安曇野紀行

安曇野の初夏2015
2015年6月、3年ぶりに安曇野に。
だいたい行くのは秋口が多かったけど、季節により印象はかなり異なる。
しかし「あづみの」という響き、なかなか良い。
「安曇野」の範囲がどこまでかという明確な線引きは無いが、概ね安曇野市、池田町、松川村の3市町の他、さらに松本市梓川地区(旧・梓川村)を古くは安曇平(あづみだいら)と呼んでいたのでこの地域一帯だろうか。
広義なら松本盆地全体といってもいいのかもしれない。

↑ 光城から見た安曇野。川は梓川。左の山は常念岳

安曇野の名前は、臼井吉見の小説『安曇野』によって有名になり、名称が定着したというのが一般的らしいが、
それ以前にも武者小路実篤、若山牧水、土岐善麿らの文人も作品中、「安曇野」を使っているというのでもっと古いのかもしれない。
「安曇」の語源は古代にこの地に移住してきた古代海人族安曇氏に由来するという。

安曇は海人津見(あまつみ)が転訛したものとされ、津見(つみ)は「住み」を意味する古語とする説もあり、この説によると安曇族はそのまま「海に住む人」を示す。
「日本書紀」の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記され、「古事記」では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている。
その他、「新撰姓氏録」では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記される。

安曇氏はもともと北九州の志賀島周辺を本拠地としていたが全国に散らばっていったという。
移住の要因として、磐井の乱や白村江の戦いでの安曇比羅夫の戦死が関係しているとの説があるという。
移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、
愛知の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆の熱海、山形の飽海郡(あくみぐん)「志賀」や「滋賀」などの地名は安曇族との関連したものという。
穂高神社は信濃の安曇郡に定住した安曇氏が祖神を祀った古社であり、中殿(主祭神)に「穂高見命」、左殿に「綿津見命」など海神を祀っている。
内陸にあるにもかかわらず例大祭(御船神事)は大きな船形の山車が登場する。
したがって志賀島から全国に散った後の一族の本拠地は、この安曇郡(長野県安曇野市)とされる。

どうして、わざわざ海と関係のない内陸のこの地に入ったのかはわからない。糸魚川から姫川を遡ってこの地に至ったのであろう。
一説にはこの地で産する「ヒスイ」を求めて来たというが、「ヒスイ」の産出は縄文時代の話であり、移住したころにはすでに忘れられているため、この説は否定される。
安曇族の末裔がこの地の豪族、仁科氏という。

この安曇野、わさび畑、碌山美術館、いわさきちひろ美術館の多くの美術館、双体道祖神等、色々な名所があるが、それ以外は日本のどこの田舎にでもあるような田園地帯である。
水田や集落を見た限り、我が家の近くとほとんど差はない。
しかし、決定的な違いがその背景である。
西に北アルプスの山々が屏風のように並ぶ。
安曇野の標高が550mに対して3000m級であるので比高2500mほどにもなる。
山が迫ってくる感じである。
山の迫力が並みじゃない。
季節毎に変わる背景と田園風景が素晴らしいのである。
特に雪を抱いた山々をバックにするとここの田園地帯が引き立つ。

安曇野のわさび園と水車(安曇野市)
大王わさび農場は長野県安曇野市にあるわさび農場である。
大王農場、大王わさび園とも呼ばれる。北アルプスに降った雪や雨が伏流水となり、扇状地の末端のこの地で湧き出る湧水を利用した安曇野わさび田湧水群の一角にある。
わさび園としては日本最大規模という。
1917年に開場し有限会社大王が運営している。

ここは何と言っても黒澤明監督の映画『夢』のロケ地として蓼川に沿った三連水車小屋付近の風景が有名になった場所でもある。

また、周囲の安曇野の田園風景と北アルプスの景観が見事である。
このため、年間約120万人が訪れる安曇野を代表する観光スポットになっており、大駐車場が完備され、観光バスで客が来る。
わさび田に引かれる湧水は一日12万トンで、水温は年間通して12℃。
収穫は年間通して行われる。農場面積は15haあり、年150tを収穫する。直射日光に弱い為、4月から9月末まで黒い寒冷紗でわさび田を覆う。

売店は、わさびソフトクリーム、わさびコロッケなどわさび尽し。
意外とわさびソフトクリームはわさびの味はしない。
しかし、わさびは高い!1本500円から1000円もする。
美味いけど、手を出すにはちと・・・。
売店の商品もわさびつくし。
わさび蕎麦に、クッキー、かりんとう、納豆、かまぼこ、漬物・・よく考えたものだ。

もちろん、人は三連水車小屋付近に集中し、撮影スポットである。
しかし、撮影しようとしても人が多くて、どうしても人が入り込んでしまう。
それに川をゴムボートで行き来するツアーもあり、これも撮影の邪魔になる。
観光地ならではの悩みどころである。
なお、入場料は無料、売店でわさび製品を買っていただければそれでいいのだろう。


初夏の碌山美術館(安曇野市穂高)
安曇野観光のシンボル的存在がこの碌山美術館本館である。
安曇野を紹介する冊子には必ずこの建物の写真が載る。
ここは31歳の若さで亡くなってしまった近代彫刻家荻原碌山(守衛)の個人美術館である。

碌山は東穂高村(現安曇野市穂高)出身で、「東洋のロダン」として知られる。
碌山美術館はその作品と資料の蒐集、保存および公開を目的として、1958年4月に開館した。
また碌山と関係の深い芸術家たち、高村光太郎、戸張孤雁・中原悌二郎らの作品も併せて展示している。
本館はキリスト教教会堂を思わせる赤レンガ造りで蔦がからまるシンボリックな建物。
ここに碌山の彫刻・絵画・書簡等を展示している。

展示されている彫刻は美術の教科書に載っていたものがいくつか。
いくつかは重要文化財になっている。
さすがに重厚な作品が多い。
若くしてここまでのものを創作するとはまさに天才である。
しかし、あまりにも若く惜しい。
絵画も展示されていたが、彫刻に比べるとインパクトは少ないように感じたが・・。

本館の建物は2009年に国の登録有形文化財に登録された。
今井兼次の設計で、RC構造で古いものかと思ったが意外に新しい建物である。
絡まる蔦の葉が季節ごとに色を変えたり、落葉したり、さらに冬場は積雪するので季節ごとに景観が大きく変化する。派手さは全くなく「渋い」!
ここには2005年の秋に来ているが、今回2015年6月は初夏、同じ建物であるがまったく違う景観であった。
やはりこの建物もアルプスを背景にした風景に非常にマッチする。

安曇野ちひろ美術館(松川村)
絵本画家いわさきちひろ(1918-1974)の絵を知らない者はいないだろう。
彼女の作品などを紹介する美術館である。
この地との関係は、ちひろの両親は信州で生まれ育ち、戦後はここ松川村で開拓農民として暮らしたため、ちひろは幼いころから折にふれてこの地を訪れ、スケッチも数多く残していいることによる。
彼女の作品の背景にある自然観は、安曇野の地がはぐくんだものと言われる。
1997年4月にオープンしたこの安曇野ちひろ美術館は、北アルプスの山麓に位置し、東には安曇野の田園地帯が広がる場所にある。
展示物、建物、庭も素晴らしいが、それを引き立てているのが周囲の風景だろう。
このため、開館以来、安曇野、長野県の新名所として大きな関心を集め、県内外から多くの人が訪れている。

展示物としては、いわさきちひろの代表作のほか、初期の素描、水彩、信州との深い結びつきを示す作品など、約80点が展示されており、ちひろの画業の全体像、人生を知ることができる。
その他、ちひろの作品に影響を与えた画家の作品やゆかりの品々も所蔵されている。

また、ここのコレクションとして世界28カ国約16,400点、ちひろと合わせ、計25,800点の絵本が所蔵され、この分野では最大級のコレクションであり。
「絵本美術館」として世界の絵本画家の作品と絵本の歴史を紹介する展示室があり、ちひろとともに年4回作品の入れ替えを行っている。
さらに館内には、絵本の図書室、戸外にも出られるカフェ、オリジナルグッズが並んだミュージアムショップ、幼児室、絵本研究家のための資料研究室などの設備も揃っている。

なお、ご承知のようにいわさきちひろは共産党の代議士であった松本善明氏の奥さんであり、共産党員である。
訪れた時(2015年6月)には戦争に係る絵画展をやっていた。
その中には安保法案に係り安部さんを批判する内容が描かれた絵もあった。
普通は政治的主張が強いものは展示しないはずだが・・・やはり共産党の影が見え隠れしていることを感じさせる。
(松川村HP等を参考)


安曇野の双体道祖神
安曇野の名物の1つが双体道祖神。
男女の神が並んで彫られた面白い道祖神である。
道祖神とは道端の神。
古くからある素朴な民間信仰の代表的なものだろう。

集落の境や村の中心、 村内と村外の境界や道の辻、三叉路、十字路などに主に石碑や石像の形で祀られる。
外部から村に侵入する邪霊,悪鬼,疫神などをさえぎったり、はねかえしてくれると信じられている神である。
それが転じて村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神としても信仰される。

↑ 集落の中にあった双体道祖神、風化が進んでおり江戸時代のものではないかと思われる。
いずれも男女が手を取り合っている像である。


管理人の生まれた地区では、地区の中心部にあたる交差点に道祖神と刻んだ大きな岩があり、正月明けのどんど焼きなどが、その前で行われていた。
(その後、火の粉で付近の民家が燃えそうになり、もっと広いお寺の境内に移転した。)

↑これらはそれほど風化が進んでいないので比較的新しいものと思われる。

道祖神は道陸神、賽の神、障の神、幸の神(さいのかみ、さえのかみ)、フナドガミ(岐神)、タムケノカミなど各地で様々に呼ばれる。
秋田県湯沢市付近では仁王さんと呼ぶと言うので神仏混合状態である。

道祖神の記録としては『平安遺文』に収録される8世紀半ばの文書には地名・姓としての「道祖」が見られ、『続日本紀』天平勝宝8年(756年)条には人名としての「道祖王」が見られる。
10世紀半ばに編纂された『和名類聚抄』、11世紀に編纂された『本朝法華験記』には「紀伊国美奈倍道祖神」(訓は不詳)の説話が記されている。
また、『今昔物語集』にも同じ内容の説話が記され、「サイノカミ」と読ませている。
13世紀の『宇治拾遺物語』に至り「道祖神」を「だうそじん」と記述している。
松尾芭蕉の「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場する。

道祖神の神体は性器なのだそうである。
そのため、陰陽石や丸石などの自然石を祀ったものが多いという。
男女の性器を村境に安置して、悪を防ぐ呪術は古代から存在し性器の霊力が重んじられていた。
そのオリジナルがおそらく縄文時代の男根石信仰だろう。

道祖神の多くは大きな自然石に「道祖神」と刻んだものが多いが、双体道祖神という変わったものがある。
日本全国に存在するが、甲信越地方や関東地方に多く、安曇野が特に多いので有名。
長い期間に陰陽石信仰や岐の神信仰、岐の神と同神とされる猿田彦神と、その妻といわれる天宇受売命と男女一対の形になったり、さらには地蔵信仰なども複雑に融合した結果、男女2神を併祀する双体道祖神が現れたのではないかと言われる。

安曇野の道祖神の多くは江戸時代のものだそうである。
古いものは風化してしまいよく分からないようになっているものもある。
中には酒を注いでいるようなものもあり、ここまで来ると信仰というより、おふざけの要素が強いようにも思える。
明治以降も造られており、最近でも造らているそうである。
(Wikipedia等参考)

各地の双体道祖神
双体道祖神は安曇野ばかりではありません。安曇野ほど多くはありませんが各地にも存在します。


長野市戸隠で
長野市若穂で 栃木県益子町で

平成の双体道祖神

双体道祖神は今も造られています。
しかし、本来の目的とは違っているようです。
神社やお寺に奉納されているものが多いみたいです。
↑長野市松代町明徳寺にて ↑長野市戸隠にて
←長野市若穂東山神社にて


上高地(松本市)
中部山岳国立公園内で一番知名度と人気がある観光地であり景勝地である。
国の文化財(特別名勝・特別天然記念物)に指定されている。
標高は約1500mとかなり高い。

↑河童橋から見た穂高連峰と氷河地形(写真はいただきものです。)

行政上はかつては梓川村であったが、平成の大合併で松本市に属するようになっている。
ここも松本?と非常に違和感があるが・・・。
この国立公園内には穂高、槍などの超メジャーな山々があるが、そこへはそれなりの装備をした者でなくては行けない。

ここ上高地だけはバスが乗り入れているので一般人も行くことができる。
松本から梓川上流を遡ったの奥地にあるが、梓川と並行して走る国道  号線、この道路はけっこう怖い。
もともとかなり急な山が迫る渓谷沿いを走るため、狭いうえ、アップダウン、カーブあり、トンネルも狭く、かつ暗い。
そこを大型バスなどがバンバン走る。
特に安房峠にトンネルが開通したため、岐阜県高山方面に向かうバスやトラックも走るため、交通量も多い。
すれ違いも恐怖である。

湿地帯が広がる 河童橋から見た焼岳、この山の噴火で大正池ができた。


渓谷沿いでは所々、温泉が湧き、谷間から湯気が立ち上る。
台風で山が崩れ道路がふさがったこともある。
かつては乗用車も乗り入れていたが、排気ガスが自然が破壊される恐れがあった。
このため、昭和50年(1975)から観光シーズンの夏場だけ乗用車の乗り入れ禁止の規制をはじめ、平成8年(1996)から全面的な乗用車規制、さらには平成16年(2004)からは夏場の観光バス規制も開始した。

今は「上高地」と書いているが、本来は「神垣内」と書いたそうである。
字のごとく神がいる場所という意味である。
穂高神社の祭神・「穂高見命」(ほたかみのみこと)が穂高岳に降臨し、この地(穂高神社奥宮と明神池)で祀られていることに由来するという。
神聖な場所であったのだ。確かに晴れた日にここから眺める山々、神聖な風景である。
ここは温泉もあり、風光明媚な一般観光地でもあるが、穂高や槍方面への登山基地でもある。

上高地の範囲がどこまでかは明確ではないが、梓川上流部の谷間、大正池から横尾までの前後約10km、幅最大約1kmの堆積平野を指す。
一般的な観光地としては河童橋付近であろう。
平野部は梓川が焼岳火山群の白谷山の噴火活動によってせき止められ池が生じ、そこに土砂が堆積して生まれたと考えられている。上部では氷河地形が見られる。

上高地を世界に紹介したウェストンのレリーフ 上高地のシンボル、河童橋


標高1500mもあり、気候的に山地帯(落葉広葉樹林帯)と亜高山帯針葉樹林の境界線付近の高度に位置する。
ブナ・ミズナラ・シナノキ・ウラジロモミ・シラビソ・トウヒなど、両者の森林の要素が混在し、更にヤナギ類やカラマツを中心とする河川林や湿原が広がるなど、豊かな植生で知られている。
気候は亜寒帯湿潤気候である、1月の平均気温は-7.7℃、最低気温は-20℃を下回る厳冬の世界である。
夏場、8月の平均気温は19.7℃で日中でも22℃ほどにしかならず夏はかなり涼しい。

いつごろから上高地に人が入っていたのかは不明であるが、ここが穂高神社の奥宮であることから平安時代には人は来ていたのではないかと思われる。
剣岳同様、修験僧が修行で山に登ったこともあったのであろう。
明確な記録があるのは江戸時代初期、樹木伐採のため、徳郷(とくごう)今の上高地の明神。明神館の場所に松本藩の役人小屋が作られている。
この地の木を切り、梓川を松本まで流したのだろう。

文政11年(1828)越中富山の僧侶播隆(ばんりゅう)が槍ヶ岳に登り、仏像を安置したという記録があり、修行登山が行われていたことが分る。
明治18年(1885)には上高地牧場が開設されている。

そして、明治29年(1896)ウォルター・ウェストンがこの地を訪れ日本アルプスをイギリスに紹介している。
この頃の景観は現在とは多少異なっていたようであり、大正4年(1915)焼岳が噴火して、梓川が堰き止められ、大正池が形成される。
この頃はまだ道路が未整備であり、徒歩で入っていたようであるが、車道ができたのが昭和2年(1926)、昭和8年(1933)バスが乗り入れるようになる。
これにより多くの人が訪れるようになる。
その中には多くの文人も含まれ、昭和3年(1927)芥川龍之介が小説『河童』の中で、上高地と河童橋を登場させている。昭和9年(1934)中部山岳国立公園に指定されている。

河童橋は、上高地の梓川に架かる木製の吊橋。明治24年(1891)に初めて橋が架けられた。
全長37m、幅3.1m、長さ36.6mのカラマツ製の橋。
上高地を象徴するのシンボルの一つであり、毎年4月27日に橋の袂で『上高地開山祭』が開催され、11月15日には、『上高地閉山祭』が開催されている。
ケショウヤナギの巨木が周辺の河畔に群生している。
橋は過去に4回架け替えられており、現在5代目である。

なお、河童橋という名前の由来は、諸説があるが、昔ここに、河童が住みそうな深い淵があったためとか、まだ橋のなかった時代、衣類を頭に乗せて川を渡った人々が河童に似ていたから、などの説がある。
より有名にしたのは芥川龍之介が小説『河童』の中に登場させたためであろう。
ここから眺める穂高連峰の姿は絶景であるが、訪れた日(2014.6)は生憎、梅雨のド真ん中、絶景は拝むことはできなかった。
余程、運が良くないとこの絶景は拝めない。
欧米人も多いが、あの騒がしい集団はここまでやって来ている。
チベットあたりに行けば十分と思うのだが・・・。(Wikipedia参考)

安曇野絵本美術館(安曇野市穂高有明)
安曇野の森の中にある絵本専門の美術館である。
なぜかこういうのも好きなのでつい立ち寄ってしまった。
この美術館についての詳細は以下のHPで
 http://www.ehonkan.net/
絵本と言えば、幼児向けが多いが、ここは完全に大人向けである。
絵本も今は、芸術の1分野として認識されているが、ここを見ると、なるほどこれは芸術だと思う。
しかし、展示内容もさることながら、この美術館の雰囲気自体にも味がある。建物もいいが、通路がまた芸術的であり、木の彫刻が並んでいる。まるでメルヘンの世界、絵本の中の世界である。
展示方法も工夫が凝らされていた。
(残念ながら内部の撮影はできない。)
「いわさきちひろ美術館」も近く。こちらもなかなか良い。


仁科三湖(大町市)
仁科三湖とは、長野県大町市北部にある北から順に青木湖、中綱湖、木崎湖と並ぶ3つの湖の総称で、戦国時代この地を支配していた豪族「仁科」氏の名前をつけている。
この仁科三湖を過ぎるとスキーのメッカ白馬である。
この3つの湖は、糸魚川静岡構造線上の地溝上にできた構造湖群で、北の青木湖から農具川が流れ出て3湖が繋がっている。
夏はキャンプや釣り、冬はスキーで賑わうが、周囲はそれほど開発は進んでいない。
この中で最大の湖は青木湖であるが、面積は1.86平方kmとそれほど大きくはない。

しかし、水深は58mと深い。標高も822mもある。湖水の透明度は高い。
この湖に流入する河川は無いが、水位が保たれていることから湖底にかなりの湧水があると考えられている。
青木湖から流れ出た農具川が中綱湖に入る。
中綱湖は面積は0.14平方kmと池程度と小さいが、ヘラブナ釣りのメッカ。
木崎湖は湖畔に木崎湖温泉があり、旅館や民宿なども多く一番開けている。
左の写真は北東側から見た木崎湖、正面の森が森城跡である。
面積は1.4平方kmほどある。ここも釣りのメッカであり、コイ、フナ類、ワカサギ、オオクチバス、コクチバスなどが釣れる。
木崎湖にしかいない幻の魚「木崎マス」が住んでいる。
三湖の周辺には、青木湖、鹿島槍、大町、白馬さのさか、ヤナバなどのスキー場がある。
最大の湖、青木湖 木崎湖畔を走るJR大糸線の電車 森城から見た木崎湖と青木湖方面

仁科神明宮(大町市大字社)
ありふれた田舎の神社である。ところがこの神社の社殿、国宝なのである。
神社は大町市の南部、社地区の東の筑摩山地山ろくにあるが、そこまでの道、完全なる田舎道、とてもその先に国宝建築があるとは信じられないくらいである。
どう見ても一見、各村にある郷社、鎮守の森といった感じである。
この神社の本殿と中門(前殿)の2棟が現存最古の神明造建築であるとして昭和28年に国宝に指定されている。
このうち本殿は、桁行3間、梁間2間、神明造、檜皮葺(ひわだぶき)、中門(御門屋(みかどや))は四脚門、切妻造、檜皮葺であり、釣屋(つりや)がこれらを連結している形式であり、伊勢神宮と同じである。

ただし、伊勢神宮は形式は踏襲されているが、遷宮が行われるので社殿が新しく国宝にはなっていない。
ここの社殿は遷宮はなく、寛永13年(1636)の造営で、神明造の建築物としては、わが国最古のものである。
このことから国宝に指定されている。
特徴は,屋根が「切妻」となっていて,入り口が妻側ではなく棟に平行する正面に設えてある点であるという。
「平入り」と呼ばれるこの入口の位地は,天津神を祀る神社の入口なのだそうである。
天津神とは大和朝廷が祀る神のことである。
この神明造は,棟木を直接支える棟持柱があること,高欄付きの回縁があること等にも特徴があるという。
平安時代、後冷泉天皇のころ、皇大神宮御領であった仁科御厨の地に勧請されて創建されたといい、古族仁科氏が神事を司ったという。
仁科氏の氏神でもある。この仁科氏は天正10年(1582)、武田氏により滅ぼされ、江戸時代には、松本藩藩主代々の祈願所となった。
この時代、寛永13年、松本藩主松平直政が執り行った式年遷宮を最後に、本殿の造替は途絶え、その時の社殿が現在、伝えられるものである。
大工は大工金原周防、以後、修復が続けられ、昭和11年には解体修理を行ったという。
長野県指定天然記念物の指定を受けた「仁科神明宮の社叢」の森の中にあり、その代表は樹高 45m、幹囲 6.4m、推定樹齢300年以上の杉である。
そんな鬱蒼とした森の中に社殿があり、まさに荘厳な雰囲気がある。