茨城県西地区
水野忠邦の墓(結城市山川)
2019年9月14日、茨城県結城市に行った。そのついでにあの「水野忠邦の墓」があるというので行ってみた。
水野忠邦と言えば「天保の改革」。
この2つは日本史の必須アイテムである。高校入試ではこの2つのキーワードは覚えておく必要がある。そうでないと酷い目に会う。
それほどの重要性がある。
そんな日本史上の重要人物である水野忠邦の墓が茨城県結城市の中心部から外れた南端部、山川の周囲が畑と田んぼばかりののどかな田舎にある。
何でここに彼が眠るのか?と疑問であるが、ここ山川の地が、忠邦の出た水野家の先祖、忠元が大名になった地であり、ここは水野家宗家結城藩の領地であったが、許可を得て、先祖由来のこの地に墓所を造ったものという。
かつては万松寺がここにあったという。
その水野忠邦、調べると面白い人物である。
俺の下した評は「異常性格者」である。どこかの国の大統領と重なる点が多い。
彼が出た水野氏は、戦国時代は尾張と三河の国境付近を領していた土豪であり、清和源氏の流れとしているが、これがどこまで事実かは疑問。
日本各地にいた土豪の1人に過ぎないが、結果として徳川氏に係わったため勝ち組になり、織田氏や徳川氏との間で苦労はしたものの、江戸時代は何家かの大名を輩出した幸運な部類に入る武家である。
歴代当主の能力もあったのであろうが、9割方、「運」が良かった一族と言えるだろう。
水野氏は宗家から多くの分家が出ている。
宗家が徳川家康の母伝通院の実家であり、これが縁で江戸時代は徳川氏の外戚家として大名となり、幕府の老中も輩出した。
幕末時点では宗家の下総結城藩の他、分家筋に駿河沼津藩、上総鶴牧藩、出羽山形藩の各藩があった。
その他、寛文7年(1667)に改易となった上野安中藩の藩主や紀州藩の附家老であった紀伊新宮城主も水野一族であった。
宗家は、和泉守忠重の子日向守勝成を祖とする家で、出身地三河刈谷から出て、江戸時代には大和郡山、備後福山と枢要の地を任された。
一時世継ぎがなく断絶するが、親戚筋から養子が入り存続、結城藩として明治維新を迎える。
水野氏からは老中な何人も出ているが、やはり天保の改革の実施者、水野忠邦がダントツで有名である。
彼は分家筋、忠守−忠元流 水野家と言われる監物忠元を祖とする家の末裔であり、この家は代々監物を名乗り帝鑑間に詰めた。
領地は、下総山川から駿河田中、三河吉田、同岡崎、肥前唐津、遠江浜松と要地を転々としている。
長崎警護の役目がある唐津藩時代を除いて幕府の要職に付くことが多かった。忠邦以前に享保の改革で徳川吉宗を補佐した和泉守忠之も老中を務めている。
忠邦は改革失敗の責任をとらされて出羽山形に転封され、子孫がそこで明治維新を迎える。
その水野忠邦は寛政6年(1794)6月23日、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。
長兄が早世したため、唐津藩主の世継ぎとなり文化9年(1812)家督を相続する。
彼は出世欲が強かったようであり賄賂を使いさらに、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから昇格に障害が生じると知るや、家臣の諫言を押し切ってわざわざ、減封前提で文化14年(1817)9月、25万3,000石の唐津から15万3,000石の浜松藩への転封を願い出て実現させた。
この工作で家老の二本松義廉が諌死をして果てるとともに、唐津藩領の一部が天領に召し上げられ、地元民には天領の年貢の取立てが厳しかったことから、恨みを買う。部下、住民の犠牲を無視してまでの自己の欲望の達成意思、凄い人物である。
この国替えの効果は寺社奉行となって現れる。逆に賄賂を受け取る立場となり、払った賄賂を回収できたため、家臣の不満も鎮静化したという。
彼には渡した賄賂は先行投資ということで、先見の明があったのかもしれない。たいしたものである。
さらに、将軍・家斉のもとで、文政8年(1825)大坂城代、文政9年(1826)京都所司代、越前守に昇叙し、11年に西の丸老中となる。そして天保5年(1834年)本丸老中、ついに同10年(1839年)老中首座となる。
当時は異国船が日本近海に相次いで出没して日本の海防を脅かす一方、年貢米収入が激減するが、放漫な財政運営が続き、打つ手を見出せない状況であった。家斉在世中は家斉側近が権力を握っており改革を開始できなかったが、天保8年(1837)4月に家慶が第12代将軍に就任し、天保12年家斉が死ぬと、家斉旧側近を罷免し、忠邦は天保の改革に着手した。
天保の改革では、農村復興のため江戸に流入した飛散農民を返す人返し令や、奢侈禁止・風俗粛正、株仲間の解散、低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策をとったが、物価引下げに反しインフレとなり、大混乱をもたらす。この辺りは高校の日本史の教科書に詳しいだろう。
これに対し腹心の遠山は庶民を苦しめる政策に反対し、これを緩和した事により庶民の人気を得、後に『遠山の金さん』として語り継がれた。
さらに、天保14年(1843)9月に上知令を断行しようとして大名・旗本の反対に会い、腹心の鳥居が老中土井利位に寝返ってクーデターを起こし、9月13日に老中を罷免されて失脚した。 しかし、その土井利位も弘化元年(1844年)5月、江戸城本丸の焼失に伴う再建費用を諸大名から献金させようとして失敗し、6月21日家慶は忠邦を再任する。しかし忠邦に昔日の面影は無く、病気を理由に弘化2年(1845)2月老中を辞する。その間、自分を裏切った土井や鳥居らにしっかり報復しているので、やる気を亡くし、復讐にシフトしただけで、仮病だったと思われる。
ところが、天保改革時代の疑獄の嫌疑が発覚し、強制隠居・謹慎が命じられ出羽国山形藩に懲罰的転封を命じらてしまう。
なお、この転封に際して、領民からの借金を踏み倒して山形へ行こうとしたために領民が怒り、大規模な一揆を誘発してしまう。
嘉永4年(1851)2月10日、死去。享年58歳だった。(Wikipedia参考)
この経歴を見れば、頭脳は明晰のようであるが、自分本位の出世欲、自己顕示欲の塊、(独裁者に有りがな)部下領民への配慮欠如、理想の追求者(自分が常に正しい。・・どこかの国の大統領みたい)さらに復讐鬼の姿が浮かぶ。
結局、頭はいいが異常性格者(自己愛性人格障害)ではなかったのか?やはりどこかの国の大統領と重なってしまう。
真壁のひなまつり
真壁は茨城県の西部、筑波山の北山麓の町、平成の大合併で岩瀬町などと一緒になり、桜川市になった。
でも、この桜川市・・って、このネーミング、センスを疑う。
確かに桜川という川は流れてはいるが、市の名前に採用するほどのものとは思えないのだが。
この歴史のある町、真壁もその桜川市の1地区になってしまった。
真壁の町はは室町時代にはすでに成立していたようである。
この地の豪族、真壁氏が真壁城を築き、城下町が整備され、それが今に続いている。
真壁氏は戦国時代は佐竹氏の家臣となり、このため、秋田に去り、城は廃城になるが、東半分は残っている。西半分は町に埋もれている。
今残る城跡の規模を見ればその実力が伺える。
おそらく佐竹家臣の中で最大級の軍事力を持っていたものと思われる。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/ibaraki_seibu/makabe.htm
町は一切の災害を受けていないので古い建物がよく残っている。
登録有形文化財の建築物だけでも100棟ほどあるという。
しかし、逆に言えば、道路も狭く、時代から取り残された町でもある。自動車も怖くて通れない。
大型店も全て郊外に立地し、今は郊外が町の中心地になっている。
日本のそこら中に例があるパターンである。
その時代から取り残されたことを逆手に取って13年前から始まったのが、雛祭り。
古い民家に古い雛人形が良く似合う。
客も年々増え、駐車場探しが一苦労くらい繁盛している。
雛人形も良いが、それほど古いものは余りなかった。
古建築フェチの管理人はどちらかというと建築物の方に興奮。
しかし、こんな古い家に住み続けるのもけっこう不便だろうねえ。
登録有形文化財じゃあねえ。