霜台城と前の山砦(長野市若穂保科須釜)
「そうだい」または「そうたい」と読む。
保科氏と言えばその末裔が幕末会津で激烈な戦闘を演じたあの会津松平氏である。
その保科氏の発祥とされるのが長野市若穂から菅平に向かう保科の谷である。
ここは中世、太郎山山麓を流れる保科川に沿って鎌倉から上州吾妻、菅平を経由して善光寺へ通じる保科道(大笹道)が通る交通の要衝であり、善光寺平の出口にあたる重要な地であったという。
保科氏はこの地の豪族井上氏から分かれた一族であり、保科道を抑えるため、この谷付近に根をおろし保科氏を名乗ったという。 とは言え小豪族に過ぎなく大豪族の動向に翻弄される。 長享年間(1487〜89)、村上義清の祖父頼清(顕国)に攻められ、、村上氏に降り、保科を領した。 さらに永正10年(1513)3月には村上義清の父頼衡の侵攻を受け、高梨、井上、須田の諸氏とともに高井郡を支配下におかれている。 当時、保科氏は現在の広徳寺の地に居館を構えていたが、この時に焼失し、天文2年(1533)館跡に広徳寺が再建されている。 この過程で一族は分裂し、この地に残った保科正則の弟左近将監は、村上氏の家臣となり、天文22年(1553)村上義清の下で上田原に出陣している。 保科の地に残った保科正知、支郷河田に保科長経も村上氏没落後、武田氏に従っていたが、武田氏滅亡後はは織田氏家臣森氏に、さらに上杉氏に従った。 文禄3年(1594)には保科豊後守佐左衛門が稲荷山留守役で540石であったという記録が残る。 その子孫は上杉藩士となった。 一方、正利・正直(正則)父子は分領である伊那高遠へ逃れ、高遠で武田氏に従い、高遠頼継が信玄に滅ぼされると高遠城代となる。 川中島の戦いでは120騎の侍大将として出陣している。 武田家滅亡後、子の正直は徳川家康に属し、下総多胡(千葉県香取郡多古町)で1万石を与えられ、徳川大名となった。 子の正光の代には高遠3万石城主となり、徳川秀忠の子正之を7才のとき養子にした。 正光はのち、会津に転封し、松平姓を与えられた。 正光の弟正貞は上総飯野藩(千葉県富津市飯野)2万石の藩主となり存続している。 武田信玄家臣で高遠城主となった保科弾正忠正俊は別名「槍弾正」の異名を持つ。 弾正は保科氏が代々名乗っていたようであり、霜台とは「弾正忠」のことを意味し、霜台城はそれが語源であるという。 霜台城の東の中腹に「弾正岩」という物見岩があるがこれはズバリそのものである。 |
その霜台城は保科氏の居館があった広徳寺の北に覆いかぶさるように聳える標高725mの「窪山」の山頂にある。
西側の長野盆地から見れば保科の谷の入口部を塞ぐように聳える山であり、いかにも城がありそうに見える。
東側、居館跡、広徳寺から見た城址。 左の突き出し部が「前の山砦」 |
南側、和田東城付近から見た城址。 | 西、上信越自動車道下から見た城址。 保科の谷の入り口に聳える。 |
当然ながら、居館の詰めの城の位置付けでもある。
この山は標高997mの太郎山から西に延びる尾根支脈に位置する。
なお、北に分岐した尾根に春山城があり、尾根を通じて相互に連絡できるようになっている。 築城は延徳年間(1489〜1492)保科弾正忠正利によると伝えられる。 おそらく、実際はそれ以前から存在していたのであろう。 現在残る城址は戦国時代、川中島合戦前後、武田氏が領地支配を徹底させるために整備した姿であり、主要部は総石垣造りであり非常に見応えのある遺構が残る。 城へは須釜集落西端から登る道がある。 ←この登り道の入り口 最近は太郎山トレッキングコースとして整備され案内板があるので迷うことはない。 ここをひたすら登って行けばよいのである。 ただし、城までは比高が300mあり、石もゴロゴロしており半端な道ではない。 かなり急斜面でありけっこうきつい。 |
【前の山砦】
ここを比高100mほど登ると標高525m地点にある前の山砦となる。
ここは霜台城の出城であり中継地でり、前進の物見である。
北側に幅10mほどの堀と土橋A、Bがあり、その南側に30m×17mの平坦地@があり、さらにその南が緩斜面になる程度の小さな規模である。
堀はかなり埋没しており、うっかりすると気付かずに通り過ぎてしまうかもしれない。 堀の北側にも若干の平坦地が認められる。
|
|||
A北側から見た堀と土橋 | B堀の西側、竪堀となって斜面を下る。 |
道は東に迂回し、さらに進むと標高600m付近に「弾正岩」がある。
ここは物見台であったといい、居館であった広徳寺や街道筋、集落がよく見える。
弾正岩 | 弾正岩上から見た保科の谷。眺望は抜群。 | 弾正岩から見た居館跡の広徳寺 |
さらに登っていくと山の勾配はやや緩やかとなり、幅2、3mほどの小さい曲輪@が数多く展開する。
また、竪堀と思われる筋が山を下るのが確認できる。
山頂部に近ずくと石列Aが見えてくる。
主郭部周囲の土止めの石垣である。
この山は岩がごろごろ転がっており、石垣を積むには不自由はしない。
主郭部周囲の石垣は高さが1、2mほどであり、かなり崩落している。
@南側斜面には小曲輪が重なる。 | A主郭部直下、石垣が見えてくると疲れも吹き飛ぶ。 | B主郭部入り口の石垣 |
C主郭部の曲輪は石塁で仕切られる。 | Dこの石塁を越えると本郭に相当する曲輪。 | Eここが城内最高箇所の本郭相当の曲輪。 |
主郭部直下の3つの腰曲輪を越えると主郭部B〜Eである。
内部は3段構造になっており、間を石塁C、Dで仕切る。
この仕切りの石垣もかなり崩れてしまっており、岩がごろごろ転がっているような状態である。
南から12×15mB、12m四方C、15m四方Eの曲輪が並ぶ。
最後の曲輪Eが最高位置にあり、ここが本郭に相当する場所であろう。
東側の石垣L、Mが見事であり、下に腰曲輪がある。
主郭部へはどうやらこの腰曲輪を経由してEの曲輪に入ったのではないかと思う。
したがい、この石垣は見せるためのものだった可能性がある。
F本郭背後の堀切 | G本郭北側の曲輪 | H Gの曲輪、北側の堀切 |
I Hの堀切の北側の城内で一番広い曲輪。 | J Iの曲輪背後の城内最大の堀切 | K 城最北端の堀切と思ったが・・まだ、先があった。 |
その北側背後に幅6m深さ3mの堀切Fがあり、10m四方の曲輪Gを経て幅5m、深さ2mの堀切Hがあり、30mほどの台形の曲輪Iがある。
この曲輪の西側は低い土塁石垣で土留され、北端に土塁があり、幅7m、深さ4mの城最大級の堀切Jがあり、その北に40m幅20mの曲輪を経て、北端に幅7m、深さ3mの堀Kがありここが城の北端である。
この先は登りとなり、太郎山や春山城に通じる道が延びている。(だけと思っていたが・・・)
ここまでが城の主要部であり、総延長は150mほど、高低差は数m程度とかなり平坦である。
主郭東側の石垣、土留め用であり見せるものだろう。 | 主郭東側の石垣。 | 山の斜面には何本かの竪堀らしいものがある。 |
・・・で終わるはずであったが、長野市史を見て唖然とした。さらに高度で40m登った標高760m地点に小城が存在していたのである。
単郭で北側の尾根続きを堀切で遮断する程度の規模であり、背後の物見と守備の場所である。
この構造は北にある春山城と同じであり、2城は兄弟城であると言える。
そこを見逃してしまったのである。
しかし、そうであっても城としては一級の山城であり、春山城や鞍骨城、金井山城、尼飾城、葛尾城、旭山城、髻山城、若槻城、塩崎城、鷲尾城、屋代城と並ぶ川中島城砦群の中の代表的な城である。
城址一帯は広葉樹の林であり、特に秋は落葉し、見通しが凄く良い。
ただし、落ち葉で足を滑らせ易く危険である。
また、ドングリを付ける広葉樹であるため熊も生息しているようであり、途中に糞も確認できる。
行く場合は、熊鈴やラジオを持ちできれば複数で行った方が良いであろう。
霜台城は保科氏居館の詰めの城であり、保科道の抑えとして築城されたものであるが、谷反対側の南の山に加増(かぞう)城と和田東山城を置き防衛網を構築している。
(宮坂武雄「信濃の山城と館」長野・更埴編 参考)
和田東山城(長野市若穂保科上和田)
保科氏館跡である広徳寺の西1.2q、奇妙山から延びる尾根末端にある。
この城は昭和末に付近の遺跡発掘調査において確認されたという。
性格的には霜台城の支城として保科の谷を谷の両側から抑える役目があると思われる。
|
@神社裏の堀底状の道。右の墓地も曲輪だろう。 | Aここから本格的城域となる。堀が存在する。 | B城中心部に相当する土壇。 |
C土壇の上は平坦。ここには物見櫓があったのか? | D土壇東下の腰曲輪 | E 土壇を東側から見る。結構勾配がある。 |
城ではあるが、遺構は非常に曖昧であり、耕作地にもなっていたので曖昧さに拍車をかけている。
そのような点を考慮しても簡素なものであり、防御性は乏しい。
物見台、威嚇用程度の役目としてしか用をなさない城である。
攻撃を受けたら狼煙を上げ、多少の抵抗後、南側の奇妙山方向に逃走する手はずだったのでないだろうか。
(宮坂武雄「信濃の山城と館」長野・更埴編 参考)