この内容、管理人の学んだ物理学や世界史の知識では、ほとんど理解ができない。
一般相対性理論の世界である。
しばし解説板の前で呆然となってしまった。
看板を建てるのであるから、本気でそう信じている人がいるってことである。

松代文武学校(長野市松代町)
真田家松代藩の藩校。8代藩主、真田幸貫が水戸の弘道館を参考に計画し、9代藩主幸教の代嘉永6年(1853)に完成、安政2年(1855)に開校したという。
明治に入り兵制士官学校を併設したが、明治4年(1871)廃藩置県で藩が無くなりわずか16年で閉校となった。
しかし、その後は松代学校(現 松代小学校)の校舎として昭和30年ころまで使われたというので、校舎としては優に100年以上の歴史を持つ。
この藩校の特徴は、他藩が儒教を中心としていたのに対し、儒教の教えを排除した点だそうである。
大体、多くの藩校の内には孔子廟があるのだが、ここにはない。

この学校の教育方針は、校名が示すように文学(学問)と武道の両道である。
漢学・国史・剣術・総術・柔術・弓術は当然であるが、西洋医学・西洋砲術のカリキュラムがあったというので、時代の先端を行っている。
砲術などはこの地出身の佐久間象山の影響があったのであろう。
現在、正庁(文学所・御役所)・東序・西序・剣術所・柔術所・弓術所・文庫蔵・番所・門および槍塀などの建物が残っている。
昭和28年に国の史跡に指定され、昭和48年より五年かけて修理、復元工事を行い、開校当時の姿をほぼ復元した。
(信州の文化 http://www.dynax.co.jp/sinsen/culture/index.html を参考にした。)
なお、正庁はかつて松代小学校の体育館に使われていたというから驚く。
また、音楽室として使われていた部屋もあり、明治時代の小学校の姿を見るようで面白い。
建物には派手さが全くない。極めて質素である。真田家の家風なのか。

真田邸(長野市松代町)

文久2年(1862)の参勤交代制度廃止に伴い、江戸屋敷住まいであった松代藩8代藩主 真田幸貫の嫡男幸良の夫人で9代藩主幸教の母お貞の方(貞松院)が松代に帰ることになり、その隠居宅として元治元年(1864)に建てられた。
母屋完成の後、長局・納屋・土蔵などが建てられ、屋敷として完成したのは、慶応3年(1867)。
当初は、貞松院の居宅として使用され、その後9代藩主幸教の隠居所、また明治維新後は真田家の私邸として使用されていた。
松代城の建物はほとんど破壊されたが、真田家の住居となっていたためで破壊は免れ、唯一残った建物。
昭和41年(1966)に真田家から当時の松代町に譲渡された。
敷地は7973u、建物の建面積は1346uで、一部2階建て。
  庭園は、京都の公家の屋敷の庭園を模したといわれている。
心字池があり、9代藩主・真田幸教により「水心秋月亭」と名づけられた。
江戸時代末期の大名の邸宅として存在意義が高いことから昭和56年に国の史跡に指定された。