古城(戸隠宇和原)
柵地区から戸隠支所がある地区に行くには山道を通るが、その山間の集落、奈良尾地区の東の標高870mの山にある。
この山は東の楠川と西の奈良尾沢に挟まれた山稜の南端に位置する。

北西下に奈良尾神社があるが、そこから登るよりは、この市道、城址の北側で大きくカーブし北の宇和原地区に向かうが、このカーブから南側に延びる尾根が城址であり、このカーブ付近に車を置き、山に入るのが良い。
するとすぐに目の前に遺構が展開する。

その遺構もなかなかのものであり、アクセスの容易性と遺構の素晴らしさから言ってかなりコストパフォーマンスが高い城と言えるであろう。
市道のカーブから山に入って行くと、東下の平坦地に2本の土塁Aが東に延びて行くのが確認できるが、なぜかこれが宮坂さんの本には掲載されていない。

城の構造は南北に3つの曲輪が直線的に並び、堀で区画し、さらに東下に腰曲輪Wを持つ。
真ん中の曲輪Tが主郭であり、前後の曲輪U、V内はほとんど自然地形に近い。

北側の曲輪Uは北の切岸が鋭く加工@されている。高さは4m程度である。
宮坂氏は堀切としているが、管理人には山道が通っているだけのようにしか感じられなかった。

この曲輪Uは40m×10m程度であり、南端に2重堀切Bを置いて、2番目の曲輪T、すなわち本郭となる。
堀底からの高さは4mほどである。
本郭は40m×最大幅30mの台形をしており、西側と南側に土塁があり、東に向けて段々状になる。
東端側にも低い土塁Dがある。
南西端部は櫓台Cがある。

ここから南側を覗くと幅15m、深さ8mほどの大きな堀切Eがある。
堀を介して南側の曲輪Vになるが、堀切に沿って東に竪土塁が延びる。
南端の曲輪V内は南側に傾斜するほとんど自然地形であり、40m×10mの大きさ。

南端に小さな堀切と土橋Fがある。
この土橋を南に行くと少し盛り上がった物見のような場所となり、尾根が東側にカーブして下って行く。

一方、本郭の東10m下に平坦地Gがある。ここが曲輪Wである。
南側に土壇があり門があったような感じである。
北側は竪堀Hで区画している。南北40m、東西30m程度ほどのひし形をしている。

ここに石積みがあり、周囲が窪んでいる。
炭焼き窯のようにも見えるし、古墳の石室のようにも見える。
いったいこれはなんだろう。

城の来歴等はまったく分からない。
しかし、遺構はこの付近では福平城並みの見事なものもある。
しかし、位置的にも中途半端な場所である。
福平城の北の出城なのかもしれない。

@曲輪U(左)北側の堀切?通路? A城域入口部の土塁に挟まれた堀?通路? B本郭北下の2重堀切
C本郭南西端の櫓台上 D本郭東側も低い土塁が覆う。 E本郭南下の巨大堀切。深さは本郭側から8m。
F曲輪V南の堀切と土橋 G 本郭(右)東10m下にある曲輪W H曲輪W北側にある竪堀

根小屋城(戸隠原口城)
どこにでもある名前の城であるが、この戸隠の根小屋城は、戸隠支所、戸隠小学校、戸隠郵便局がある戸隠の中心部から南の裾花川方向に延びる岡の南西末端にある。
ここからは裾花川の段崖となる。
城のある場所の標高は860m。


↑北西の福平城から見た城址(台地先端に電波塔が見える。)西側(手前)は楠川の渓谷。
城址の上に見える山は富士の塔砦。山向こうが長野盆地、川中島である。

下の日照田地区に下る道が城址横を通っており、日照田地区からの比高は300mもある。
南の眼下には裾花川が望まれ、西は楠川の谷を隔てて福平城などがある柵地区が望まれる。
また、裾花川の渓谷対岸の山の朝日城など陣場山城砦群を望むことができる。

↑城址から裾花川渓谷越しに見た南の陣場山城砦群。
右のピークふが葭きり神社砦、中央のピークが朝日城、朝日城と左のピーク間が小野平城である。


一方、城の北側は飯縄山の火山活動で形成された比較的傾斜が緩やかな台地が宝光社方面まで続く。
城の場所は電波塔が建っているので遠くからも場所は確認できる。
城域は東西50m、南北150mほどであるが、それほどの高低差はなく、せいぜい7m程度であろう。
これだけを見ればほとんど平城である。山頂にある平城と言うべきか?

台地続きの北東側から見た城址(鉄塔のある場所)左のピークが萩野北城、中央より右の山が虫倉山系である。 @北側から段々に重なる曲輪U、Vを見る。
A本郭T北側には曲輪U側に土塁が残る。 B本郭南側、曲輪W間の堀。土橋がある。 C曲輪W先端、この先は絶壁状急斜面

城は北から南に4つの曲輪が並び、北側の2つ@は畑になっている。
その北側には堀が存在していたようであり窪んでいる。
それぞれ、40m×30m、40m×40m程度、3つめの曲輪が本郭相当の曲輪であり、最高位置にある。
50m四方ほどの大きさであり、北側に曲輪内からの高さ1m程度の土塁Aがある。

曲輪内部は電波塔が建ち改変を受けているようであるが、逆に遠くからでも良く位置が分かる。
ここに電波塔が存在することからして、物見としては適した場所であることが分かる。
本郭の南側は小さな堀切Bがあり、その先に50m×15m程度の曲輪Cがあり、さらにその東西下に同じ規模の腰曲輪を持つ。

(宮坂武男「信濃の山城と館」等を参考にした。)

栗田氏館(戸隠二条)
ここは戦国城館ではなく、江戸時代の居館である。
戸隠支所、戸隠小学校、戸隠郵便局がある戸隠の中心部北に専勝寺がある。
その専勝寺の南西側が栗田氏館である。

ここの場所の標高は897mである。
館のある場所は諸沢の谷に突き出た部分であり、2段になっている。
北側@が60m×40m程度、2.5mほどの段差を持ち南側Aが60m×30m程度の広さであり内部は水田である。
北東側が台地続きであり、堀Aが存在していたようであり、その一部が残る。
北側の専勝寺の地の方が地勢が高く、ここも本来は城域であろう。

@主郭は水田である。 A東側に堀があった。南側に痕跡が残る。
右の建物が専勝寺、ここも城域だろう。
B主郭南側2m下にある曲輪も水田である。
 切岸が石垣になっているが、当時のものか?

館主は館名通り栗田氏である。善光寺別当で長野駅南東に栗田城を構える栗田氏と同族である。
善光寺別当の栗田氏は里栗田といい、ここの栗田氏は山栗田といい、戸隠山の別当を務めた。
戦国時代、武田氏に従うが、武田氏滅亡後は上杉氏に従い、後に米沢に移った一族もいる。
当地に残った一族は戸隠領200石を領し、万治2年(1659)ここに居館を構えた。

(宮坂武男「信濃の山城と館」等を参考にした。)

栗田山城(戸隠下楠川)
戸隠郵便局や栗田氏館があった専勝寺の西側の諸沢流れる谷の対岸の山にある。
専勝寺とは直線距離で500mである。


古城のある宇和原地区から北に進み、楠川を渡り、山を登って行き豊岡地区が諸沢の東の対岸に望めるヘアピンカーブの場所が城址である。
標高は856mもある。北の宝光社付近から延びる平坦な台地の南の末端部にあたる。
西下の楠川の谷から登って来て最後のヘアピンカーブから南に延びる尾根が城址であるが、何とそこは水田である。
急坂を登ってきて目の前に存在する水田には面食らう。
水田は南側に段々状に存在し、50m×30m、50m×30m、50m四方の水田が2mほどの段差であり、さらにその南に90m×10〜40m程度の細長い曲輪がある。

栗田山という名前からして栗田氏に係わる城館であることは推察されるが、詳細は不明である。
(宮坂武男「信濃の山城と館」等を参考にした。)