戸部城と鍛冶屋敷(長野市川中島町御厨)
長野市川中島町の御厨には伊勢神社がある。
この神社の大祭は1月5、6日の「おたや祭」、参道には多くの店が出て大賑わいを見せた。
長野市南部の地域では最大級の縁日である。
この「おたや祭」は管理人の子供の頃の思い出の1つであり、年末年始休業の終わりを告げる悲しみでもあった。
その「おたや祭」の舞台、御厨地区の中心部「戸部」地区にに2つの城館があったなど全く知らなかった。

なお、この御厨(みくりや)という地名、変わっているが全国に存在する。
ちなみにWikipediaを参考にすると、御厨(みくり・みくりや)とは、「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、神饌を調進する場所のこと。
本来は屋舎を意味する。
また、神饌を調進するための領地も意味するとのことである。
地名の場合、平安時代以前、皇室や伊勢神宮など、有力な神社が荘園(神領)を持ち、後に地名及び名字として残ったという。

しかし、鎌倉時代以降は武家に押領され、全国各地に五百箇余ヵ所程度に減少し、戦国時代にはさらに押領が進んだという。
それでもこの数かなり多い。伊勢神宮の力を示すものである。



この戸部城、鍛冶屋敷のある長野市川中島の御厨地区も御厨があった地である。
ここは当時は千曲川や犀川に堤防などはなく、無数の支流が流れていて、島状の微高地が点在していた。
そのため、この地方を「川中島」と呼び、今の地名に引き継がれている。
その川の跡はかつては水田になっているので推定ができた。しかし、急激な都市化で今ではわからなくなっている。
当時は氾濫が心配される地ではあったが、無数の支流、浅瀬があったため、当時神に捧げる供御(くご)であった鮭が遡上し、鮭や筋子がとれる地でもあった。
ちなみに昭和初期生まれの我父親の証言によると、昭和前期、千曲川下流にダムができる前までは用水路まで鮭が遡上し、採った鮭を樽に塩漬けにして、夏までの食糧としたという。
当然、ここまで上流にやってきた鮭の味は落ちていたであろう。
それに塩の大量摂取で高血圧多発、今日の長寿日本一の長野県の姿とまったく違う状況であったという。

御厨の成立であるが、現実は平安末期、伊勢神宮造営のために役夫工米(やぶくまい)が全国一律に賦課されたが、その負担が払えず土地を伊勢神宮に寄進し、その荘園になる地域が生まれ、この時、伊勢神宮の所領となったようである。

川中島一帯には布施御厨(現在の篠ノ井駅付近)、富部御厨、須坂市南部井上地区の芳実(はみ)御厨、綿内・保科地区に長田 (ながた)御厨、千曲川流域、長野市と須坂市境の村山橋付近に村上御厨などがあった。

いずれも伊勢神宮の神饌(しんせん)用の鮭や筋子が採れる河川流域である。
伊勢神宮は、上分料として鮭や筋子を桶に入れて運上させ、また、苧麻(ちょま)で作った白布を納入させた。この時代、この一帯からの年貢は麻布が一番多かったという。

現在の長野市川中島町御厨から戸部付近一帯が富部御厨の中心地であり、犀川の旧流路から小規模な灌漑用水路を開削してその中心地に伊勢神明社を勧請(かんじょう)し、その周辺を開発して郷が形成されていた。
当時は水田地帯はわずかで、河原の浅瀬や簗を利用して鮭や筋子、鯉、鮒などの採集と畑での麻栽培が主要産業であったらしい。
稲作より河川周辺での水産業、中州を利用した馬・牛の放牧業、砂地での苧麻栽培など複合農業が展開されていたのであろう。

その富部御厨を支配していたのが富部(戸部)氏という。
どのような者からは分からないが、古代豪族の末裔ではないかと思う。
伊勢神宮との御厨の管理人としての窓口も富部氏であったのだろう。

平安末期、当主富部三郎家俊は、平氏の城資職に属していた。
このため、横田河原の戦いで木曽義仲軍の 武将西広助と一騎打ちのすえ討ち取られたという。
しかし、富部氏は滅亡した訳ではなく、鎌倉時代、御家人として承久の変に戸部五郎兵衛が出陣している。
その戸部氏の居館が戸部城であったと思われる。
54m×37mの小さな館であり、御厨集落の中心部にあたる。
遺構らしいものは確認できない。用水路が堀の跡ともいう。

戦国時代、戸部氏は村上氏に属し徹底抗戦、他の土豪のように武田方に鞍替えすることなく、天文22年(1553)、武田氏の攻撃を受けた当主戸部刑部少輔は村上義清とともに越後に亡命したという。
←戸部城跡。左の道路下は用水路の暗渠になっており堀跡という。

現在も多くの土豪の子孫がその地にいるが、この地には「戸部」姓を名乗る者は皆無である。
一族ごと越後に移ったのであろう。
なお、さらに一族が移ったと考えられる山形県米沢市には戸部さんがかなり住んでいる。ここから移った人たちの子孫であろうか。

戸部氏の跡に入ったのが武田氏家臣の小笠原若狭守であり、彼の部下、桑山茂見が永禄4年の川中島合戦で戦死している。
その戦死の地は戸部城から東600mの地点であり、戸部城が川中島合戦では広田城などとともに砦として使用され、攻防があったのかもしれない。
その後、ここに郷倉が置かれたため、蔵屋敷と呼ばれた。

一方の鍛冶屋敷は戸部城の西400m、伊勢神社と法蔵寺付近にあったというが、来歴は良く分からない。

この場所に伊勢神社があるが、当初からこの場所にあったものかも分らない。

堀などの遺構もまったく確認することはできない。

神社の神主の居館または伊勢神宮からの使者を迎える館ではなかっただろうか。

「おたや祭」について
御利益は、国の繁栄 家内安全 農耕守護 水除の神。明治23年に米を集めた事や、甘酒をふるまったという記録が残されている。
伝承では、崇拝対象は天照皇太神宮(御神体は鏡)。御供物として御神酒、御飾り餅、野菜、鱒、果物、菓子などを供える。
勤行は祝詞を上げてお祓いをする。
2年詣りの意味で夜中から参詣する人もあり、神主は参詣者にお祓いをして、お神酒を出す。
6日午後3時頃、神主が神事を行う。

伊勢神社は神社本庁の管轄で、大麻札は12月5日に伊勢神宮より神社庁へ直送され、更級郡の支部長から、各町村の伊勢社へ配布される。
参詣者はお種銭を頂き、翌年倍にしておかえしする。
またお米を御奉仕としてあげる。
 毎年沢山集まり甘酒をつくって参詣者にふるまう。

「おたや」とはお田屋、またはお旅館などと言い、伊勢神宮の御師といわれた神職が地方へ神徳宣布に出た時の拠点とした宿舎のことで、御師は特定の信者と師壇関係を結び大麻札を配布し祈祷を行った。
御厨の北にも「おたや」という地名が残っていて、ここにも「おたや」があったと思われる。
明治以前は御師が伊勢神宮の信仰の普及に務めたが、明治以後は「おたや」が廃止され、各地の神社が中心となり人びとの信仰が維持された。
近郷、近在から多数の参詣者がある。
インターネット長野http://www.azumino.matsumoto.nagano.jp/meditation/nagano/indexn-1.html 参照


町田氏館(長野市青木島町大塚)

大堀館のあった我が母校、長野市立更北中学校から北350m、国道19号線を境に宿集落の中に存在する。
中学時代の同級生、町田君の家である。
ここは武田氏家臣の町田氏の館であり、大堀館が火災に遭い、移転したのがこの館であったとも言われる。

となると、戦国時代には存在していたのかが疑問である。
今も住んでいるのは町田さんであり、この宿地区には町田さんが多い。
当然ながら子孫である。

50m四方の方形館であり、西側に高さ3mほどの土塁が40mほど残る。
その西側がくぼんでいるが堀跡である。
東側には堀跡がくっきり残る。
この方面に正門があったようである。
右の写真の上の赤塗り部分が町田氏館。下が大堀館跡である。
館西側の土塁と堀跡 館東側の堀跡

航空写真は昭和50年国土地理院撮影のものを使用。

柴館(真田信之館)(長野市松代町柴)
真田信之は真田昌幸の長男、弟が信繁(幸村)である。
この2人の間に挟まれて、地味であるが、真田家を明治維新まで大名として存続させた人物である。
武将としての能力としては父や弟と同等のものを持っていたと言われる。

その真田信之は93歳まで長生きしたが、晩年に隠居していた場所がここである。
松代の北東、金井山の麓の現在の大鋒寺(だいほうじ)である。
← ここに信之の宝篋印塔がある。

当時は「柴村の館」と呼ばれていたというので「柴館」というべきだろうか。
山本勘助の墓と千曲川の堤防を境に反対側の東側にある。
しかし、当時は千曲川は館の東を流れていた。

信之はここに隠居して2年後の万治元年(1658年)10月17日、93歳で逝去し、ここで荼毘に付され墓碑が建てられた。

信之の法号をとって館跡が寺となり、大鋒寺名付けられた。
ここには宝篋印塔の他、長野市指定文化財 真田信之霊屋がある。
解説によると、
「隠居所書院跡に孫の幸道の時、建てられ、信之の信仰していた阿弥陀三尊を本尊とした。
 正面3間、奥行き5間、奥行の柱間は狭く、4、5尺である。宝形造、カヤ葺きである。
外陣の欄間には36歌仙画が飾られているが、残っているのは24枚である。
内外陣の柱3本が円柱で、その上に木鼻付きの出組があり、ここだけが仏寺用の木組みになっている。

内陣奥中央に阿弥陀三尊、向かって左に信之像(厨子入)、右に2代信政の画像を安置してあった。
明治4年、松代花の丸御殿にあった8代幸貫像を移し、内陣奥に出張りを新造して三尊を安置し、幸貫像を左、信之厨子を中央に、信政画像を右に安置した。
近世初期の建築で、文化的価値の高い建物である。」
ここが館の地とは別の場所という説もあるが、霊廟の北側にバッチリ堀跡が残っているのである。
間違いなくこの寺の地が居館であったのである。

大鋒寺山門 この横に堀があったと思われる。 南側 千曲川堤防から見た霊屋。
横の青く塗った竹藪の中に堀が存在する。

前海津城(長野市松代町寺町)
松代市街地南部、地蔵峠に向かう県道35号線沿いに大英寺、証蓮寺、本誓寺、大林寺などの寺院が集中する一角がある。
この付近に古海津城があったといい、大林寺の北側に土塁が残る。

と言ってもこの土塁、高さ2m程度、長さ28m程度であるが、墓地になってしまい土塁だか何だか分らなくなっている。
これが唯一の遺構らしい。
清野氏の館であったらしい。
宮坂武男:「信濃の山城と館」参考。

@城域であったと思われる大林寺 A唯一の遺構の土塁は墓地になっている。 B大林寺には家老、矢沢家の墓所がある。

風間館(長野市風間)

長野市市街地の東部、平坦地が広がる風間地区にある。
すぐ東に長野オリンピックでのスピードスケート会場であるMウェーブがある。

常福寺の地が館跡と言われるが、城郭遺構はほとんどない。
実はここの前の道、県道375号線は高校の頃の通学路の一つ。
(一つというのも気分次第でコースを変えているため)

南側の墓地の地勢が低く、堀跡のような感じを受ける。
寺の瓦には六文銭の紋章が入っており、松代藩真田家と関係がある。
別名「鷹屋敷」ともいう。
寺は真田家の鷹狩屋敷を拝領して開いたというが、どこか付近から移転してきたものらしい。

もともとこの地には風間氏という土豪がいて、大塔の合戦に出陣した旨、古文書にも名が登場する。
しかし、戦国期には名が見られなくなる。

風間氏がいたのがこの風間地区であるが、この付近は完全な平坦地であり、それと思われる場所がない。
この常福寺の地がその風間氏の居館の最有力候補の1つである。

航空写真は昭和50年国土地理院撮影のものを使用。
宮坂武男「信濃の山城と館2」参考。


尾張城(長野市若宮)
風間館前を県道375号線を北上し、市立三陽中学校がある。その北東に保健福祉センターがある。
その前の公園に名が「尾張城跡公園」である。
看板はあるが、解説もなにもない。
この付近が城址であり、2郭からなり、本郭が東西100m、南北85m、二郭が東西120m、南北70mの規模だったようである。
この付近は平地の中の微高地であり、そこに城が存在した.。
しかし、耕地化、宅地化で遺構が失われ、さらに区画整理が行われ、ほとんど何が何だかわからない状態となっている。
天正年間、尾張備中守という者が城主であったという。
村上氏家臣尾張部三郎が城主であり、後に武田氏に従ったともいう伝承もある。


航空写真は昭和50年国土地理院撮影のものを使用。宮坂武男「信濃の山城と館2」参考。

川田氏館(長野市若穂町川田)
千曲川の東岸、菅平の麓、保科の谷の入り口部に位置する県道34号線沿いの長野市若穂川田地区、すぐ東を上信越自動車道が走る。
長野ICから下り線を走り、金井山城下の金井山トンネル、霞城下の大室トンネル、そして川田古城下の大室第二トンネルを抜けると、左手の水田地帯の微高地に市立川田小学校が建つ。
この地がこの地の土豪、川田氏の居館があった場所である。
ちなみに詰めの城がその南の山にある川田古城である。
下の写真は北東側から見た館跡である。
右の林が領家皇太神社。小学校校舎の上に見える山が川田古城である。

戦国時代の当主は川田対馬守という。
川田氏は村上氏についていたが、武田氏の侵略を受け、清野氏、寺尾氏などとともに武田氏に従う。
武田氏滅亡後はは上杉氏に従い、会津移封に同行し、この地を去った。
その川田氏の居館の地である川田小学校には明確な遺構は確認できない。
近くには「古屋敷」「古城」などの字があるというので居館比定地に間違いないであろう。

領家皇太神社境内には土塁の残痕らしいものがある。 神社北側。水田が堀跡であろう。

小学校の北西にある領家皇太神社境内には土塁の残痕と思われるような土膨れがあり、北側の水田地帯との段差が明瞭である。
おそらく水田が堀跡と推定される。西を流れる赤野田川が天然の水堀であったのだろう。
航空写真は昭和50年国土地理院撮影のものを使用。
宮坂武男「信濃の山城と館2」参考。