里川紀行

晩秋の地徳橋2017.11.19
地徳橋は茨城県常陸太田市の市街地北部、里川にかかる「もぐり橋」「地獄橋」といわれる大水の時には水面下となり、時には流出してしまうような簡単な構造の木の橋の1つです。
里川にはこの手の橋が多くあり、いずれもTVドラマや映画のロケ地になっています。
もちろん時代設定が現代であるドラマ等にはあまり使われず、時代劇を含めて過去の時代が舞台とした作品ばかり。
これは周りの風景が昔のまま、日本の原風景が残されていることも要因です。(それと東京から時間的に近い)
多くのこの手の橋はより下流域の平野部にありますが、この地徳橋は上流域の山間にあり、里川が山にぶつかり大きく蛇行するような場所にあります。

この橋は2017年NHK朝ドラ「ひよっこ」にも登場しています。
主人公、有村架純演じる「みね子」の通学路がこの橋でした。
橋に行ってみるとこの風景は50年前、昭和39年の世界といってもそれほど違和感がありません。

間違いなく田舎です。まさに奥茨城村の風景です。
そこに紅葉が見ごろということで行ってみましたが、ちょっとピークからはずれた感じでした。
でも、田舎感は満喫できました。
この橋周辺は冬場はカワセミが飛び交い、多くのカメラマンが来ます。
橋の下を流れる里川の水質は泳げるレベルの清流であり、鮎が泳ぎます。
しかし、田舎!ここは時間が止まった過去、昭和の世界です。

福島県境付近を源流とし、旧里美村の谷を南流し、常陸太田市の市街地の東を流れ、常陸太田市南部で久慈川に合流する河川。
同名の川が全国に7つほどあるという。
里山に対する里川かと思ったが、「薩都」(今は「佐都」と書く場合が多い。)が語源らしい。
ちなみにこれは「殺」という意味であり、先住民族蝦夷の反乱成敗のため、大和朝廷が派遣した氏族の神ではなかったかとも言われ、「薩都神社」が存在する。
一級河川ではあるが、川幅は20mほどしかなく、渇水期には歩いて渡ることもできるくらいの川である。
関東の四万十川とまで言われる清流であり、鮎、鮭が俎上する。カワエビも生息するという。カワカレイもいたという。
谷沿いではカワセミが飛び交う。
水質が良く、泳ぐことも可能。

しかし、昭和40年代は汚染が進んでいたという。
その後、下水施設や家庭用浄化槽が普及したため、水質が改善され、かつての清流が復活したという。
この川の流域の水田で採れるコシヒカリは「常陸太田産コシヒカリ」として茨城県内最高のブランド米とされている。
流域の景色が素晴らしく、日本の源風景とまで言われる。地獄橋という木橋が多くかかり、風景に味を出している。
右の写真は田渡橋付近2009年4月11日撮影
田渡橋下流2006年11月16日撮影 機初橋から南側を  2009年4月4日撮影 機初橋の下 2009年4月4日撮影
上の写真の機初橋は映画やTVのロケで使われている。

2010年のNHK朝ドラ「ゲゲゲの女房」にも登場する。

その「ゲゲゲの女房」の多くのシーンに登場するのが、左の写真、八幡橋である。
機初橋から3kmほど下流、あと1.5qで久慈川に合流する。
一応、故郷の川と橋という設定である。

この橋は実は車がバンバン通る。
しかし、この風景は100年くらい変わっていないと思うが・・


2010年4月24日撮影。





田渡堰(常陸太田市田渡町)

水戸藩が水田開発をするため、里川からの取水施設として建設した。
建設は江戸時代初期、永田茂衛門の指導で行われた。

彼は甲州黒川で活躍していた金山衆であり、常陸国滞在中にその技術を見込まれて水戸藩の利水事業に従事することとなったという。
彼はここの他、代々辰ノ口堰、岩崎堰、小場堰などを手がけたという。
承応年間(1652−54)から使用され、蛇籠堰という形式という。
当時は当然、木製であった。年々改修が行われて使われてきたが、昭和22年9月カサリン台風により流失。
それを契機にコンクリート製重力堰に改修された。
しかし、戦後のコンクリート不足と粗悪品、さらに地形上の欠点から漏水がひどく、昭和42年に再度改修され現在に至り、現在も900haの水田に水を供給している。

この堰には魚の俎上路があり、俎上する鮭、鮎はさらに上流まで行けるようになっている。
また、堰付近の河原は子供たちの格好の遊び場であり、大きな河原石も多く、桜が植えられ、花見とバーベキューのメッカでもある。
ちなみに我が家の庭にもこの河原の石を使っている。
この堰の南の山がこの付近で最高の技術で造られた田渡城がある。
常陸太田城はここから南西2.5kmである。

右の写真は2010年4月11日撮影。
田渡堰、右の山が田渡城 下流側から見た田渡堰

里川の夏2012
麦わら帽子は もうきえた たんぼの蛙は もうきえた それでも待ってる 夏休み
姉さん先生 もういない きれいな先生 もういない それでも待ってる 夏休み
絵日記つけてた 夏休み 花火を買ってた 夏休み 指おり待ってた 夏休み
畑のとんぼはどこ行った あの時逃がしてあげたのに ひとりで待ってる 夏休み
西瓜を食べてた 夏休み 水まきしたっけ 夏休み ひまわり 夕立 せみの声


吉田拓郎の「夏休み」です。
夏を歌った曲って、国内だけでも300曲近くあるという。
比較的、夏らしいエネルギッシュな曲が多いですが、この曲はノスタルジーが溢れ、寂しい感じがする。
子供のころを思い浮かべる歌です。
浮かぶ風景は昭和30年代後半から昭和40年代前半のころでしょうか。

里川の近くを通ったら、家族が川で水遊びをし、おじさんが投網をうっていた。
この風景、平成の時代のものとは思えませんでした。
昭和時代の夏風景のように思えます。懐かしさに誘われます。
太陽のギラギラも夏真っ盛りで強烈。

歌詞とどこかダブル感じがしました。ちなみにこの川、水質は四万十川級、泳げます。
だから子供が水遊びをしています。
鮭や鮎、鰻が遡上します。冬はカワセミが飛び交います。
さすが渇水期で水は少ない状態でした。


黒磯バッケ(常陸太田市町屋町)
常陸太田市中心部から里川に沿って国道349号線を約6qほど北上すると、谷部の町屋地区に入る。
ここは里川を挟んだ幅500mほどの狭隘部であり、東の山に地徳館がある。
そして狭隘部の平地に旧町屋変電所があり、その反対側の山は崖になっている。
この崖、一帯を「黒磯バッケ」という。谷部の標高が45mであり、この崖の上の標高が200mであるので、100m以上に達する崖である。
上から見たら絶景であるが、下を覗き込んだら恐ろしいのなんの。
「バッケ」とは変わった名前であるが「抜景」が訛ったものともいう。
文字通り、「抜群の風景」ということらしい。または崖をそう呼ぶともいう。
南の幡地区に「バッケ横穴群」があるが、この横穴群のある幡台地南端部も景色が良く、かつ、崖になっている共通点がある。
この「黒磯バッケ」の麓に「黒川金山」跡がある。
佐竹氏が開発した金山の跡という。現在は採掘坑道は塞がれている。
この付近にはこんな金山跡が各所にあるという。日立鉱山も元はその1つであるという。

2003年10月11日撮影

麓から見た黒磯バッケの崖 崖の上から見た里川と町屋地区 麓にある黒川金山の塞がれた坑道入口

里川水系の水力発電所
里川の上流から中流にかけて5つの小さな発電所がある。
本当は6つあったのだが、町屋発電所は廃止されている。
いずれも明治から大正にかけて建設され、徳田発電所、小里川発電所、賀美発電所が、建物、放水路、取水所を含め国の登録有形文化財である。

文化財といえば、既に稼動を止めている場合が多いが、とんでもない。
100年近い年月を経ているのにこれらの発電所は現役なのだ。
でも、出力は小さい。全部あわせても3620kwに過ぎず、一般家庭5800戸分、東京電力が買い取り、この付近の家庭に供給されているという。

これらの発電所は茨城の電力王と呼ばれた地元常陸太田出身の実業家、「前島平」が興した「茨城電力」による。
前島は慶応元年(1865)3月、東茨城郡大野村(現水戸市)の水戸藩士、井坂幹の二男として生まれる。
明治維新で旧藩士が貧困に瀕し、明治12年(1879)15歳の時、久慈郡太田村(現常陸太田市)の亀宗呉服店(この店、10年ほど前まであったが、倒産してない。)丁稚奉公に出され、誠実さと勤勉な人柄が「亀宗」の本家の呉服店「亀半」の当主前島半三郎に認められて、20歳の時に婿養子となる。
彼により「亀半」の家業は盛んになり、太田商工会議所取締役、太田実業倶楽部長、町会議員を務めた。
明治31年(1898)6月には太田郵便局長に任命され、その後、「亀半」の店を閉じ、財界人への道をたる。
 明治39年(1906)10月、茨城初の電気会社「茨城電気株式会社」を設立し、久慈郡中里村に水力発電所の建設を進めた。
しかし、この工事は難航し、資金も底を付き、中止状態に追い込まれる。

中里発電所  小里川発電所 徳田発電所

当時、近くの日立鉱山が久原房之助により開発が進められ、電力を必要とした。
そこで久原は町屋、中里発電所に目を付け、これを買収し、工事を完成させ、日立鉱山が建設中の石岡発電所完成後、茨城電気が買い戻すという条件で、一時的に日立鉱山に譲渡。
この資金で前島は、水戸に火力発電所を建設。
明治40年(1907)8月10日県内で初めて水戸に電灯がともった。
その後、中里、町屋(常陸太田市)の両水力発電所を日立鉱山から買戻し、明治44年(1911)10月28日に常陸太田市に電灯がともった。
以後、里川流域に里川、賀美、小里川、徳田の4つの発電所を建設。

中里発電所  最大出力700kW 明治41年完成の100年以上を経た流域最古の発電所で里川の発電所の中で最も下流にある。
         90年前に設置した発電機を使い続けたというが、さすがに平成21年7月で新しい発電機に交換したというが、まだまだ、現役。

小里川発電所 最大出力1,000kW大正15年完成有形文化財。80年を経て、今だ現役の建物。
         これが自然に溶け込んで素晴らしい。

徳田発電所 最大出力650kW 大正15年の完成、里美牧場に行く直前の里川最上流にある発電所。
         発電所の建物は木造でかなり古いけど、国の登録文化財に指定されている。

賀美発電所  大正8年(1919)建設。最大出力は510kw。本館は木造平屋建、鉄板葺、建築面積189u、外装は下見板張、越屋根を設け壁面に広く開口部をとる。
         小屋組は木造プラットトラスで、発電機室には横軸水車と発電機を一組据える。登録有形文化財。取水所は本館から約4km上流。

里川発電所 最大出力700kW、大正12年(1923)完成。他の発電所が急勾配の送水管で発電を行うのに対して、この発電所は緩やかな勾配の畑の中を送水管が敷設されている。

賀美発電所   里川発電所の送水管
里川発電所 本館

その後、茨城の電力業界は多くの変遷を経たが、現在は東京電力の子会社、東京発電が管理し、驚くべきことに無人運転となっているが今も現役で活躍している。
これらの発電所は自流式であり、落差の大きい川の流れを利用し、上流で取水し、下流で一気に水を落とすことで発電機を回す方法を採る。
建設費は高いが、その後の維持管理費が安い究極のエコシステムである。
今も現役ということは、ちゃんとペイしているということである。
さらに、すっかり自然と風景に溶け込んでしまい。
一見、どこが発電所なのかわかりにくい状態になっている。

なお、すでに廃止されてしまった町屋発電所の変電所が、旧町屋変電所である。
左の写真がそれ、左の川が里川である。

この建物は、煉瓦造りで切妻屋根の建物と寄棟屋根の建物がつながった外観が特徴。町屋発電所から送られてきた電力をフランス製と見られる三相の碍子から取り入れ、各地に送電してた。昭和31(1956)年まで変電所として使われ、今は地域の集会所として利用され地元の保存会によって整備されている。
もちろん、国の登録有形文化財である。

里川沿岸の緑と建物の赤レンガがマッチし、秋には「いちょう祭り」が開かれる。 (常陸太田市HP等を参考にした。)


行灯の赤れんがと銀杏まつり 2012

茨城県常陸太田市の町屋町の旧町屋変電所付近を舞台に毎年開催されるタイトルの祭りに立ち寄った。

この建物、明治40年(1907)の建設、煉瓦造りで切妻屋根の建物と寄棟屋根の建物がつながった外観が特徴。

町屋発電所から送られてきた電力をフランス製と見られる三相の碍子から取り入れ、各地に送電してた。
昭和31(1956)年まで変電所として使われ、今は地域の集会所として利用され地元の保存会によって整備されている。

もちろん、国の登録有形文化財である。

春の桜の景色も素晴らしいし、雪景色も素晴らしい。
赤レンガと黄色く色ついた銀杏と照明、行燈がため息が出るほどの見事な風景を見せていた。


近くの廃校になってしまった旧河内小学校の体育館では地元の陶芸作家による作品展が開催されていた。

旧町屋変電所の桜 2012
我が家から10q北(茨城県常陸太田市町屋)なのだが、我が家周辺はもう散り始めているが、ここはほぼ満開。
ちょっとした距離で違うものだ。この付近は気温が少し低いのだろう。

冬場はこの付近が雪が積もっても、海に近い我が家付近では積雪なし、なんてこともある。

天気は晴れが最高なのだが、それほどよくはないものの、時々、薄日が。
まあ、いっか。
雲っていると、いい写真がとれない。
里川の流れを入れようとすると建物が小さくなり、いい構図が取れない。

カップルが歩いている・・邪魔だ。どけ!オバンが盛んに写真を撮っていた。

風景、うわさどおりのものでしたが、写真を見ても本物の迫力が全然、出ていない。
本物の方が、はるかに素晴らしかった。






2014年↓の風景

央橋(なかはし)(常陸太田市春友町/町屋町)
常陸太田市街から里川に沿って約5qほど国道349号線を北上。
春友町と町屋町間の境界の里川にかかる旧349号線の橋。
昭和12年(1937)に建設された支間32.8mの下路式鉄筋コンクリート造単アーチ橋。
国の登録文化財でもある。

アーチ材と桁が共に曲げ剛性を有し,それらを垂直材で結ぶいわゆるローゼ橋の初期の例で、残存する橋としては特に関東以北では貴重なものという。
地元ではメガネ橋の名で親しまれ、遺構ではなく、今だに現役。
すでに国道は新ルートに付け替えられてはいるが、この旧道は沿線住民の貴重な生活道路である。
橋長は34m、幅員は6.0m。

昭和12年ころには里川にかかる橋は、ほとんどが木造の橋であり、今も多くの木橋が現存する。
この橋の上流にも地徳橋という木造の橋が現存する。
その当時としては、この央橋は、画期的な橋であり、斬新なデザインだったと思われる。

橋幅もけっこう広く、現在も自動車同士のすれ違いができるほどであり、その点、先見性が感じられる。
橋幅は広いが、この橋を通った先の道は狭く、今でも、自動車同士のすれ違いがやっとできる程度の道幅である。
当時、自動車はほとんど走ることはなく、その後、何とか最大限に拡張したのがこの道路なのであろう。