栃原城砦群

戸隠は戸隠山や奥社などに代表される戸隠神社が有名であるが、さすがにあの付近には城はない。
旧戸隠村の主体部は戸隠神社のある地より南側の裾花川の谷にかけての比較的平坦な丘陵地帯である。

この丘陵地帯は飯綱山の火山活動で形成され、人家があり、畑があり小学校、中学校、支所などがある。
しかし、こちらは観光とは無縁のどこにでもある信州の山村である。
この南部の地区は中央部を楠川が浸食して谷となり、谷を境に東西に分かれ、西側が栃原地区、東が豊岡地区である。

その栃原地区に小さな城館が集中する。
ここは昔は栃原と裾花川南部の祖山地区を合わせて柵村と言った。
そして、昭和30年に戸隠神社のある戸隠、谷の東の豊原地区と合わせて戸隠村となった。
ここで始めて戸隠が地名に付くのである。

したがって、ここは本来の戸隠という訳ではない。
戸隠が拡張した部分なのである。
その戸隠村も平成の大合併で長野市となり、今では大字の前に戸隠が付く。
やはり「戸隠」の知名度と御威光は偉大なのである。

福平城(戸隠栃原)
円光寺の西に見える標高877mの山が福平城である。

円光寺からは比高50mほどである。
規模も大きくこの栃原地区の拠点城郭である。

↑ 東の根小屋城から楠川の渓谷越しに見た城址(赤く色を付けた部分)、右手の桜が見える場所が今木八幡神社。
左端部が外郭部、手前の水色を付けた林が平時の居館と考えられる円光寺館。

城には大昌寺の北から北西に延びる車は通れる細い道を福平集落方面に行くが、その道は尾根間の切通しJを通過して福平地区に入る。

その切通し自体が堀切であったと思われ、切通しの南北の尾根状の山に遺構がある。
北側が標高852mの琴平山、南が西原山である。


↑J福平地区に入る切通し。これが外郭の堀切。

堀切の脇から山に登ると城郭遺構がある。
遺構と言っても小さな曲輪L、堀切Kがあるにすぎないささやかなものである。
K西原山にある堀切。かなり埋もれている。 LKの堀切の東下は腰曲輪になっている。

ここが外郭、出城であり、南の大昌寺山城とのつなぎの城でもあるのであろう。

堀切跡と推定される切通しJを過ぎると生活改善センターがある。
その30mほど西に福平城に登る道の案内板があり、そこを登って行くと主郭となる。
途中が3,4段ほど段々状になっており、畑として利用されていたようであるが、これは腰曲輪@の跡であろう。

最高箇所には今木八幡神社Aが祭られ、背後には櫓台が立つ。
神社南側が50m×40m程度の曲輪があり、ここが本郭であろう。
さらに南下3mに40m×30mの曲輪B、さらに南側にも腰曲輪がある。

神社北側の土塁の背後は1辺30mほどの三角形の曲輪があり、その下8mを壮大な横堀Cが巡る。 横堀に下りる本郭の切岸の鋭さも風化は感じさせない。
この堀は幅15mほどあり、特に北側が前面に土塁を持ち壮大である。
これは城が北から延びる尾根状台地の南端部にあり、防衛上厳重に遮断する必要があるからである。しかし、横堀、堀底は平たく、幅が広い。
横堀というより、土塁を持つ帯曲輪と言った方が妥当かもしれない。

この横堀C,Eは主郭部の西側、南側、東側では帯曲輪となり、主郭部を一周する。
規模としては東西80m、南北150mほどであろうか。
さらに尾根続きの北側に壮大な堀切Dがあり、さらに北側にも1本の堀切を置き、北側からの攻撃を遮断する構造を取っている。
@主郭東の尾根に展開する曲輪群。 A主郭に建つ今木八幡神社、背後に土壇がある。 B主郭南の曲輪は畑になっている。
C主郭西下の巨大横堀、土塁付帯曲輪か? D 主郭直下の横堀、北側の堀切。 ECの横堀は北から東に回り、帯曲輪になる。

伝承では、築城は木曾義仲の家臣、今井兼平としているが、信州に多く残る義仲伝説の1つに過ぎず根拠は薄いと思われる。
その今井氏の子孫を称するのが溝口氏であるといい、越後新発田溝口氏の祖という。
この溝口氏が戦国時代、この柵地方の領主であったようであるが、来歴は今1つ不明である。

しかし、川中島合戦たけなわの弘治3年(1557)から永禄元年(1558)ころにかけて武田氏の侵略を受け、この地を奪われてしまう。
今残る姿は武田氏がこの地を制圧後、整備したものであろう。
(宮坂武男「信濃の山城と館」等を参考にした。)

大昌寺山城(戸隠栃原)
旧柵小学校前から北600mに大昌寺がある。
その南側の山が城址である。

単郭の小規模な城であるが横堀を持つのが特徴である。
標高は856m。
大昌寺からの比高は50mほどである。

↑ 北から見た城址の山、右手が大昌寺。寺が居館の地のように思えるが。

城へは大昌寺から南側に位置する道を登る。
山腹が笹やぶ状態であるため、東端の配水場から入り、尾根上を西に向った方が行きやすい。
この山の山頂尾根部には笹が生えていないためである。

@主郭東側、尾根と遮断する堀切。 A主郭内は平坦であり、東の堀切に面して土塁がある。 B主郭北下には横堀がある。

尾根の上を西に歩いて行くと、お馴染みの堀切@がある。
主郭側からは4mほどの深さがある。
堀を越えると主郭Aであるが、50m×25m程度の広さである。
堀切に面して低い土塁がある。
主郭内は平坦であり、西下8mに腰曲輪がある。
主郭の北下6mには横堀Bがある。
これは北側斜面の勾配が緩いためであろう。

この城のある山は、この地区の拠点城郭である福平城のある山から南東に延びる尾根の末端であり、南側の裾花川方面を望める場所である。
ここも福平城の出城と言えるだろう。
(宮坂武男「信濃の山城と館」等を参考にした。)

円光寺館(長野市戸隠栃原)
旧柵小学校前から北1km、大昌寺を西に見てアナタ屋敷の土塁の脇を掠め少し進むと、東に円光寺がある。


↑南西側の大昌寺駐車場から見た館跡。
背後の林の中に大土塁がある。
背後の山は飯縄山。

この付近は山のイメージが強い戸隠でも平坦地が広がる場所であり、水田も開けている。
それでも標高は820mもある。
この寺の境内が館跡である。

館としては寺境内の100m×35mが館域ではあるが、周囲に帯曲輪や堀が存在していたようでありもっと広い。
おそらくは堀部分も含めると100m四方ほどの規模はあったであろう。

@寺本堂背後の土塁 A@の土塁背後の道路は堀跡。 B寺本堂の南側の曲輪
C館南側の曲輪の切岸 D館東側の堀跡 E北側から見た館跡、土塁が際立つ。

寺境内は北から延びる台地の南の末端部を利用して切岸を造成し、北側を堀Aと土塁@で遮断、さらに東西に堀Dを配置した構造となっている。
南側Cには堀は存在してはいなかったようである。
この館の最大の見どころは寺の北側から東側を覆う土塁@である。
曲輪内から4mほど、北側の堀底から5,6mほどの高さがある立派なものである。
福平城を詰めの城とする溝口氏の平時の居館と思われる。
(宮坂武男「信濃の山城と館」等を参考にした。)

清水のアナタ屋敷(長野市戸隠栃原)
アナタ屋敷とは変わった名前であるが、その由来は不明という。
おそらく何かの言葉が訛ったものではないかと思うが。
円光寺と大昌寺の館にある民家が屋敷跡である。

ここも宅地の北側を土塁が覆い、円光寺館と似たような構造をしている。
↑の写真に示すように市道がこの土塁の西端を掠め、そこがカーブになり危ないことこの上ない。
先が見えないし、狭い!なんて危ないんだ、と思ったが、後から調べたらそれが土塁だった。
これじゃ、これ以上、破壊はできない。
この土塁はさらに写真左側まで延び、直角に南に曲がっていたような気もするが、その痕跡はすでに伺えない。

土塁の北側は谷津状になっており、東側も低地になっている。
西側、南側にはかつて堀が存在していたのではないだろうか。
この地の土豪、溝口氏の一族または家臣の館ではなかったかと思う。
(宮坂武男「信濃の山城と館」等を参考にした。)

↑北東側の円光寺から見た屋敷、明確な遺構は北側の土塁のみ。
東側(写真手前)には堀は存在していなかっただろう。
寺は大昌寺。その左手の山に大昌寺山城がある。

↑北側の土塁の拡大。高さは3mほど。


針立城(長野市戸隠栃原)
円光寺館の北600m、福平城の東700m、沢尻地区の東、楠川の谷に突き出した岡先端部を利用している。
この部分は西側の集落部より高くなっている。
下の写真は福平城の本郭から見た城址である。
林の向こうが楠川の谷である。
先端部分を自然?の谷津を加工した堀で区画し、岡上を段々に削平している単純な構造である。
円光寺館の北を守る砦を兼ねた家臣の居館なのであろう。

(宮坂武男「信濃の山城と館」等を参考にした。)

志垣城(長野市戸隠栃原)
戸隠栃原の最南端に位置するのが志垣城である。
この地区にある旧柵小学校(現化石博物館)の南に戸隠体育館があるが、そこの南に位置する山である。
標高は730mなので城館が集中する円光寺付近よりは90mも標高が低い。

南側にある桜峰団地の裏山でもある。
行くとしたら、桜峰団地から登った方が行きやすい。

なお、この桜峰団地が馬場というので、居館があったのではないかと思われる。

城址南側が桜峰配水池@になっておりちゃんと道が付いているからである。
桜峰団地からの比高は45m、標高は728.1mである。

城は極めて小規模なものであり、主郭Aは30m×10m程度のものに過ぎない。
石の小さな祠が建つ。
前後に小さな曲輪がある。
その北側に小さな堀切Bと北東の中腹に70m×30mの平場Cがある程度のものに過ぎない。

伝説では北条時行が隠れ住んだというが、あくまでもこれは伝説にすぎないであろう。

北条時行は信濃に係ってはいるが、まさか、ここで登場するとは思わなかった。

福平城などがある中心部の南の見張り場所、裾花川方面を監視するための城であろう。

(宮坂武男「信濃の山城と館」等を参考にした。)
南下の桜峰団地は馬場であり、居館があったものと思われる。背後の山が城址。 @南端部の配水池
A主郭には祠が建つが小さなものである。 B主郭の背後に小規模な堀切がある。 C主郭北東下には平坦地となっている。