天皇平城(長野市信州新町水内)36.5755、138.0442
信州新町の最東端部に位置する。
しかし、「天皇」という名前が付く。すごい名前である。
一体、語源はなんだろう。

城には国道19号線「道の駅 信州新町」の少し南側に西に山を登る道があり、そこに入り、約1.5q南に走る。
すると左手に城の切岸@のようなものが見える。
その上が城址である。

切岸の上は比較的平坦であり、リンゴ園になっている。C
標高は544m。
切岸Aは最低でも高さ3mほどあり、南側以外を約300mにわたり覆う。
平坦地は多少の起伏はあるが、150m×80mほどの広さがある。

犀川までは140mほどの比高があり、高い山上にこのような広い平坦地があるのは驚きである。
この平坦地の南側に平坦地から比高15mほどの東西に長い山があり、平坦地との間が若干溝状になり道がある。
ここを百間馬場Bという。
じめじめしており、ここに堀があった可能性もある。

@城北端部、この切岸を見て「見つけた!」 A北東側の切岸、犬走りのようになっている。 B百阡n場は堀跡か?林の上が主郭部。
C Aの切岸上は広い平坦地、果樹園、畑、宅地になっている。 D山上に建つ秋葉社、ここが本郭と言えるだろう。 E秋葉社の社殿の裏には堀切がある。

山上には30m×25mの平坦地があり、秋葉社Dが建つ。
ここの標高は556m。
社殿の東側の唯一明瞭な城郭遺構である堀切Eがある。
ここから南下140mに犀川と水内ダムが見える。
この方面は急傾斜である。

城の歴史はよく分からないが、武田方に属した塩入但馬守城主であったという。
おそらくこの付近にいた在地の小土豪であり、武田氏の勢力が伸びた時、付近の多くの土豪と同様にその支配下に入ったのであろう。
この平坦地の一角に居館を構えていたのであろう。(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考)

斎宮城(長野市信州新町水内)
天皇平城の一段東下の犀川の段丘上にある。
というよりその段丘上の平地を見下ろす尾根状の丘とその裾野部が主体部という。
しかし、その部分、住宅団地になってしまい完全に遺構は隠滅している。
もっともそれ以前は畑だったとのことで、その頃から遺構らしいものはもうなかったようである。
ちなみに国道19号線はこの段丘の下を通る。
かろうじて雰囲気を伝えるのは丘平坦地である。

↑赤い屋根の民家付近とその裏の高台が城の中心部と言う。

ここも城域であったと思われるが、古代から平安鎌倉期の遺跡、斎宮遺跡であり、当時の遺物が多数出土しているという。
この斎宮という地名は平坦地にある「彦神別神社」からきている。
変わった名前の神社であり、何等かの謂われを感じる。

↑彦神別神社の鳥居と参道、由緒ありそうな名前と雰囲気の神社である。
斎宮というと伊勢神宮等、皇室にも関係するように思えるが?
土豪の館があった可能性もある。
しかし、戦国期の遺物が出土しているのかは分からない。
あるいは戦国期よりもっと古い時期の可能性もある。
神官の居館があったのかもしれない。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考)

萩野城(長野市信州新町山穂刈)36.5921、137.9460
長野市の西端部が信州新町地区である。
ここも平成の大合併で長野市に併合された地区であり、かつては「信州新町」であった。

犀川が安曇野から長野盆地に出る間の山間の谷部が町の主要部なのだが、周囲の山間もすべて行政範囲である。
この地区の知名度の高い城といったら何と言っても丸馬出を持つ「牧野島城」であろう。

この萩野城、この信州新町地区の最北東端に位置し、北は小川村、西は大町市(急美麻村)である。
ここまで行くのが大変である。
国道19号線沿いの信州新町の中心部上条地区から県道36号線に入り小川村方面に北上し、刈内地区から太田川の谷に沿って、ひたすら西に走る。
この道、舗装はされているがほとんど細い谷を走る林道レベルである。
この先に一体人家はあるのか?と思うのであるが・・・。
約4q行くと山に登って行く道がある。
そこを登れば城のある細尾地区になる。
そこはビックリ!山間の小盆地である。
数件の人家がある。まさに天空の集落と言った感じある。

その地区の北西、高い場所に「森の家」というバンガロー村がある。
この森の家の西側の裏山が萩野城である。

↑南東下の細野集落から見た城址。鋭さは全くない。

しかし、城としてはぱっとしない。
城は3つの部分に分かれ、全長は約300m。

北端が睨台という曲輪@、50m×40mの広さを持ち東側と西側を高さ1mほどの土塁が覆う。
東側には腰曲輪Aが見られるが、周囲は緩斜面であり特段の防御施設はない。

ここの標高は850m。戦闘用の曲輪ではなく、居住用のスペースのように思える。
そこから南に尾根を下った場所が萩野城の中心部という。
ちなみにここの南側がいったん盛り上がり、見張り台と言われる。
標高は855m、頂上部に40m×10mの細長い曲輪があり、その西下を帯曲輪が覆う。

@睨台の内部。平坦であり、ここが城の中心部では?
A睨台は土塁が覆い、東側には帯曲輪がある。

つまり、萩野城の中心部は鞍部にあるのである。
標高は840m。普通は城としてこのような構造のものはない。
鞍部には40m×20mの平坦地があり、道が東西に横切る。
堀切、竪堀ではなく、道である。

B鞍部に平坦地があり、道が横切る。
ここが城の中心部と言うが、違うだろう。関所では?
C南側のピークは見張台と言う。東屋が建つ。 D見張台西側は切岸加工され、腰曲輪がある。

つまりはここは関所である。
美麻の千見城方面から太田川沿いに信州新町の中心部、香坂氏の上条館方面に通じる街道筋の監視用の砦兼関所であろう。
築城したのは仁科氏と言われる。

なお、この地には木曾義仲伝説が存在する。
上方で義仲が敗死すると遺児力寿丸を擁する樋口氏、手塚氏が仁科氏の手引きでこの地に逃れたという。
義仲伝説、信濃の各地にある。やはり彼は地元の英雄なのである。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考)

北の城(長野市信州新町山穂刈)36.5869、137.9780
県道36号線から萩野城に通じる道が分岐する刈内地区から西に約1.5q、福土地区にある。
福土地区を過ぎると、城址標柱が道脇に建っている。
そこが城への入口である・・・のだが!!
そこから城に向かったのだが、道は・・・ない、に近い。
かろうじて痕跡はあるのだが、熊笹が高さ1mにもなって覆いかぶさり、道は急坂、@とても進めない。


おまけに入り口付近に人間のものではない動物の大きな足跡がくっきり残っているではないか!
で、この道は断念。

車道からは城の曲輪と思われる部分が見えるのである。
車道から登れないものかと、取り付けそうな場所を探す。
行けそうな場所Aがないではなかったが、この日は雨あがり、滑落の恐れもある。
このため、ここも断念。
@この上が主郭なのだが、熊笹が凄く登れない。
A北側、道路沿いから登り口を探すが、濡れていて無理。

立地から推定し、美麻の千見城方面から萩野城を通り、太田川沿いに信州新町の中心部、香坂氏の上条館方面に通じる街道筋の監視用の砦であろう。
遺構としては尾根の先端部標高577.8mにいくつかの曲輪を置き、背後に堀切を入れただけの簡素なものである。

北部修理太夫という人物が住み、里穂刈から牧田中に移り住んだという。
この人物、どのような者かは分からない。
イラストは宮坂武男氏作成の縄張図を基に作成。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考)

中牧城(長野市信州新町中牧石津)
信州新町牧之原から県道12号線を南進した中牧地区下石津にある。
大月城のある中牧神社のある山から北西に延びた尾根の末端部にあり、標高は570m、北西下を流れる犀川からの比高は140mである。
城址碑が北側にあるのだが、そこから城までどこから登っていいのか分らない。

おそらく西側、尾根の先端から登る道が有りそうであるが、それは後で気が付いた。
東西に長い尾根状の山で北側から登ろうとしたのだが、とんでもなく急勾配である。
竪堀も何本か下っている。
山の麓をうろちょろしたが、結局、登る道は見つからない。
結局は急な尾根を強行突破しかない。
で、息をきらして高度30mほどをよじ登る。
竪堀があるので、斜面の横移動もできない。
今だに横堀の機能を発揮しているのである。

ようやく、出た尾根部は城の東側、ほぼ城外に近い場所である。
城の主体部分はこの西側の高度が下がった部分であった。


@本郭南側の鞍部、写真の先に本郭の土壇がある。 A本郭内部
B本郭北側をS字を描いて下る竪堀。 C@の鞍部南側は段々状に曲輪が重なる。

尾根の東は大月城付近まで比較的幅のある歩きやすい尾根が続いており、尾根上が比較的安全な道であったことを伺わせる。
城跡付近になると尾根幅は広くなり緩斜面となるが、切岸の高さが3mほどに加工した人工的な段々の部分Cが3つほど現れる。
そして長さ、幅40mほどの鞍部@がある。

その先に高さ5mほどの土壇があり、そこの西側が本郭である。
本郭Aは南北15m、東西20mほど。
西側が堀になっており、さらに西側の尾根に曲輪を展開させながら高度を下げる。
本郭の北側には帯曲輪があり、竪堀Bが湾曲しながら下る。

城主はこの地の土豪中牧氏と言われる。
中牧氏は戦国時代、武田氏に従うようになっていたようであり、牧野島城の整備にも動員されていたらしい。
牧野島城の南の防衛拠点でもあったのかもしれない。


大月城(長野市信州新町中牧大月山)
県道12号線沿い旧大岡村中牧池田にある大岡小学校中牧分校跡から、軽トラ程度なら通れる山道を歩いて15分、北西の標高789mの山にある中牧神社を目指す。
鞍部から最後の登りを上がると神社社殿の裏に出る。

本来の道は鞍部から山の東斜面を迂回し、北下の鳥居の場所に出る道であるが、この道は消えかかっている。
神社社殿の東裏手@であるが、ここには堀切が存在していたようであるが、道を造った時に埋められてしまっている。

境内Aは南北80m、東西30mほど。
北側に向けて緩斜面になっている。
社殿の南側は尾根が緩く下るがそこには堀切はなかった。
境内からは西したの犀川の流れが望まれる。

@社殿東側、この付近に堀があったらしい。 A 神社境内は北に緩く傾斜しているが広い。 B北下の鳥居の場所は曲輪だろう。

北に石段があり、鳥居の場所Bまで高さで30mほどある。
途中に腰曲輪が認められる。
また、この山の斜面には岩がごろごろしており、社殿の基礎も石垣である。
本来は石垣で土留めの補強がされていたのではないかと思う。
ここから北西の尾根を下って行くと中牧城である。
中牧城の詰めの城がここであったかもしれない。