常陸太田紀行1

佐竹寺(天神林町)
馬坂城の東にあり、佐竹氏の菩提寺である。
寛和元年(985)花山天皇の命により元密上人が創建したといわれるが、この寺のあった場所は、ここではなく北側の谷津の北側、観音山にあったという。
佐竹氏初代昌義は、この寺の本尊を信仰し、武運の隆盛を祈り寺領三百貫文の地を寄進し、代々の祈願寺と定めたという。
なお、佐竹という姓のいわれは、この寺で昌義が長さ二十尋に一節しかない奇竹を発見し、これを家門隆盛の瑞兆なりと感じ源姓を佐竹に改めたという言い伝えによる。
庫裡に90センチほどの長さの「一節の竹」が伝存するという。
何となく「かぐや姫」と似た話である。

しかし、観音山にあった寺は天文12年(1543)兵火に焼かれ、同15年佐竹義昭が常陸太田城の鬼門除けとして現在地に再建したという。
ただし、天文年間の兵火とはなんだろう。
このころには山入の乱は終わり、領内は比較的安定していたはずであるが、単なる失火で焼失したのではないだろうか。

寺の境内は完全な佐竹ワールドである。
本堂には佐竹の紋が掲げられている。
本堂も天文の頃あるいは若干後ころのものと思われるが、単層、「もこし」付、寄棟造り、唐破風の見事な建物である。
ところどころに禅宗様式をとり入れている。
正面の火頭窓(かとうまど)や柱、海老虹梁(えびこうりょう)など室町末期から桃山時代前記の建築様式を色濃く残している。
江戸時代は佐竹の影を消す目的で水戸徳川家が改築しているともいう。
この本堂は明治39年に国指定重要文化財となっている。
この寺の最盛期は佐竹氏が常陸全土を掌握した天正末期であり、佐竹氏の援助により本堂のほかに宝蔵・歓喜などの六支院と三ヶ坊を有する巨大寺院になっていたという。
しかし、佐竹氏が秋田に移されると寂れてしまい、水戸光圀が寺領を与え色々援助したという。
これも佐竹遺臣との融和策の1貫であろう。
延享年間(1744〜48)に「水戸藩の三十三札所」が設けられると、佐竹寺はその第11番の札所となり巡礼者によって賑わった。
しかし、明治維新の廃仏没釈などにより、再度、荒廃し、しばらく無住の期間もあった。

佐竹寺の仁王門。ここをくぐれば佐竹ワールドである。 築後450年、国の重文、桃山形式の本堂。 桃山建築の様式を伝える火頭窓。 本堂の屋根に乗る佐竹氏家紋が入った瓦。


梵天山古墳群(島町)
梵天山古墳群は、常陸太田市最南部、南の久慈川が流れる標高30m前後の独立台地にある。
高塚古墳13基と百穴と呼ばれる横穴群とからなる。
このうち、主墳の梵天山古墳、阿弥陀塚古墳、高山塚古墳の3基が巨大である。

梵天山古墳は全長151m、高さ13mの巨大前方後円墳で、茨城県内では石岡市の舟塚山古墳(全長182m)に次ぐ県内第2位の大きさである。
前方部が未発達なところから古墳時代初期5世紀中ごろの築造と推定され、古い形式の古墳という。

墳丘は林に覆われ、一見、山のように見える。
全貌が外部からはさっぱり把握できないのが残念である。
南にある阿弥陀塚は円墳、さらに南にある高山塚は直径90mもある。
大洗の車塚古墳についで県内2番目、全国でも5番目の規模を持つ大型の円墳であるが、前段部を持つ帆立貝式古墳ではなかったかとも言われている。
これらの古墳は、この地を治めていた久自国造舟瀬足尼とその一族、後継者の墓と考えられている。
ここは独立丘であり眺望も良い場所である。
古墳を取り込んだ城は結構があるが、ここは城としては使わなかったようである。

南から見た主墳の梵天山古墳。林に覆わ
れ全貌は分からないが、左が前方部。
前方部と後円部の中間部から後円部を見
る。巨大さが分かるであろう。
梵天山古墳の南にある2号墳、阿弥陀塚古
墳。直径40m、高さ10mほどの大型古墳

西山荘(新宿町)
江戸時代、常陸太田は水戸藩領であるが、水戸徳川家に係る伝承のようなものは著しく少ない。
例外はこの西山荘と水戸黄門そして水戸藩主墓所の瑞龍山程度である。

この西山荘は水戸黄門こと水戸二代藩主徳川光圀の隠居所として有名な場所である。
常陸太田城のあった太田小学校から金砂郷方面に向かい西に700mほど行った谷間にある。
黄門さまはここに元禄4年(1691)から元禄13年(1700)に死去するまで住んでいたという。
実質9年間であり意外と短期間である。

ちゃんと入園料も取られるので、非常に良く管理されている。観光客も多い。
建物は質素な茅葺屋根の平屋で渋い。
想像以上の建物は小さく、部屋は狭い。何となく茶室を思わせる感じである。
庭園の築山と心字の池が素晴らしい。簡素な建物と周囲の緑の調和が美しい。
ここの杉は紀州熊野からわざわざ取り寄せたものといい、現在では巨木となっている。

西山荘入口の門。簡素な造りである。 なにしろ緑が美しい。 黄門さまの隠居屋敷。簡素である。 心字池であるが、

黄門さまは、ここで「大日本史」編さん事業の監修をしたという。黄門さまは晩年、ここを拠点にこの付近を結構まわっていたといい、その伝承が残る。
なぜ、黄門さまがこの常陸太田を隠居所にしたかと言うには2説あるそうである。
いずれも佐竹遺臣が係る。
1つは水戸徳川家に反感の強い佐竹遺臣が多いこの地の住民との融和を図るためという説。
さかんにこの付近をまわっているのもその一環であろう。
当然、様子を探る目的もあったのであろう。
水戸徳川家はよほどこの地に神経を尖らしていたのであろうか藩主の代々の墓所は常陸太田の瑞龍山に置かれている。
もう1つの説は、3代目藩主を継いだのは実子ではなく、兄の子であり、万が一命を狙われたら対抗上、この地で佐竹遺臣の手を借りようとする目的であったともいう。
この西山荘自体も周囲を山に囲まれ、入口は東側に限定される地形であり、守りやすい立地条件ではある。


西光寺(下利員町)
2015年10月17、18日に開催された常陸太田市集中曝涼の会場の1つがこの寺。
なお、曝涼とは、別名「虫干し」、住んでいない家の戸を開け空気を入れ替えるアレです。
普段、収蔵庫に保存している文化財を外の空気にあてることで防虫と劣化を防ぐ行為です。
そのついでに一般公開が行われる。
これが市内外20か所で開催される。

会場の1つ、旧金砂郷村下利員の西光寺は真言宗豊山派の寺院でしたが、明治時代に無住になってしまい、大正12年に火災で仁王門を残し、本堂や薬師堂などの主要な建物は焼失してしまう。
幸い、本尊の薬師像は地元の方々によって運び出され無事だったが、ともかく外に放り出され一部が損傷した。

その薬師像が凄いのです。

国の重要文化財である。
おそらくこの付近では一番高ランクの仏像だろう。

正式には「木造薬師如来坐像」といい、像高は143.7cm(台座を含むと290.7cm)で九重の蓮華座上に座し、背中には飛天のつく光背を持っている。
平安時代後期の作で、京都府宇治市の平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来座像、京都市伏見区の日野薬師如来座像と同作であるとされ、定朝様式の仏像として県内では貴重な存在だという。
佐竹氏初期の殿様は平家と懇意であるため、京から運ばれたとか、同様に懇意であった平泉の奥州藤原氏から贈られたとも言われる。
確かに中尊寺にある仏像に良く似た感じである。
話には聞いていたが、実物の貫禄と威厳さ、国指定重要文化財の名に恥じない価値がある。

また、西光寺の焼け残った仁王門には「木造仁王像」が有る。

阿形像は像高236cm、重さ230kg、吽形像は高さ231.2cm、重さ246kg。
両像ともケヤキ財の一木作りとされていたが、修復で吽形像がカツラ材であることが判明した。
室町時代の後半の作で、こちらは県の重要文化財に指定されています。
一部、欠損があるが、やはり迫力がある。

真弓神社(真弓町)
常陸太田市の南東端部、日立市との境近く、阿武隈山地の最南端部の山にある。
風神山から山道を4qほど歩くと行けますが、さてどれほどの人が行くのか。
その真弓神社に西参道から行った。
この神社、凄い場所にある。

西参道は県道62号線の途中から参道が通じる。
入り口に立派な参道の碑がある。(左の写真)
しかし、この参道が曲者。

途中に大理石の採石場があり、道に分岐が多いが、なんの案内もない。
それに石を積んだダンプが走り、道はぐちゃぐちゃ状態。
ダンプの走る道から林道に入り、その終点が鳥居があって西参道の登り口。(右の写真)

ここのから比高110mを登れば神社であるが、この道が荒れている。雨が降れば沢になるような道である。
途中にある猿神がすごくリアル。(左の写真)
山頂近くでは杉の巨木が何本も倒れている。
ジメジメした谷を15分ほど登れば神社に到着。
しかし、とんでもない山奥にある。
なんでこんな山奥に神社を建てる必要があったのか?
多分、パワースポットなのだろうけど。

沢を遡った奥地であるため、ここからの視界は良くはない。
谷の間から一部、常陸太田方面が見えるだけである。
上の写真では峰山方面が見えるだけである。

この場所、標高329mの香炉峰という霊峰という。
この山系は東側に背骨の尾根があり、この神社はそこから西に突き出た尾根の先端部である。
この付近一帯を真弓山というが、主峰というものはないようであり、真弓山というのは山系全体を称しているようである。

この神社に行く西参道、風神山方面からの道以外のもう1つの道は大久保城方面から行く道である。
この道こそが、大久保天神山城と常陸太田城を結ぶ戦国時代の主要街道である。
この神社の謂れ
「大同2年(807)創立(社伝)。坂上田村麿と大伴乙麿が奥羽に向かう時、ここに八所権現を斎祀したという。
その後、堀河天皇の寛治年間、源義家この神に祈願し、陸奥を平定して凱旋途上、お礼に弓八張を奉納したという。
この古事により真弓八所権現というようになったという。
戦国時代は佐竹氏が武門の崇敬社として崇拝し、真弓村一村除地として社殿を造営。
江戸時代は幕府が25石の朱印地を与え、徳川光圀公が山王大権現の称号を与えたという。
ちょうど、ここが水戸城の鬼門にあたるため、特に重視して20余村の大鎮守とし、春季大祭に歴代藩主が代参させた。
徳川斉昭が弘道館記碑を作る時は、当山の大理石を使用することにしたが、石の搬出時に大風雨となり、祟りを恐れて誰も、搬出しなかったので、斉昭は和歌「武士の引立様と曳く石を真弓の神のいかで惜まむ」「我が国の道をひろむる石なれば真弓の神の祟りあるまじ」の二首を白扇に書して祈願し、無事搬出ができたという。」
明治元年12月社号を真弓神社と本来の名称に変更。

神社は、農業、漁業関係者に崇拝されている。

なお、この地方には72年に1度行われるという金砂大祭礼がある。
この時、金砂の神の神輿は真弓神社が見える場所で、敬意を込めて真弓神社に向けて弓を鳴らし真弓の神を招く。
こうして金砂の神楽に同乗してもらうのだそうである。

左の写真は2005年3月 幡町の十二町田んぼという場所を通る西金砂神社の参列である。
後方に弓を持つ一団が見える。
真弓神社は写真の右手に位置する。
この写真の撮影直後、真弓神社に向けて弓を鳴ら神事が行われた。

粟原釣場(粟原町)
久慈川は、福島県の東白川郡を流れ、大子から常陸太田市と那珂市の間、そして日立市と東海村の間を流れて太平洋に注ぐが、平野部では蛇行を繰り返し、洪水を引き起こした。
そのため、流域には輪中集落が発達した。
しかし、現在では川はまっすぐに直されている。
そのため、川の反対側に市町村の飛び地が所々に残される。

旧河川跡はほとんど水田になっているが、久慈川の旧河川跡が池となってかつての姿のまま、常陸太田市南部の粟原町に残されている。

現在は「粟原釣り場」という名になっている。池の幅を見ると今の久慈川よりかなり広い。かつては水量が今より多かったのかもしれない。

ここは3.7平方kmの敷地面積を有するレジャー施設。
名前のとおり釣り場になっており、特にヘラブナ釣りの名所として知られてる。

マブナ、コイなども生息している。いつ行っても釣り人が耐えない。