上州紀行1

富岡製糸場(富岡市富岡)
群馬県富岡市で一番有名な場所と言ったら富岡製糸場(Tomioka Silk Mill )でしょう。
社会の教科書にも必ず登場し、試験問題にも出るくらいですから知らない人は、日本人じゃないだろう。
最近では、世界遺産に登録する取り組みが進められ、平成19年(2007)1月30日には「富岡製糸場と絹産業遺産群」(The Tomioka Silk Mill and Related Industrial Heritage)として、日本の世界遺産暫定リストに加えられくらいである。
ご承知のように官営模範工場として、明治5年10月4日(1872年11月4日)に操業を開始した日本初の機械製糸工場である。

しかし、もともとはここは陣屋の跡である。
南側に鏑川が流れ、高さ20mほどの断崖になっており、城としての立地条件は良い。しかし、陣屋としての遺構は全くない。

ここ富岡製糸場の凄いのは当時からの主な建造物が現存していることである。
内部にある機器も昭和62年に操業を停止した状態のままである。まるでタイムトンネルの世界である。
設置された当時、開国直後の日本にとって、主な輸出品は茶と絹(生糸)であった。
生産量は多かったものの繭から生糸をつくる製糸工程は人力や前近代的な小規模な器具によるところが大きく、生産量が少ないフランスやイタリアよりも製品の質の面で大きく劣っていた。
このため、明治政府はこれらの国々と同様に大規模な機械を装備した近代的な製糸工場を稼動させ、製品の量・質ともに高めていくことが殖産興業推進に不可欠と考えた。
そこで、フランス・リヨンの商社、エシュト・リリアンタール商会の横浜駐在員のフランス人技師ポール・ブリューナ(Paul Brunat)の指導でフランスから繰糸機や蒸気機関等を輸入し、養蚕業の盛んな富岡(他にも気候や水などの条件もあった。)に日本初の機械製糸工場を設置することにした。

日本側の責任者は、のちに初代所長になる尾高惇忠であり、彼が資材の調達や建設工事の総指揮をとった。完成時、既に世界有数の規模であり、数百人の女工が日本全国から集められた。
しかし、後の「野麦峠」のころの女工とは違い、和田英など武家の子女が集まり、技術の習得と地方への波及を目的とした技術者養成学校も兼ねたものであった。
このため、労働環境は充実しており、診療所が併設され医師も常駐していた。
これにより、後に経験者が全国に散り、日本全国に建設された製糸工場にその繰糸技術が拡散した。
ただし、これは採算が目的ではなかったから成功したという側面もあった。いずれにせよ、日本の製糸の近代化に貢献し、富岡が明治二本の近代化を刺激したことは間違いない。

操業当初は民部省が設置し、その後、大蔵省、内務省、農商務省と所管が移った。
明治8年に日本人による営業目的の操業が始まったが、工場の規模が大きすぎたため、役人では十分に機能を発揮できなかった。
そこで、官営工業の払い下げ令により、明治26年(1893)に三井財閥に払い下げられ、明治35年(1902)横浜の生糸商原合名会社(原富太郎)に渡る。
さらに昭和14年(1939)、片倉製糸紡績会社(片倉工業)の所有となり、昭和62年(1987年)3月5日まで約115年間操業を続けて操業を終了。
平成17年(2005)7月14日付で「旧富岡製糸場」として国の史跡に指定され、平成18年(2006)7月5日に建造物が国の重要文化財に指定された。
なお、全ての建造物は片倉工業から平成17年(2005)9月30日付けで富岡市に寄贈され、現在は市が管理している。

←東繭倉庫:明治5年(1872の)建築 、長さ104.4m 幅12.3m 、高さ14.8m 「木骨レンガ造」という西洋レンガ積みの技術と、木で骨組みを組むという日本の建築方法を組み合わせ、建てられた。
使用されているレンガは、日本の瓦職人が隣町の甘楽町福島に窯を築いて焼き上げたもので、目地には下仁田の青倉、栗山で採取された石灰で作った漆喰を使用。一階は事務所などに使用、二階には乾燥させた繭を保管した。
倉庫一棟には最大で2500石の繭を貯蔵することができる。 西繭倉庫↓も同じスペック。
←ブリューナ館:明治6年(1873)建築、広さ約320坪の木骨レンガ造平屋建ての住宅。高床で廻廊風のベランダを持つこの建物は、首長ボール・ブリューナ一家とそのメイドが住んでいた。
ブリューナは明治8年(1875)末の任期満了までここで生活していた。

その後、工女の夜学校や片倉富岡高等学園の校舎として利用された。
そのため、内部は大幅な改造が加えられおり、当初の面影が少ない。
現在の講堂となっている床下には、食料品貯蔵庫に使用したと思われるレンガ造りの地下室が三室残されている。
診療所 近代的な製糸技術だけでなく、工女たちの就労条件や福利厚生まで充実しており、近代的な工場の一連のシステムが模範となった。

ただし、民間ではそれが廃れ、「野麦峠」のような悲劇につながって行く。


←繰糸工場 長さ:141.8m、幅:12.6m、高さ:11.8m、柱は33cm角で、すべて通柱を使用。
西欧式の三角形小屋組で、明かり採りのためにガラス窓が建物を取り囲んでいる。
ガラス窓のガラスはフランス製で、当時のものが現存している。
今日のガラス板にくらべると歪みが目立ち、当時のガラス板製造の様子がわかる。

ここで、蒸気機関を原動機とする繰糸機が稼動していた。現在は片倉工業で使われていたものが内部に設置されている。
蒸気機関のボイラでつくられた蒸気は、蛹の蚕を殺したり、蒸気管に通して水を加熱するのに使われ、このお湯で繭を煮た。
当時の繰糸機は、長野県岡谷市にある「蚕糸博物館」にあり、蒸気機関は愛知県犬山市の「博物館・明治村」に保管されている。

現在の繰糸機は昭和40年代に製作されたものであり、なんと豊田製と日産自動車製のものが仲良く存在している。
昭和62年に操業を停止した状態のまま、機器も保管されている。
旧3号館(事務館):木骨煉瓦造ベランダ付の住宅風建築。1階は竣工以来、事務所として使われている。
2階には貴賓室があり、大理石造のマントルピースは当時のもので、ソファーも当時のものとされている。
2号館との連絡部分は、のちに付設されたもの。
↑女工館(2号館) 回廊様式ベランダ付住宅。フランス人女性技術者が居住していたものという。
ブラインドやベランダの天井(斜めに板が並べられている)に特徴がある。

敷地は、約1万5千坪あり、開設当時の東・西繭倉庫、繰糸場、蒸気窯所、首長館、女工館、検査人館、鉄水溜、下水竇及び外竇など、煉瓦建造物等がそのままの形で残っている。
普通ならこんな古い建物は途中で壊し、新しい近代的な工場に建て替えるはずである。
しかし、片倉工業はそれをしていない。古い煉瓦造りの建物を補修しながら使い続けている。
この理由は「官製工場」を引き継いだのであり、それを壊すのは恐れ多いという意識から来たものという。

操業停止後も富岡市に移管する前まで、製糸場内の管理を片倉工業は実施しており、そのお陰で現在まで建物が残っている。

なお、余談であるが、片倉工業発祥の地は信州岡谷、後に繊維で片倉財閥を作る。
その先祖は、諏訪大社の大祝を務めた諏訪一族金刺氏である。
南北朝時代、その一族が奥州に行っている。その子孫が伊達政宗とともに語られる白石城を改修した片倉小十郎である。
その白石の片倉氏が保護していたのが、同じ信州がルーツであり大阪夏の陣で活躍した真田幸村の子女である。


草津白根山(草津町)
群馬県草津町に位置する標高2,160mの活火山。
常に噴火の可能性を持つ要注意の山で気象庁の観測対象である。
草津温泉の温泉の熱はこの火山の熱によるものといわれ、この火山が草津温泉の熱源ということになる。
志賀高原のシンボルの1つでもあり、最大の観光地、山麓を志賀草津高原ルートが通り、大駐車場がある。

山頂までは瓦礫の中に造られた道を高度100mほどをわずか15分程度で登れるので観光シーズンは凄い人である。
普通、湯釜のある白い岩むき出しの山を「草津白根山」と呼ぶが、近隣の逢ノ峰・本白根山を含めた三山を総称して呼ぶ場合もある。
今は山頂付近から裾野にかけて白い火山岩の山肌が広がっている。

この山は1.4万年前に出来たと推定され、1882年の噴火が記録に残る始めてのものであり、以前はそれほど活発な活動はなかったようで記録にない。
それまでは、現在の火口付近まで緑が広がっていたという。
その後、1897−1905、1925−1942の2期に活発な活動を行い、1939年には最大級の噴火が起きたという。
その後も頻繁に活動をしていたが、1989年以降はほとんど活動はしていないという。

ここに中学生の時に来た時は湯釜の湖岸まで入れた。
しかし、その後、立ち入りは湯釜の外輪山までとなり、現在は硫化水素ガス発生の危険性があり、そこも立ち入り禁止になり、湯釜北側の涸釜の北部分までしか入れない。
火口湖の湯釜がシンボルであるが、残念ながら遠くからしか眺められない。水釜、涸釜と呼ばれる火口湖もある。
これらも噴火口の跡である。弓池も火口湖の跡である。山麓の各所にクレーター状の窪みがあるが、これらも火口の跡という。
この山のシンボル、火口湖の湯釜は、直径約300m、水深約30m、水温約18〜25℃で、エメラルドグリーンが素晴らしい。
pHは1.0前後で、世界でもっとも酸性度が高い湖。当然、生物は生存しない。

中学生のころ湖岸でこの水を舐めて見たが、酸っぱかった。
ぬるま湯状態なのかなと思っていたが、水温は意外と低かったなという記憶がある。
それでも平均気温より数度高いということなので少しは火山の熱で暖かくなっているようである。
pHが高いのは火山ガス成分の塩化水素や二酸化硫黄が水に溶け込み、塩酸や硫酸となったためであり、
エメラルドグリーンに見えるのは、水に溶け込んでいる鉄イオンや硫黄などの微粒子の影響で、日光の特定の波長の光が吸収されるためだと考えられている。水自体がエメラルドグリーンをしている訳ではない。しかし、この色、いつ見てもうっとりするくらい素晴らしい色合いである。

吾妻峡(東吾妻町と長野原町
吾妻峡は国指定の名勝。群馬県東吾妻町と長野原町の間の吾妻川に架かる雁ガ沢橋から八ツ場大橋までの約3.5qにわたる渓谷。
火山活動により生成した安山岩層を川水が浸食してできたものと考えられている。
渓谷沿いにJR吾妻線と国道145号線が走り、国道に沿って川原湯温泉から探勝遊歩道が整備されており、懸崖や奇石、滝などの美しい眺めが楽しめる。

特に八丁暗がりは、長約900mで渓谷の川幅がせばまったところで、鹿飛びと呼ばれる深さ50m、川幅2〜3mの激流が流れる場所が凄い迫力。
国道145号沿いの遊歩道から川面を見下ろしたら足がすくむ。
両岸に生い茂るカエデやクヌギ、アカマツなどがすばらしい景観に季節ごとの彩りを添え、ムラサキツツジの咲く4月中旬、新緑におおわれた5月、紅葉の美しい10月下旬から11月上旬にかけてが、渓谷探検に最高のシーズンという。


八ッ場(やんば)ダム2013
民主党政権時代、政争の具にされ、翻弄されたダムである。
草津温泉や志賀高原の入り口にあたる群馬県長野原町にある。
2013年5月、何だかんだと言われながら、結局、工事は再開され、クレーンが動いていた。
そりゃ、工事しないと土建業者さんや関連企業、その家族の生活が困ってしまうし、土建業者さん経由で金が流れる政治屋さんも困るし・・で、役に立つかどうかはともかく、工事すること自体が多くの人にとっては必要なのだ。
(って、何を書いているのか、自分でも分からんけど。)

首都圏の水需要減少、吾妻川の水質が元々良くない、洪水対策は堤防等で足りる、ダムサイトの地盤が火山層で脆弱であることなどの理由でダム建設に反対の声がある。
その一方、自治体等は利根川全体の治水対策で重要、水資源はなお十分でないなどの推進論も渦巻き、どっちが正しいのかさっぱり分からない。
そんなもの見方、想定、切り口でどうにも変るのだろう。

東京都、埼玉県県などはすでに金を出しているので、今更引くに引けないし、多くの人の生活もかかり、政治屋さんは当選がかかり、何だか知らんが、ダムが必要だということになったのだろう。
ともかく、工事が行われていた。

久しぶりに通ったら、いやあ、えらく変わっていた。
吾妻川沿いをJR吾妻線と並行していた国道145号線が、比高100mほど高い山側を通るようになった。
これがまた眺めもよく広くきれいな道路なのだ。
広いのでスピードも出ること!
しかし、あの渓谷の断崖の上がテーブル状の台地となっていて、集落や畑があるなんてちっとも知らなかった。

城まであり、発掘調査が行われていた。そんな付け替えられた道路の一部として、不動大橋(湖面2号橋)が完成していた。完成は東日本大震災の直後だったという。
全長590m、5径間鋼・コンクリート複合トラス・エクストラドーズド橋。

民主党政権が八ッ場ダムの建設中止を打ち出し、騒動になりこの橋がダムには関係ないが、工事中でありマスコミにダムの象徴的な施設として映し出されたが、橋の建設工事は続行された。
しかし、完成予定直前、東日本大震災に見舞われ、工事は遅れ、2011年4月25日にようやく開通した。
何だか、踏んだり蹴ったりという感じである。
平成22年度土木学会田中賞(作品部門)を受賞したという。
下からの高さは87mある。その橋、結構渡る人が多い。
ダムの完成は当分先であるが、橋から見る風景が素晴らしい。迫力ものである。
こんなもの造ってしまう建設技術、日本は高いもんだ。
でも、ダムが完成したら橋から見えるのは湖面になるのだろう。

八ッ場ダム2015
建設現場に2015年11月21日にたちよりました。
2年前は橋が完成し、高台への住居移転が行われ、ダム本体の工事はこれからという状態であったが、
すでにJR吾妻線と国道145号線は山の上を通るようになっている。

川原湯温泉の地は更地になり、山の上に移転していた。ダム本体工事も始まっていた。
この政争の具となり、翻弄されたこのダム、完成後、どんな風景が展開するのだろう。
しかし、あの見事な吾妻峡と峡谷に沿って、吾妻線と並行してクネクネと走るカーブ連続の細い国道145号線、川原湯温泉の渋い温泉街の町並み、もうあの姿が見れないのは寂しい限りである。

ダム本体の建設予定地点、周辺工事が行われていた。 すでに国道、JRは移転、橋の下の川原湯温泉は更地、高台に移転していた。

碓氷橋(安中市松井田町)
碓氷橋という名の橋は、「めがね橋」として有名であり、産業遺産でもある赤レンガ造りの旧信越本線の「碓氷第三橋梁」の通称でもある。
写真の橋も碓氷橋であるが、こっちは、上信越自動車道の碓氷峠登り口にある長さ約1.3qの高架橋である。
上信越自動車道の最大の難所は、この碓氷峠付近であり、下の群馬県安中市松井田と上の長野県軽井沢間の標高差600mほどを一気に上り下りする。
ここは霧の発生しやすい場所であり、特に夜間に霧に巻かれた道を走行するのは恐怖である。
霧のかからないトンネルの中を走行する場合は問題ない。前に車がいる場合は、テールランプを目印に走れば良いのであるが、いないと悲劇。全然、前が見えないのである。
横川SAを過ぎ、長野方面に走ると直ぐにこの橋となる。

この橋を越えるとトンネルとカーブの連続である。
橋はJR信越本線,旧国道18号線,霧積川,碓氷川の谷をまたぐように設置され、我国の高速道路初の一面吊PC斜張橋だそうであり、谷底から道路面までの高さは113mもある。
下から見上げた姿もまた大迫力である。
曲線を描く斜張橋の逆Y字型の主塔が近代美をかもし出している。
上信越自動車道の橋としてはこの橋と上田ローマン橋が美的にももっとも目立つ橋であろう。
技術的にも優れたものであり、平成4年度土木学会田中賞、PC技術協会賞を受賞している。
そんな橋を峠を下りながら撮影。
古いものも美しいが、こんな近代的なものもまた別の視点できれいなものだ。

碓氷鉄道文化村(安中市松井田町)
平成11年4月に開園したJR東日本信越本線横川駅-軽井沢駅間が長野新幹線開通に伴い廃線となり、横川駅に隣接した横川運転区跡地に建設された体験型鉄道テーマパーク。
上信越自動車道開通で国道18号線がメインルートではなくなってしまったが、碓氷バイパス入口手前にある。
上信越自動車道利用なら松井田妙義ICで下りて、国道18号線を碓氷峠方面に走れば良い。

ここでは標高差600mもある鉄道の難所であった碓氷峠で活躍した鉄道車両、国鉄時代の貴重な車両などを展示・公開し、信越本線の廃線跡を利用してEF63形電気機関車の体験運転が行われたり、トロッコ列車が運行されている。

遊園地風の遊具もあり、本格的な「てっちゃん」から家族連れまで楽しめる。
ここの実物展示コレクション、電気機関車が圧倒的に多い。
それに客車も。北陸や九州で活躍していた車両もある。
昔、見た記憶のある車種までちゃんとある。
車両の中まで入れ、運転席に座ったりできるのもうれしい。
これは国鉄末期にSL中心のの京都梅小路蒸気機関車館に対し、電気機関車の博物館を作ろうと多くの歴史的な電気機関車を高崎に集め、高崎付近に計画されていた「高崎電気機関車館」計画が消滅し、宙に浮いていた車両をここに展示することになったためとのことによる。

ともかく、スクラップにされず良かった、良かった。
SLを期待していたのだが、D51形(D51 96)が1台のみ。
これは埼玉県長瀞でSLホテルとして使用されていたものを移設したもので、整備すれば稼動できるとのこと。
動いているの見たいね。