常陸太田紀行3

旧茨城県太田中学校講堂(常陸太田市栄町)
県立太田第一高校校内にある国指定重要文化財(昭和51年2月3日指定)の建築である。

明治37年(1904)に旧太田中学校の講堂として建築されたもので、桁行き20.9m、梁間14.5m、正面に車寄せを設けた瓦葺き屋根の洋風建築で、旧県立商業学校本館や旧土浦中学校本館なども手掛けた、茨城県の技師・駒杵勤治によって設計され、ゴシック、ロココ様式を基調とし、当時流行していたスティックスタイル(木骨様式)を取り入れてあり、内部には、校章の掘られた演台やエンタシス柱、コリント風の柱頭飾りなどが施されてる。
この様式の建築物が当時のまま現存しているのは稀少で、当時の建築技術の高さや面影を今に伝える重要な建築物と国重要文化財に指定された。(常陸太田市観光物産協会のHPより)

なお、同時期に龍ヶ崎中学(旧制)(現茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)、水海道中学(旧制)(現茨城県立水海道第一高等学校)及び高等女学校(現茨城県立水戸第二高等学校)に同じ様式のものが建築されたが、現存しているのは本講堂のみという。
長い間、講堂として使われ、時として卓球部の練習場としても使われていたそうである。
平成2年に資料館として整備されたが、集中曝涼や弁論大会等で公開される他は施錠され、普段は未公開である。

ちなみにこの建物がある太田第一高校、ここの敷地は佐竹氏本拠、常陸太田城の北曲輪の跡地である。
隠居屋敷や人質曲輪だった場所とも言われる。
失脚して佐竹氏に預けられたあの「織田信雄」が2年ほど住んでいたのがこの場所だったらしい。

この建物、まじまじと見たのは当時、中学生だった末娘が卓球の練習で高校生の胸が借りに太田1高に連れて来た時だった。
もちろん、中には入れず、外から見ただけ。
3.11で損傷し、2013年に大修理を行い今の姿に蘇った。

114年前、このクソ田舎にこの建物、完全にアンバランスだったとは思うが、逆に田舎の明治人の心意気を感じる。
その内部に入るのは始めてである。

ここの生徒もほとんど入ったことはないという。
ここに在学していた娘は一度も入ったことはなかったと言っていた。
内部は外観同様、完全な明治の世界である。
正面は教会のような感じになっている。
舞台があり演台があり、ベンチが並ぶ。
正面には飾りがあり、ここに十字架があれば完全に教会である。
戦前まではここには御真影が飾られていたという。

建物の後ろ側半分は資料館になっている。
ここに横山大観や木村武山などの絵画や書もある。

この建物のセキュリティが甘い。
半島人が倭寇が盗んでいったと言って、盗んでいって、返してくれない心配がある。
強制徴用工の賃金だ!って主張するかもしれない。
何しろ奴らの主張は時空を超える。時間、時代の概念があるとは思えない・・・。

資料といっても学校関係の資料が多い。
その中で驚きのものがあった。かあちゃんの祖父さんの卒業写真だった。
かあちゃんの実家で見覚えのある写真が飾られていた。
大正時代中頃のものだ。ここで26年前、94歳で死んだ祖父さんに会うとは思わなかった。
そういえば、祖父さんから娘まで4代連続でここの卒業生だった。


嵯峨神社(常陸太田市東連地町)
常陸太田市、旧水府村の東連地町という田舎にある神社である。

だいたい神社というと八幡、諏訪、愛宕、住吉、鹿島、香取、日吉、稲荷、伊勢、春日、熊野、吉田、羽黒、秋葉が多い。
これらは全国チェーンである。
地名を神社名にしたものもある。
中には古代にまで遡る神社もある。
うちの方では長幡部、薩都、天白羽、天志良波、東金砂、西金砂、静、御岩・・なんて風土記等にも登場するような古社もある。

この神社名「嵯峨」というと、連想するのは京都の嵯峨野、嵯峨天皇・・けっこう高貴な響きがある。
この田舎とはイメージが全く合わない。

長い石段の参道の上に社殿がある。 山の上に建つ本殿

同名の神社、多いような気がするが、ネットで検索しても熊本県産山村に同名の神社があることがヒットしただけである。
神社の由緒にはこう書かれる。

「祭神:八千戈神(やちほこのかみ)、大己貴命(おおなむちのみこと)の別称
 天喜5年(1057)陸奥守鎮守府将軍源頼義が阿部貞任・宗任兄弟征討のため奥州へおもむく途中、この地に露営し、戦勝を祈願して嵯峨神社を大石沢山に創建したと伝えられる。
その後、100年余を経た治承4年(1108)右兵衛佐源頼朝が、西金砂神社に籠もる佐竹秀義を攻めた時、佐竹の武将千葉忠常が前線防備のため、沿道の人家に火を放って焼いた。
その余火をうけ、社は礎を残すのみとなったという。
信仰厚き地元民が社を再建し、祭祀を続けてきたが、元禄9年(1696)、徳川光圀が、源氏ゆかりの地、面影山に遷座して、東連地・芦間の鎮守とした。」

頼義は義家の親父であるこの地に多くある義家伝説に通じる。その時の宿営地というものである。
次に登場するのが金砂合戦である。
なお、千葉忠常が起こした長元の乱は将門の乱と前九年の役の間、1028−1030年のことなので金砂合戦と70年以上の違いがある。
そしてここでも光圀が出て来る。

この付近の神社の由緒はかなり改竄されているという。
首謀者は光圀である。
この地は佐竹氏の故地であり、旧家臣の末裔が多く住んでいる。
水戸徳川家にとっては要注意地帯である。

そのため、彼は隠居後、西山荘というところに住んだ。反乱の可能性のある地を抑えるためである。
佐竹旧臣を懐柔してとかいうが本当かどうか分からない。
間違いなくやったことは佐竹の残した文化の破壊である。


多くの寺社は廃止し、旧家臣の持っている記録は提出させ没収破棄したという。そうやって佐竹の影の消去をしたという。
寺社の由緒も改竄しという。佐竹の名は抹消し、自分(徳川家が源氏というのはおそらく捏造だろう。)と佐竹の先祖である頼義、義家に置き換えたという。
やたらと多い義家伝説は、だいたいは佐竹のいつかの時期の当主の名を置き換えたものらしい。
この神社の地も関わっているのは佐竹だろう。
神社の名前「嵯峨」は佐竹氏の先祖、義光が都を偲んで付けたものではないかと思われる。

この地、北西から派生した尾根末端が盛り上がった場所である。極めて眺望もよい。
城を築くには最適な地形である。尾根続き部に堀切があるのか探したが、見つからなかった。
金砂合戦で陣所に使われた可能性もあるが、ここは山入の乱の山入一族の本拠地、山入城と佐竹宗家側の久米城の中間点、戦略上の重要地点である。
両者の睨み合いの時にどちらかが砦として使ったのではなかったかと思われる。
本当の由来はどうなんだろうか?

来迎院阿弥陀堂(常陸太田市大里町)
常陸太田市街の西方、旧金砂郷村の久米地区、金砂郷中学校の東側に位置する天台宗の寺院。
正式名称は「光明山安養寺来迎院」。
集落の奥まった場所にあり全く目立たないため、ついぞ見る機会がなく、平成28年の集中晒涼でやっと行くことができた。

古風な建築物と貫禄ある仏像に強い感銘を受けた。
しかし、仏像のセキュリティは脆弱である。
周囲に民家が多いということも考慮されるが、その道のプロにかかったら盗むのは可能だろう。
半島の人間などに盗まれたら、俺のところから倭寇が盗んだものなんで返さねえ!と居直られる可能性もある。

まあ、それは置いておいて。
寺の創建についての不詳は不明であるが、室町初期、至徳2年(1385)の創建で大洗磯前神社の別当寺で神宮寺と称していたという。
天和3年(1683)、堯祐和尚が現在地に境内を移し中興、阿弥陀般若寺と改め、元禄5年(1688)輪王寺(栃木県日光市)から来迎院の寺名を授かったという。
ただし、それ以前にここには真言宗の「貴富山阿弥陀寺安楽寺」という寺があったが、住職が追放され廃寺状態であったという。
この経緯と納められている仏像の古さから推定して、既に戦国時代にはこの地に寺は存在していたものと思われる。
位置的には久米城の城主が係っていたのではないかと推定される。

↑の写真に示す本堂に相当する現代の阿弥陀堂は金銅宝珠露盤付で、砂岩状の切石積の低い基壇上に建てられている。
享保3年(1718)に建てられ、移築再建されたと伝えられる。
桁行3間、梁間3間、宝形造、茅葺、外壁は真壁造り、素木板張、内部は1間四方の隅に四天柱を立てた内陣、江戸時代中期に建てられた阿弥陀堂建築として貴重な存在で昭和44年(1969)に茨城県指定重要文化財に指定されている。

↑の写真の山門(楼門)は宝暦10年(1760)に建てられた建物(小屋梁に宝暦十年の墨書銘がある)。
八脚楼門形式、三間一戸、入母屋、茅葺、2層目には高欄を廻し1層目の両側には仁王像が安置、江戸時代中期の楼門建築の遺構として貴重な事から昭和44年(1969)に茨城県指定重要文化財に指定されている。
建立は本堂より若干遅れるが建物の構造的な特徴は共通点があるという。

本尊の木造阿弥陀如来坐像は鎌倉時代に制作されたもので寄木造、漆箔、像高165p、頭部には平安中期、藤原時代に制作された小仏頭が納められていて共に昭和40年(1965)に茨城県指定重要文化財に指定されている。
木造如来形坐像は常陸太田市指定文化財に指定されている。
こちらは平安末期のものらしい。
分割構造であり、組み立てるようになっている。
まるでプラモデルのようである。さすがにかなり劣化はしている。
手の部分のパーツが紛失してしまっているのが残念であるが、1000年近い年月を耐え、いくつもの戦乱を逃れて今に残る姿に感銘を受ける。
(茨城県及び常陸太田市のHP参考)

東染郷倉(ひがしぞめごうくら)常陸太田市東染町
里川の渓谷を走る国道349号線、里美大橋三叉路から県道36号線に入り、水府方面に向かい竜黒磯トンネルを抜けると東金砂神社への東側から登る参道に入る道路が分岐する。
その分岐から300mほど北上した場所にある。

常陸太田市の指定文化財であり、小さな茅葺の倉庫であり、覆屋が被され保護されている。
江戸時代に水戸藩により領内各所に建てられていた公共の倉で、飢饉に備えて穀物を蓄えていたという。
今まで残っているものはほとんどない。天明の飢饉の時にこの倉が役立ち、水戸藩内住民の餓死者はなかったという。
(茨城県及び常陸太田市のHP参考)

中染阿弥陀堂(常陸太田市中染町)
常陸太田北消防署から国道349号線方面に県道36号線に入り、600mほど行った北側の山の中腹にある。
ここにはかつて阿弥陀堂のあり、東金砂山東清寺の末寺で薬師如来を本尊とする阿弥陀院が置かれていたことが、元禄3年(1690)の記録によってわかっている。
それ以前、かつて中染に「花木山勝養院」という寺院があったという。
しかし、元治元年(1864)の天狗・諸生の乱で火災にあい、建物は焼失してしまった。
その後、本尊だけを地元の人たちが祠を建てて祀り、現在は鋳造阿弥陀如来立像を安置するための収蔵庫が建てられている。


その収納庫、集中晒涼時に開けられて仏像が公開される。
この仏像が国の重要文化財なのである。
像は、高さ164.2pのほぼ等身大の鉄仏で、背中には光背を固定していたと思われる金具四か所と銘文が残されている。


銘文によると、鎌倉時代弘長4年(1264)に法然寺の阿弥陀如来像として、桐原左衛門が寄進者となって造らせたもので、大工が権守入道西念、勧進が僧立佛房、仏師が日向房良覚と記されている。

ここに書かれる「法然寺」が「花木山勝養院」を指しているという。常陸太田市内にある「法然寺」との関係が推定され、末寺であった可能性もある。

また寄進者の桐原左衛門は佐竹家臣であったと思われる。
鉄仏は、鎌倉時代を中心に関東地方と愛知県に偏って分布しており、木製の仏像に比べるとその数は少ない。
阿弥陀堂の鋳造阿弥陀如来立像は、県内でも代表的な鉄仏であり、型を採った大元の仏像が大洗町大貫にある西光院の阿弥陀如来像であることが判明し、大洗で作られた可能性もあるという。

木型を採った仏像も存在し、制作年代もわかることから、貴重な仏像であるとして国の重要文化財に指定されたという。
仏像は木製が多く、だいたいはフラッシュ撮影による劣化を懸念して撮影禁止なのだが、鉄製の仏像はさすがにフラッシュ撮影でも劣化はなく、撮影自由、おかげで接写も可能である。
なかなかの男前?な顔である。
御触りもできる。
鋳造型の継ぎ目やガス抜きの穴がそのままであり、現在と同じ鋳造技術で製作されたことがわかる。
これはありがたい。
(茨城県及び常陸太田市のHP参考)


菊蓮寺(常陸太田市上宮河内町)
浄土宗の寺院で金砂山城こと西金砂神社への参道のうち、南西側の上宮河内町からの登り口、「金砂の湯」から県道36号線、浅川を挟んで対岸の西側にある。
創建は大同2年(807)、西金砂山神社の別当寺定願寺住職行讃上人が霊夢を見てこの地に開山したのが始まりと伝えられている。
その際、蓮華の上に舎利があり菊の花が光り輝いた夢だった事から菊蓮寺と名付けたという。

当初は天台宗の寺院だったが寛正6年(1465)、覚誉上人が中興に浄土宗に改宗。明暦3年(1657)に火災で堂宇や寺宝、記録など多くを焼失してしまった。
現在も数多くの文化財を所有している。文化財級の像は耐火性の収蔵庫に納められ、集中曝涼時に公開される。

中でも千手観音立像は鎌倉時代後期作、像高3.5m、檜材、寄木造、胎内には納入供養札が収められ、元の本尊と推定される千手観音焼損像と共に茨城県指定重要文化財に指定されている。
この元の本尊という焼損像、手の部分は全てなく黒焦げの本体部分を布で蒔いたミイラのような感じで保管されている。
この像が焼けたのは頼朝による佐竹氏攻撃、「金砂合戦」の時と伝えられる。
真偽のほどは分らないが本当なら歴史の生き証人ということになる。
その他の菊蓮寺の文化財としては以下のものがある。残念ながら撮影できない。
 ・ 木造毘多聞天立像 − 平安時代中期藤原時代 − 茨城県指定重要文化財
 ・ 木造女神像 − 平安時代中期藤原時代 − 茨城県指定重要文化財
 ・ 木造不動明王立像 − 平安時代後期 − 茨城県指定重要文化財

青蓮寺(常陸太田市東蓮寺町)
縁起によると、ここは天武天皇龍潜の地であり、創建は建保6年(1218)、親鸞聖人の法弟性証房が親鸞と共に天皇の門跡に開山したのが始まりと伝えられる。
本尊の木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代に制作されたもので像高53p、光背102p、春月作、昭和46年に茨城県指定重要文化財に指定されている。

本堂は江戸時代中期に再建された寄棟、瓦葺造り。
蟇股に彫り込まれた菊の御門が天智天皇の旧跡を示しているが、これはあくまで伝説に過ぎないだろう。
親鸞聖人二十四輩第八番寺として信仰を集め、寺宝には親鸞聖人絵像や性証上人木像などを所有している。

この寺には豊後国の二孝女物語が伝わる。
Wikipediaには次のように書かれる。この話、「母を訪ねて3000里」の日本版である。

豊後国の二孝女は、江戸時代後期に、親鸞ゆかりの地の巡礼の途上で病に倒れた父親を連れ戻すために、豊後国臼杵藩(現大分県臼杵市)から常陸国水戸藩(現茨城県常陸太田市)の青蓮寺まで旅をした姉妹である。
豊後国臼杵藩の農民で浄土真宗の信者であった川野初衛門は、文化元年(1804)、親鸞ゆかりの地を巡る旅に出た。
しかし、その途上で足を痛め、常陸国水戸藩の青蓮寺にとどまって長期にわたる療養を余儀なくされた。

初衛門の窮状が故郷に伝わることは長らくなかったが、文化8年(1811年)、京都の西本願寺で開かれた親鸞の550回忌大遠忌法会の際に、青蓮寺の住職が川野家の菩提寺である善正寺の住職と出会い、初衛門の所在が故郷で待つ2人の娘、「つゆ」と「とき」に伝わった。
姉妹は臼杵藩の許可を得て常陸太田に向かい、2か月(4か月という説もある)に及ぶ困難な旅の末に青蓮寺で父と再会を果す。

そして、水戸、臼杵の両藩の支援を受け、翌年、郷里に無事連れ帰った。
郷里の臼杵市では、この話は盆踊りの口説き等として伝わっており、同市泊には供養碑が建てられている。
また、臼杵市立川登小学校には校内に記念碑が建てられているほか、校歌にも二孝女が歌われている。

この話が実話か否かは定かではなかったが、2004年に臼杵市の郷土史研究家が青蓮寺に照会したことをきっかけに、翌2005年に青蓮寺で臼杵藩江戸屋敷から青蓮寺宛の手紙や姉妹からの礼状等の17通の書簡が発見され、実話であることが判明した。
これらの書簡は「豊後国二孝女関係資料」として、常陸太田市の文化財に指定されている。
また、2007年には茨城県の県立高校の道徳副読本「ともに歩む」に掲載され、2010年10月には青蓮寺の境内に記念碑が建立された。


しかし、200年前、娘2人がほとんど徒歩で大分から常陸までを旅したという話、すごいものである。
よく追いはぎに襲われなかったものである。
当時から日本は比較的安全だったのだろう。
現在のほとんどの諸外国でも考えられないことである。
しかも往復である。
現在でも大分までは遠いという感じなのに。

そして農民の親子(多分、豪農だったとは思うが)の帰国に水戸藩、臼杵藩が支援しているのも感心する。
その記録が保管されていたのも素晴らしいことである。