真那板城(小川村高府花尾)
小川村は長野市の西隣、筑摩山地の山中、犀川の支流土尻川が流れる山間の地であり、長野と白馬を結ぶ幹線である大町街道こと県道31号線が中心部を通る。
この道路は長野オリンピック開催時に整備された。
以前の蛇行が続く細い県道の時に比べ拡張整備され、とても快適な道路となり、これによりこの村も開けた感じの地になっている。

しかし、ここは何と言っても今では「おやき」で有名である。
小川村はこの郷土食の「おやき」に着目して村興しを行い、これを全国的な大ヒットにつなげ、村の知名度もアップした。
おかげで本来、長野市に吸収合併される恐れがあったのだが、いまだに独立した村でいられるのである。
まさに「おやき」様さまである。

さて、ここで取り上げるのは真那板城である。変わった名前であるが、その由来は分からない。
小川村役場から県道36号線を鬼無里方面に2kmほど山に登りながら北上すると成就地区になる。
県道の途中に東に分岐する道があり、案内に「明松寺」とあるのでその道を行くと寺に着く。
寺の裏山が城址である。
左の写真は明松寺、背後の山が城址である。

その山の標高は760mであるが、寺の地自体も城域であり、馬場などがあり、寺付近は居館であったと推定される。
この寺が建つ地でも標高680mもある。
土尻川の流れる小川村役場の地が500mであるので、城址は比高260mもあることになる。
まさにここは山、また山の山間である。
この城も宮坂武男氏の「信濃の山城と館」に取り上げられているが、今一つ、氏の城であるとの見解に弱さを感じる。
氏は明松寺の裏の比高70mの山が城址と推定しているが、その山頂部は単なる平坦地Aであるとしている。

確かに山頂部まで行ってみたが、そこには平坦部があるだけであり、土塁とか、櫓台とかの城郭遺構はなかった。
しかし、氏作成の縄張図には描かれていなかった横堀Bが山頂部と寺の中間部に長さ100mほどにわたって存在しているのが確認できた。

堀としては深さ1mほどのそれほど深いものではなかったが、道路などではない。
城郭遺構と考えて良いものと思う。
この部分、杉の木などの伐採が行われていたこともあるが、宮坂氏が行ったのが夏場だったら藪状態で見えなかった可能性もある。

また、寺の東側の馬場という場所@は学校の跡地のような感じでもあるが、今も乗馬場であり「明松寺馬事公苑」となっている。
すなわち現役の「馬場」のままなのである。これは驚き!

この部分は70m四方ほどあり、さらに東側に一段高く50m四方ほどの場所が、さらに北側に15mほど高い場所にもロッジが建つ場所がある。
この真那板城の主体部は明松寺からこの馬場にかけての部分というべきであろう。

もっとも、こんな山奥、攻撃される恐れもなく、山頂部に立て篭もるより、山中を逃走した方が安全確実である。
この山、また山の地なら、地理に精通した地元の人間ならいくらでもにげ隠れることは可能だろう。
背後の山は緊急時の一時的な緊急退避場所程度の扱いであったのであろう。
@明松寺東の馬場は今も馬場である。 Aここが山頂部であるが、ただの平場である。 B山頂と寺の間の中腹には横堀が存在する。

戦国時代、この地を支配していた土豪の大日方氏一族の城であり、天文年間、大日方讃岐入道政直の4男内膳正直が住み、子の直明は武田氏にくだり、直房、直充、直智と続き、さらに江戸時代は真田信之に従い200石を領し、足軽10人を指揮したという。
(宮坂武男「信濃の山城と館」等を参考にした。)


椿峰(つばみね)城(小川村稲丘)
県道36号線を北上し、今は長野市となっている鬼無里との境付近に小川プラネタリウムがある。
椿峰城はそこから少し南、小川村役場方面に戻った場所にある西照寺の南側の集落にある。
ここの標高は936m、かなりの高所である。

城址は宅地となり内部は2段になっており、2軒ほどの人家があり、畑にもなっている。

北側の山側との間には幅15mほどの堀跡@と土橋Bがある。
堀に面して土塁があったというが、宅地化により湮滅している。

東側は小池沢の深い谷になっている。
西側の堀Aは埋められ畑になっているようで切岸が確認できる。

この城は小川と鬼無里を結ぶ街道筋を抑える関所城ではなかったかと思われる。
城址と言われる部分は今も人家があるため、居住には適した場所である。

北に山があり、南向きというのも居住にはいい条件である。
しかし、北側は山であり、そこには人家がある。
ここからは城内な丸見えであり、ここから矢を射られればどうにもならない。

北側の人家の場所は当時から削平されており、山も城域であったように思える。
なお、小池沢の東岸、北の山に「コジョウ」という場所があり、平坦地がある。

@北側の堀、右が曲輪側 A西側の堀は埋められ、切岸だけは明確である。 B土橋跡、家付近に土塁があったはずだが。

そこが避難場所だったとも言う。
椿氏が数代にわたり住んだというが、この椿氏がどのような者かは分からない。
おそらくは牧場を経営する者であろう。
応仁から天文年間に小川古山城の城主、小川左衛門貞綱が攻略したという。
(宮坂武男「信濃の山城と館」等を参考にした。)