和田之城(長野市信州新町弘崎)
犀川にかかる日名橋の東1.5km、標高694.4mの山にある。
日名橋付近の犀川の標高が420mであるので、ここからの比高は275mということになる。凄い急である。
城のある山は東の聖山から犀川方向の西に張り出した細い尾根である。
↑北東側から見た城址。左のピーク下が「一の木戸」。 山の途中を道路が通る。 右手の平坦な部分が飯縄神社。 尾根の付け根部には支城と考えられる「小穴城」がある。 ここには東の一倉田和地区から小穴城の脇を通り行ったのだが、道路の脇は崖、侵食が進んだ深い谷になっているのである。 |
しかも道路は狭く、恐ろしいの何の。
そこを地元のおばちゃんは猛スピードで車を運転して行った。
いくつかのピークを通りすぎると「一の木戸」がある。
東の口であるが、城に通じる細尾根を抑える場所である。
途中に「埋橋」「二の木戸」があったらしいが分らなかった。
「一の木戸」の先に本郭が尖塔状@にそびえる。
@一の木戸から見た本郭の物見台 | A馬場を登って行くと曲輪が積み重なる。 | B二郭は平坦に加工されている。 |
B本郭から見た東の物見台 | D物見台から見た本郭 | E馬場から見た飯縄神社、ここも曲輪だろう。 |
道路は城の北側を通り抜け、西側に出る。
城へは西側の馬場Aのような場所から東に登る。ここには車が停められる。
この場所から比高30mほどを登ると本郭部である。
その間に4,5つの曲輪が段々にある。
切岸は5mほどあり、急勾配である。
山上の本郭Dは15m四方、その東端、最高所を見張台Cのような場所がある。
その見張台は7m×4m程度の広さで本郭からは5mほど高い。
ここからは小松尾城が南西1.5qに、中牧城が北東2qに、牧野島城が北3.5qに望まれる。
その東は15m下に堀切が存在する。登り口部には池があるが、これは湧き水を貯めるものだろうか。
その西に飯綱神社Eがあるがここも曲輪であろう。
本郭から見た西側を流れる犀川の渓谷 | 本郭から見た南西の小松尾城 | 飯縄神社南側の小道沿いに建つ「打首入口」の標識 |
その横に「打首入口」という標識がある。字名なのであろうが、凄い名前だ。
集落の尾根の先端に「打首の跡」と呼ばれる場所があるという。
しかし、こんな険しい山中に集落がある。「和田之城」という名前だそうだ。
標高も640〜650m程度、おそらく城主の居館もあったのであろう。
鎌倉時代、香坂氏が築城したといい「のろし台」とも呼ばれている。
犀川筋の街道、水運を監視する物見であろう。
戦国時代、武田氏に制圧されると、牧野島城の出城として、小松尾城などとともに狼煙リレーの中継所として使われたのであろう。
なお、この城には埋蔵金伝説があり、「朝日さす夕日輝く和田之城 雀のこおどり三足半なか 漆千倍 黄金千倍 朱千倍」という言い伝えが地元に残るという。
宮坂武男:「信濃の山城と館」参考。
小穴城(信州新町弘崎)
和田之城から東の一倉田和方面に向かい中牧方面に下りる道が分岐する場所にある。
標高は670mである。
尾根が4段になっているだけであり、段々畑のようにしか見えない。
東の山との仕切りは普通は堀切があるはずであるが、そんなものはない。
最西端は民家になっており、ここが城域かどうか分からない。
その東の曲輪は75m×30m、その上に20m×50m、10m×40m、10m×20mの曲輪が重なり山に続く。
和田之城の東方向の出城、街道の関所のようなものであったと思われる。
@ 東側の曲輪群。右手に城址碑が見える。 |