会津紀行

旧南会津郡役所(南会津町田島)
明治18年(1885) 8月に南会津郡役所として建設された本格的な洋風建築であり、それまでは外観だけの擬洋風建築が多かったという。
この建物は地元の大工の棟梁が建てたものであり、その建築関係一式も保存されているという。

元は田島合同庁舎の敷地内にあったが、現在位置に移築された。(なお、今の地も中世鴫山城の一部らしい。)
南会津郡は「郡区町村編制法」施行により、明治12年1月会津郡より分割され、藩政時代の陣屋を庁舎に用いていたが、老朽化が甚だしかった。
当時、会津三方道路が整備され、会津若松への交通の利便性が高くなり、産業経済に大きな発展が期待された。
それを見計らい郡内の有志が「ソレ本郡既に大道開通シ人智随テ開ケ、郡治上ノ面目モ一変スベキ時機至レリ」として、県に郡役所新築を要望した。
これが認められ、翌18年工事費7700円(内県費3000円、郡民寄付金4700円)を投じ、この建物が新築された。
しかし、集められた寄付金、かなりのものである。

この地の興隆にかける地元の熱意がいかほどであったか。
大正15年、郡制が廃止されたため、47年間の郡役所としての役目を終え、福島県南会津支庁・地方事務所となったが、昭和45年に新合同庁舎が建設され使命を終えた。
移築後「奥会津地方歴史民俗資料館」として利用れて来たが、この施設も新設となったため、「旧南会津郡役所」して展示することになった。

洋風2階建で内装にもギリシャ建築を思わせる円柱、城郭を感じさせる千鳥破風、欄間には扇型ステンドガラスを取り入れていることが特徴。
昭和46年4月、福島県指定重要文化財に指定される。
( 旧南会津郡役所のHP参考)

飯盛山
会津若松城(鶴ヶ城)と並んで会津の観光名所の筆頭が飯盛山。
あの白虎隊自刃の悲劇の地である。
鶴ヶ城と並ぶ観光名所だけあって、観光シーズンの休みの日は人ばかり。
長い石段の脇には動く歩道というエレベータまである。
なぜか若い人が利用している。でもあの距離で250円は暴利だ。

いつも墓の前は黒山の人だかり、ボランティアの人が熱弁を奮う。(写真左)
白虎隊の悲劇については、書く必要はないだろうが、あの話はわが国最大の「勘違い、早とちり」でもある。
しかし、冷静な判断能力を疲れた16,7歳の少年に求めるのは無理だろう。
本当は出撃させる予定はなかったのだが、ことの成り行きで出撃させることになり、悲劇に終わってしまう。
誰か強行に出撃を止める人物はいなかったのだろうか。

さざえ堂
飯盛山の北側斜面にさざえ堂がある。
いつ見ても面白い建物である。(写真中)
斜面にあり、周囲に建物があるため、全景を撮影することが難しい建物でもある。
1796年に建立された、高さ16.5メートル、六角三層のお堂。
正式名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)という。
飯盛山にあった正宗寺の住職であった僧郁堂(いくどう)の考案という。
この坊さん、2重らせんのスロープに沿って西国三十三観音像が置かれ、このお堂にお参りするだけで三十三観音参りができるという欲張ったことを考えた。
手抜きといえば手抜き、合理的といえば合理的。大した発想である。
上りと下りが全く別の通路になっており、混雑が防止できる面白い構造になっているのも、これまた発想が奇抜である。
造った大工さんも苦労したことだろう。
珍建築ということで、平成7年に国重要文化財に指定された。
ず抜けた独創性と個性に脱帽。
戊辰戦争で戦禍に合わなくて良かった。


戸の口堰洞穴(写真右)。
猪苗代湖の水を会津盆地に引き込むための洞穴、天保3年に難工事の末に完成したという。
長さは150mあり、戊辰戦争では、白虎隊がここを通って撤退したという。

旧滝川本陣
一見、農家風であるが、これが渋くていい。
鶴ヶ城の城下から飯盛山へ至る道は、会津から白河へとつながる白河街道で、この街道の先にある滝沢峠入り口に関所として、寛文年間(1661〜1673年)、この滝沢本陣が設けられたという。
ここで、歴代の藩主が、領内の巡視や参勤交代時に、休憩したという。
農家風の茅葺き屋根の建物であるが、書院づくりである。
国の重要文化財に指定されており、御入御門、御座の間、御次の間などが、そのままの姿で残され、歴代藩主の使用した品、道具類、古文書なども展示されている。
戊辰戦争時には、藩主松平容保 がここに陣を置き、ここから白虎隊が、戸ノ口に向かったという。
建物のあちらこちらに弾痕や刀傷が残っており、当時の戦いの痕跡が生々しく残っている。
まさに歴史の生証人なのである。

柳津虚空蔵尊
正確には、福満虚空蔵尊または霊厳山圓蔵寺というが、柳津虚空蔵尊といった方が一般的でしょう。
会津の名刹の1つ。

三大虚空蔵尊といっても諸説あるが、この柳津虚空蔵尊と茨城県東海村の村松虚空蔵尊はだいたい入っている。
あとの1つは京都、焼津、伊勢、安房小湊と諸説ある。この柳津虚空蔵尊、1200年の歴史を持つそうである。

伝説では、 唐の高僧から霊木を授かった弘法大師が 帰国後それを三つに分かち、海に投げ入れたところ、 茨城、千葉そして柳津に流れ着いたといわれており、 流れ着いたその霊木で大師が虚空蔵菩薩を刻み、 それを受けた会津の名僧・徳一大師が 圓蔵寺を開創したという。
でも、この話、おかしい。千葉、茨城に流れ着くのは分かるが、何で内陸のここに?
まあ、そんなこと詮索しても始まらない。

南側から撮影した崖の上に建つ本堂 東側から見た本堂 願いが叶う?「撫ぜ牛」 本堂南側の舞台から見た只見川

磐越自動車道会津坂下ICで下り、只見川に沿って国道252号線を4.5qほど走ると到着する。
只見川の北側の崖上に崖からせり出すような感じで本堂が建つ。
下からの本堂と山門の眺めはなかなかのもの。絵になる。
本堂この南北に長く、南が正面という感じであるが、南側は崖。
このため、入口は東側にある。本堂南側はステージ状になっており、只見川が眺められる絶好のポイントである。
本堂、入口には撫ぜ牛があり、この牛を撫ぜると願いが叶うという。このため、磨り減っている。
「撫ぜたかったか?」って。
「当然!、これで宝くじが当たるはず。」であったが・・・。

塔のへつり(福島県下郷町
国の天然記念物に指定されており、大川(阿賀川)の渓谷沿いに奇岩。
怪岩が塔のように 塀立する塔のへつりは百万年もの長い年月をかけて、 侵食と風化を繰り返して出来た景観だそうである。
「へつり」とは、方言で「川に沿った断崖、急斜面」のこと。
象塔岩、獅子塔岩、鷲塔岩など名がつけられた12の岩があり、吊橋をわたって岩の袂に行ける。
しかし、この道は、酔っ払っていたら危ないことこの上ない。
侵食された洞窟内に虚空蔵菩薩が祀られている。
昔は岩の下の遊歩道でもっと先まで歩けたはずだったが、今は閉鎖されている。誰か落ちたのだろうか。

猪苗代湖
磐越自動車道が開通したので、猪苗代湖も遠くから見るだけ。
国道49号線を走らにないと湖畔には行けない。この道もなかなかのロケーション。
おまけに空いて快適。車を走らせるならこういう道じゃないと。
福島県の中央部に位置する猪苗代湖は、面積は琵琶湖、霞ヶ浦、サロマ湖に次いで日本第4位という大きな湖。

水深は最深で95m。湖面の標高514mとかなり標高の高い所にある湖。
約20万年前には湖はなく、ここは猪苗代盆地が形成されていたと言う。
その後、9万年前頃の翁島火砕流堆積物と5万年前頃の頭無火砕流堆積物を形成させた磐梯山の火山活動により、猪苗代盆地の河川が堰き止められて水位が上がり、古猪苗代湖が出現したとか。この湖は今の湖よりはるかに大きく、猪苗代町の市街地付近も湖底であったという。
その後、日橋川による急激な侵食により湖面が現在の高さまで低下し、今の猪苗代湖が形成された。
湖水は酸性であり、鉄イオンやアルミニウムイオンの濃度が高い。
酸性の流入水と中和する過程で有機物やリンが吸着・結合して沈殿するため、水中の有機物の量を示すCODは0.5mg/L(2004年現在)と日本でもっとも少なく、水質が良い。
透明度も高い。しかし、家庭排水の流入等で水質は中性化しつつあり、水質は低下しつつある。