古山城(小川村西戸谷)
長野市から犀川渓谷沿いに松本市に向かう国道19号線から途中で白馬方面に県道31号線が分岐する。
この県道は土尻川に沿っており、行政区分は長野市から「おやき」の村小川村に変わる。
その小川村の中心部からさらに北の鬼無里方面に県道36号線が分岐する。

古山城は県道31号線と36号線が合流点北西の山上にある。
土尻川の標高が527mであり、川から250m以上高い場所である。
北西から南東にかけて長く延びる山が城域であり、長さ約500m、幅150m位の規模を持つ。

城は大きく3つの部分に分れ、南東端の標高745mのピーク、古山神社のある785mのピークA、そして主郭部のある803mのピークCに曲輪を展開させる。
各ピ−ク間の鞍部は堀切の役割を担っている。
各ピークが独立しており、一城別郭形式の城と言えるだろう。
大規模な堀などははなく、周囲の斜面の勾配もそれほど急ではなく一見、それほどの要害性はないが、高い山の上という立地が要害性を十分カバーしている。

高い場所にはあるが、それほど広くはないが、車道がここまで延びており、車で神社のすぐ近くまで行くことが可能である。
鞍部のような場所に車を止めるスペースがあるが、ここがすでに城域である。
おそらく当時は堀切があったのであろう。

この場所の標高は733m、南東側の土塁を持つ住宅があり、ここが曲輪X、すでに城域である。標高は744.8m。
北西側に道が延び、北の古山神社に行く参道になっている。

この参道@は尾根上端で西に曲がるがその部分が平坦地になっており、曲輪Wである。
神社までの尾根筋は参道になっているが、段々に小曲輪が展開していたのではないかと思われる。

頂上部が古山神社の本殿がある場所が曲輪VAである。
40m四方ほどの平坦地になっている。
ここの標高は785m。
神社の地が主郭のような感じが受けるが、主郭部はさらにここの北西側にある。

@古山神社への参道、頂上部が曲輪W. A曲輪Vに建つ古山神社。 B曲輪Vと主郭部間の鞍部。もとは堀切だろう。
C主郭、曲輪Tに建つ金吾大善。 D主郭西下の2重堀切。箱堀状であり、水溜か? E2重堀切の西側の曲輪Uは土壇を持つ。

一度鞍部に降りるが、鞍部Bの標高は778m、ここも堀切跡と思われる。
北側からここを経由して社殿まで行く軽トラ程度が走れる道が付けられている。

主郭はここから高度で25m高い場所にある。
そこまでの間には帯曲輪等が見られ、切岸は鋭く加工されている。

主郭Cは約15m四方の広さであり、金吾大善社が祀られている。
標高は803m。ここからは北に戸隠連峰が望まれる。↓

その周囲に幅7mほどの腰曲輪がある。
西側5m下に幅15mの2重堀切Dがある。
堀切は箱堀状であり、北側に土橋がある。
この堀は天水溜を兼ねていたのではないかと思われる。



この2重堀切の西側が二郭、曲輪UE、標高は776m、40m×20mほどの広さで北側に土塁を持つ。
城址には平成13年3月小川村教育委員会により建てられた解説があり、以下のように書かれる。

長野県最古の古文書である「天養文書(天養2年)1145」に本地域が始めて登場し、最勝寺領小川庄に属していたという。
城主は小川左衛門貞綱で室町時代、三河国小川苅谷城主(愛知県知多郡苅谷町)であったが、足利義満によって南北朝が統一されると、南朝に属していた貞綱は無実の罪によって貶せられ(官位を下げて遠方に追いやる)信濃の山中に追放された。
元中9年(1392)古山城(当時は布留山城と称した。)を築き、小川を名乗り、貞綱、綱義、貞縄3代78年に渡りこの地方を治め、勢力を持った。
しかし、当時、信濃で勢力があった村上顕国の命に従わなかったため、家臣の牧野島城主香坂安房守に攻められ、小川定縄は故郷に帰り、罪を許され姓を水野と改め、徳川家臣となり江戸時代は大名となって続く。
この戦いの年次については応仁2年(1468)、永正2年(1505)、天文5年(1536)の3説がある。
小川の地は香坂安房守の子、大日方小五郎長利(後に長政に改名)に与えられた。
長政の後継、直忠には直経、直武、直長、直親の5人の子がいたが、武田氏の侵略の手が延び、5人の兄弟間に上杉、武田のどちらに付くか対立が生じ、武田との対決を主張する長男、金吾介直経を殺害、その霊を弔う祠が城址に建てられている。

結局、大日方氏は武田氏に従うこととなり、川中島の戦いにも参戦、その戦功により川中島の中央部にある広田城の城主にもなり所領を得、永禄元年(1558)には土尻川の下流、小川領に隣接する中条地区の支配権も与えられた。
川中島の戦いの頃の軍事力は110騎と伝えられ、一族全てを合わせると300騎と強大であり、上杉謙信が戸隠から追放した僧侶を小川に受け入れ、小川は「坊」と称された。
天正10年(1582年)3月の武田氏の滅亡後は織田氏に従い、同年6月の本能寺の変後に発生した「天正壬午の乱」では、大日方氏は、徳川氏によって信濃に復帰した小笠原貞慶方と、上杉方に分裂、上杉方についた者の多くは慶長3年(1598)上杉氏の会津移封に同行せず、帰農し、一部は後に松代藩真田氏に仕えた。

現在も小川村を始めこの地方には大日方姓は多く、管理人の父親の妹(つまり叔母さん)の嫁ぎ先も大日方さんである。
中学校の同級生にも大日方君がいた。馴染みのある一族である。
(「信濃の山城と館」、武家家伝を参考にした。)

中牧城(小川村中牧)
小川村中心部から県道36号線を鬼無里方面に北上すると三重塔がある高山寺に着く。
ここの標高は838mである。ここから西側は谷になっており、西側の山越しに北アルプスがきれいに見える。
高山寺の少し北に車が何とか走行できる西下に下って行く狭い道がある。この道を曲がりくねりながら下ると中牧の集落に出てくる。
そこの標高は738mであるので、高山寺の地よりは100mほど低い。

中牧城はその中牧の集落の少し上、下ってくる道路の脇、標高774m
地点にある。と、いうことなのだが、果たしてこれは城なんだろうか?
東から西に延びる尾根の途中に平坦地@を造り出しただけである。

城なら普通は尾根を堀切などで遮断する。
特に尾根の標高が高い側が城外なら、2重堀切や大規模な堀切で厳重に遮断するのが定常である。


@主郭に建つ「産土様」の祠、主郭内部は平坦で広い。 A東側には切岸がある。この先に堀切はない。ただの尾根。

しかし、そんなものはない。尾根が続くだけである。
この尾根伝いに攻め下られたらどうにもならない。
もちろん、柵や逆茂木程度はあったと思うが。

上方には古い歴史がある高山寺があるので、街道があったことは明らかであり、背後から攻められることも想定できるとは思うのだが。
しかし、このような背後が甘い城はないことはない。
城の主郭部である平坦地は50m×20mほどの広さがあり、人工的に作り出したものであることは明らかである。
ここには現在、「産土様」が祀られている。陣城程度でももっと立派なものはある。

城というより、居館、屋敷跡であったかもしれない。
城の歴史は今一つ明確ではないが、「小川村誌」は天文年間大日方氏がいたとか、
「長野町村誌」は中牧出雲守が武田氏に服従し、大岡の中牧城から中牧伊勢守の時期に牧場経営のため移転したととしている。
(「信濃の山城と館」を参考にした。)

真那板城(小川村高府花尾)
小川村は長野市の西隣、筑摩山地の山中、犀川の支流土尻川が流れる山間の地であり、長野と白馬を結ぶ幹線である大町街道こと県道31号線が中心部を通る。
この道路は長野オリンピック開催時に整備された。
以前の蛇行が続く細い県道の時に比べ拡張整備され、とても快適な道路となり、これによりこの村も開けた感じの地になっている。

しかし、ここは何と言っても今では「おやき」で有名である。
小川村はこの郷土食の「おやき」に着目して村興しを行い、これを全国的な大ヒットにつなげ、村の知名度もアップした。
おかげで本来、長野市に吸収合併される恐れがあったのだが、いまだに独立した村でいられるのである。
まさに「おやき」様さまである。

さて、ここで取り上げるのは真那板城である。変わった名前であるが、その由来は分からない。
小川村役場から県道36号線を鬼無里方面に2kmほど山に登りながら北上すると成就地区になる。
県道の途中に東に分岐する道があり、案内に「明松寺」とあるのでその道を行くと寺に着く。
寺の裏山が城址である。
左の写真は明松寺、背後の山が城址である。

その山の標高は760mであるが、寺の地自体も城域であり、馬場などがあり、寺付近は居館であったと推定される。
この寺が建つ地でも標高680mもある。
土尻川の流れる小川村役場の地が500mであるので、城址は比高260mもあることになる。
まさにここは山、また山の山間である。
この城も宮坂武男氏の「信濃の山城と館」に取り上げられているが、今一つ、氏の城であるとの見解に弱さを感じる。
氏は明松寺の裏の比高70mの山が城址と推定しているが、その山頂部は単なる平坦地Aであるとしている。

確かに山頂部まで行ってみたが、そこには平坦部があるだけであり、土塁とか、櫓台とかの城郭遺構はなかった。
しかし、氏作成の縄張図には描かれていなかった横堀Bが山頂部と寺の中間部に長さ100mほどにわたって存在しているのが確認できた。

堀としては深さ1mほどのそれほど深いものではなかったが、道路などではない。
城郭遺構と考えて良いものと思う。
この部分、杉の木などの伐採が行われていたこともあるが、宮坂氏が行ったのが夏場だったら藪状態で見えなかった可能性もある。

また、寺の東側の馬場という場所@は学校の跡地のような感じでもあるが、今も乗馬場であり「明松寺馬事公苑」となっている。
すなわち現役の「馬場」のままなのである。これは驚き!

この部分は70m四方ほどあり、さらに東側に一段高く50m四方ほどの場所が、さらに北側に15mほど高い場所にもロッジが建つ場所がある。
この真那板城の主体部は明松寺からこの馬場にかけての部分というべきであろう。

@明松寺東の馬場は今も馬場である。 Aここが山頂部であるが、ただの平場である。 B山頂と寺の間の中腹には横堀が存在する。

もっとも、こんな山奥、攻撃される恐れもなく、山頂部に立て篭もるより、山中を逃走した方が安全確実である。
この山、また山の地なら、地理に精通した地元の人間ならいくらでもにげ隠れることは可能だろう。
背後の山は緊急時の一時的な緊急退避場所程度の扱いであったのであろう。

戦国時代、この地を支配していた土豪の大日方氏一族の城であり、天文年間、大日方讃岐入道政直の4男内膳正直が住み、子の直明は武田氏にくだり、直房、直充、直智と続き、さらに江戸時代は真田信之に従い200石を領し、足軽10人を指揮したという。
(宮坂武男「信濃の山城と館」等を参考にした。)

椿峰(つばみね)城(小川村稲丘)
県道36号線を北上し、今は長野市となっている鬼無里との境付近に小川プラネタリウムがある。

椿峰城はそこから少し南、小川村役場方面に戻った場所にある西照寺の南側の集落にある。
ここの標高は936m、かなりの高所である。

城址は宅地となり内部は2段になっており、2軒ほどの人家があり、畑にもなっている。

北側の山側との間には幅15mほどの堀跡@と土橋Bがある。
堀に面して土塁があったというが、宅地化により湮滅している。

東側は小池沢の深い谷になっている。
西側の堀Aは埋められ畑になっているようで切岸が確認できる。

この城は小川と鬼無里を結ぶ街道筋を抑える関所城ではなかったかと思われる。
城址と言われる部分は今も人家があるため、居住には適した場所である。

北に山があり、南向きというのも居住にはいい条件である。
しかし、北側は山であり、そこには人家がある。
ここからは城内な丸見えであり、ここから矢を射られればどうにもならない。

北側の人家の場所は当時から削平されており、山も城域であったように思える。
なお、小池沢の東岸、北の山に「コジョウ」という場所があり、平坦地がある。

@北側の堀、右が曲輪側 A西側の堀は埋められ、切岸だけは明確である。 B土橋跡、家付近に土塁があったはずだが。

そこが避難場所だったとも言う。
椿氏が数代にわたり住んだというが、この椿氏がどのような者かは分からない。
おそらくは牧場を経営する者であろう。
応仁から天文年間に小川古山城の城主、小川左衛門貞綱が攻略したという。
(宮坂武男「信濃の山城と館」等を参考にした。)