青森紀行

十和田湖
青森県十和田市、秋田県鹿角郡小坂町にまたがる湖。と言っても7割くらいは青森県側に属する。
もちろん、青森県最大の観光地である。

発荷峠展望台から見た十和田湖の西湖部分、半島は中山半島、その向こうに中湖と御倉山が見える。

一帯は十和田八幡平国立公園内に指定されている。日本の湖では12番目の面積がある。
ほぼ円形で直径は8qほど。南から御倉山と中山半島が突き出る。

十和田火山の噴火で形成された二重カルデラに水が溜まった湖で、活火山として指定され、いつ火山活動を再開するか分からない。
湖の標高が400mであるが、最大深度327m、海水面より少し高いくらい。この深さは日本第三位。
湖水が流出する河川は奥入瀬川しかない。
最大深度地点は御倉山と中山半島の間にある中湖水域。
この付近が火口らしい。

西湖 東湖と御倉山

大きな噴火は、5万5000年前、2万5000年前、1万3000年前に起こり、陥没した火口が湖となり、周囲の山が外輪山。
この外輪山から湖への勾配は急である。
湖水面から外輪山山頂までの比高は400〜600mほどもある。
南西の外輪山山頂直下にある発荷峠展望台からの眺望は素晴らしい。
東湖や西湖はこの第一カルデラの一部である。

さらに約1万年前の噴火の火口に水が入ったのが中湖。
もっとも新しい噴火は、915年(延喜15年)。毛馬内火砕流が発生し、周囲20kmを焼払った。
この噴火は過去2000年間に記録に残る日本国内で起きた最大規模の噴火であった。
この噴火の火山灰は大被害をもたらし、噴出物は米代川流域を覆い尽くし、三湖伝説として残こる。
奥入瀬渓流とともに特別名勝及び天然記念物に指定される。
なお、もともと魚介類は、サワガニのみであり、現在生息している魚は全てが人為放流された物であり、ヒメマス、ニジマス、イワナ、サクラマス、コイ、フナ、ウナギ、カジカ、ヨシノボリ、スジエビ、サワガニが住む。

奥入瀬渓流(青森県十和田市)
奥入瀬と言えば、あの紅葉のシーズンの写真が超有名。
もちろん、冬の景色も若葉のシーズンも素晴らしい。
とんでもない山奥にあるのかと思うが、さにあらず。渓谷に沿って県道102号線が通り、その脇があの写真のスポットなのである。
紅葉のシーズンなど大渋滞、車の駐車場所確保が1大難関である。
したがって、あの見事な写真の範囲外には実際には大勢の人がいるのである。ちょっと、拍子抜け。
十和田湖畔子ノ口から焼山までの約14kmの奥入瀬川の渓流を指し、一帯は十和田八幡平国立公園。
国指定の特別名勝であり、天然記念物に指定されている。
十和田湖の湖水が流れ出る川が奥入瀬川、その渓流沿いにはいくつもの滝が点在、このため、「瀑布街道」とも呼ばれている。
十和田湖の湖水が流れ出たものであるため、水温は比較的暖かい。
十和田湖への魚の遡上を阻止してきた魚止めの滝でもある銚子大滝をはじめとして、阿修羅の流れ、雲井の滝等多くの景勝地がある。
渓流沿いには車道とともに遊歩道が整備されている。

青函連絡船(青森市)
青森市は弘前藩の港として出来た町であるが、町は青函連絡船とともに交通の要衝として大きく発展したといえるであろう。
その青函連絡船とは、明治41年(1908)から昭和63年(1988)までの間、青森駅と函館駅との間を結んでいた鉄道連絡船で営業キロは113.0km。
明治41年に旧国鉄が運航を開始した。
当時、最新鋭の蒸気タービン船比羅夫丸(ひらふまる)が就航し、青森〜函館間を4時間で結んだ。
大正3年(1914)からは、荷物を貨車から積み替えるのではなく、貨車を直接船に積み込む効率的な貨車航送を開始。
大正14年(1925)から完全貨車航送に移行。
その間、昭和20年(1945)3月6日 - 青森港内で第五青函丸が防波堤に接触し沈没。死者・行方不明者82名という事故が発生。
7月14日 アメリカ海軍艦載機の空襲により全連絡船12隻が被害を受け(8隻沈没、2隻大破炎上、2隻航行不能、352人死亡)、壊滅状態となるが、被害を受けた船を補修し、海軍から船を借りてすぐに復活。
昭和29年(1954)9月26日 洞爺丸事故が発生。僚船4隻が沈没。1430人の犠牲者を出す。
昭和42年(1967)自動車航送開始。1970年代前半が最盛期で最盛期は1973年の約490万人。
1日30往復もの運航が行われることもあった。
しかし、航空機の発達、民間フェリー航路の整備に伴い、輸送量が急激に減少。
そして昭和63年(1988)3月13日 青函トンネルによる海峡線が開業したため、運航を終了。
青函連絡船と言えば、数々の映画やドラマにも登場し、歌にも歌われる。
その代表例が名曲「津軽海峡冬景色」である。その歌碑が岸壁に建ち、そのメロディが流れる。
「函館の女」の「はるばる来たぜ函館」の部分は、青函連絡船から函館港に降り立った場面を歌っている。これは飛行機では絶対ありえない。
また、現在、青森、函館間は青函トンネル経由で、連絡船の約半分の時間である2時間弱で結ぶが、ここもこんな歌は歌われず、映画にもなりそうもない。

現在、青森港にはメモリアル船の八甲田丸が係留されている。
この船は、全長132m、8279総トン、航海速力18.2ノット、鉄道貨車48両の他に旅客定員1286名。
津軽丸、、松前丸、大雪丸、摩周丸、羊蹄丸、十和田丸と姉妹船。
昭和39年8月12日に就航、全55隻の青函連絡船のうち、最長の23年7ヶ月就航した。
洞爺丸事件の教訓を取り入れて安全性を重視し、さらに輸送力増大に対応した自動化・省力化を施された優秀船と言われる。
維持していくのが大変なようであり、現在はNPO団体が青森市民の支援を得て管理している。
内部には国鉄時代の貨物車両、郵便車両が展示されている。
また、青森駅のプラットホームの外れには青函連絡船に通じる連絡の階段がそのままの状態で残されている。
「津軽海峡冬景色」の歌碑が建ち、そのメロディが流れる。 八甲田丸の側舷 貨車の積み込み口
車両甲板に展示される貨車 4サイクルディ-ゼルターボエンジン1600馬力 8基 青森駅のホームから続く連絡橋

三内丸山遺跡(青森市)
現在、青森市で一番の名所、観光スポットはここだろう。
しかし、青森市の郊外にあり、駅からは結構遠いのが難点。バスで300円、30分はかかる。

この遺跡、ご存知、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5500年前-4000年前)の1500年間にわたる大規模集落跡である。
野球場の建設工事に伴う発掘調査で世の中に知られ、縄文時代の概念をひっくりかえした。
その功績もあってか、2000年に国の特別史跡にも指定され、現在も発掘調査中、まだ全体の1/5程度を発掘しただけという。
この先にまだ驚くべき発見があるのかもしれない。

遺跡は中沖館川右岸の河岸段丘上に立地するが、かつては海が丘の下まできていたといい、海辺に立地していたらしい。
発掘調査では住居群、倉庫群、貯蔵穴、土坑墓、粘土採掘穴、盛り土、道路などが検出されている。
竪穴住居は800軒近く、大型竪穴住居が10棟以上発見されている。
遺物の量も膨大であり、出土遺物は段ボールで数万箱と言う。
土器の量が凄まじく、石器も多いが、日本最大の板状土偶などの土製品が特徴的という。
また、日本各地や北海道地域との交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠なども出土している。
出土遺物1,958点が2003年(平成15年)5月29日に国の重要文化財に指定された。
中には何の目的で造ったのかさっぱり分からない土製品や石器もある。
どうみても玩具や呪術品のように思えるが。それだけ、豊かな精神世界があったのであろう。

また、水の豊富な谷からは植物等の有機物が出土し、出土した栗をDNA鑑定したところ、栽培されていたものであることなども分かり、多数の堅果類(クリ・クルミ・トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。

これらのことから採集ばかりでなく、集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽し、一年草を栽培していた可能性が考えら、すでに農耕が行われていたとも言われている。

人口がどれくらいいたのか論議があるが、同時に数百人が住んでいたと言われている。

復元された竪穴式住居 復元された高床式建物
遺跡は現在公園化されており、いくつかの復元された建物が建てられている。

それらは従来の縄文の概念をぶち壊すものばかりである。
保護ドームがいくつかあり、六本柱建物跡などが展示されている。

その建物の柱の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2m、2m、2mで統一され、35pを基本とする縄文尺が存在したともいう。
こんな規模の建造物を造ること自体、多くの人々の労働力を必要とし、指揮する指導者がいたと言われる。
復元された大型住居と柱 大型住居内部は広い

また、最大32m、幅10mもある大型の建物が検出され、復元されている。共同作業場とか公民館ともいう。
高床式の建物も検出され、これは倉庫と推定されている。
その他、道の跡やその周辺からは環状配石墓(ストーンサークル)、子供の集団墓地なども検出されている。
この1500年も続いた集落、縄文都市はいつしか放棄され、草木に埋もれてしまう。
なぜ、放棄されたのかについては色々な説があるが、真実な何なのだろう。疫病の流行じゃなかったと思うが・・。