長野市の北西端、旧鬼無里村は今は長野市に合併されている。
ここは山深い信州でもさらに山深い地である。

最盛期は6000人ほどの人口があったというが、今は過疎化が進み2000人程度。
村には信号機は1台だけ。
一時、無医村だったそうだが、今は長野市が診療所を開設している。
ここからは裾花川沿い国道406号線で長野市街に行くのだが、道路が整備されてもまだまだ狭い。
かつては大型車と対向すると交差も困難だったという。

戸隠も奥地であるが、ここはさらにその裏手にあたる地であり、有名な水芭蕉群がある。
ちなみに鬼無里は「きなさ」と読むのである。
これはなかなか読めない。珍地名であろう。

ここは平家の落人伝説があり、「東京」とか「西京」とか京に係る地名がそのまま字として残っている。
多分、本物の平家の落人集落なのであろう。
他にも様々な伝説が残っている。
鬼女伝説、鬼退治伝説が鬼無里という地名の元となったという。
この鬼がなにを意味しているか分からない。平家の武者の落ち武者狩りのような気もするが、桃太郎伝説にも通じるものかもしれない。
その場合は蝦夷のような大和朝廷に服従しない縄文人の子孫がこの山奥にいたのかもしれない。
また、平家と合い反する者であるが、信州全体に多いが、この地にも木曽義仲伝説が多く存在する。
こんな伝説が多い信州の奥深い山間にも城館がある。

蓬平城(長野市鬼無里蓬平)
この蓬平城は鬼無里の中心部東に見える山の先端部にある。
ここへは鬼無里支所前から戸隠に向う県道36号線を500m北上、さらに東に入る山に登る道を行く。
するとこの道路の最南端部が大きなヘアピンカーブになっており、蓬平のバス停がある。
そのバス停の東の岡が城の主要部である。


↑ 西下の鬼無里中心部から見た東の山にある蓬平城。
背後の山は新倉山(1252m)
、山向こうが戸隠の柵地区になる。

ここの標高は740m、鬼無里支所付近が670mほどであるので、比高は70mほどである。
ここからは眼下の鬼無里中心部と長野市方面に流れる裾花川と並行する街道筋がよく見える。
街道筋の交通を監視する場所としては適した場所である。
当然ながらここは南向きで日当たりも良く生活もしやすいため、居住の地でもあったのであろう。
今も蓬平の集落になっており、城域の一部が集落地にかかっている。
主体部は殿屋敷と呼ばれる平坦地@であるが、そこは畑となっている。


↑ 城の主体部である殿屋敷の平坦地を西下から見る。

A @の西下の帯曲輪

↑ @ 城の主体部、殿屋敷は畑になっている。左の部分が削り残しの土塁
正面の山には虫倉城がある。虫倉城とともに裾花川の谷を両側から抑えたのであろう。

ここは南北70m、底辺35mほどの三角形をしている。
ここに居館があったのであろうか。

東側から北側にかけて削り残しの尾根が土塁状に続くが、尾根上は平坦ではあるが、ほとんど自然地形に近い。
西側下には帯曲輪Aが存在する。
城のある山は北から南に延びる山地の末端が盛り上がった部分であり、北側は鞍部になり、荒倉神社方面に通じる道路が通る。

館主は大日方氏一族、大日方筑後であったと推定される。
彼は武田氏の侵略に抵抗して滅亡し、その後廃城になったようである。
大日方一族も武田に下る者もいれば、武田氏に抵抗する者もいたのである。

一族を2分して存続を図る方法は、真田氏が有名であるが、この地の土豪の多くが用いている。
これは何が何でも一族の血は絶やさないというための常套手段、常識なのであろう。
こんな生産性も低い山間まで武田氏の侵略の手が延びているが、ここも長野と白馬を結ぶ裏街道が通っており、街道交通を抑えるのが目的であったのであろう。
(宮坂武男「信濃の山城と館」等を参考にした。)

大日方左門館(鬼無里上新倉)
蓬平城前の道をさらに高度を上げながら進むと荒倉神社がある。
ここの標高は809m、その南側の岡が館跡であるが、ここは山間の平坦部であり、直径は150mほど、特段何の遺構らしいものもない。
住宅っと畑があるだけである。
しかし、ここは山の南側斜面部であり、日当たりはよく、北風も防げ、生活がしやすい。
このことは集落になっていることが立証している。
居館を置くには適した場所である。

武田氏の侵略に抵抗して滅亡した大日方左門の館というが、この場所に館があったというのも伝承の域を出ないものという。
(宮坂武男「信濃の山城と館」等を参考にした。)

古城(長野市鬼無里上新倉)
蓬平城から荒倉神社を通りさら1kmほど北に進んで行くと、道は狭くなり「ふるさとの館」という施設に到着する。


この施設の南側の山が城址であるが、「ふるさとの館」のある場所自体も城域であると言う。
城の主体部のある山の標高は940m、鬼無里支所付近からの比高は270mほどである。

@城址東側、この部分は堀切だろう。 A主郭から見た東下の曲輪、その間に堀がある。
Bここが主郭なのだが、あまり平坦ではない。 C西端部に建つ不気味な模擬天守

城と言っても物見台程度の全長100m程度の小規模なものであり、曲輪、堀切はあるが不明確である。
頂上部の主郭Bと思える場所も20m×10mほどの広さに過ぎず、しかも平坦でもない。
東下に堀切跡Aがある。
東の山との間の鞍部@にある道の場所も堀切跡と思われる。

不気味なのは西端に建つ、超小型の模擬天守Cである。
何でこんなものがここに?昭和バブル期の遺産なのか?
はたまた、意味不明の「ふるさと創生金」のなれの果てか?
使っている様子はないのだが、それほど老朽化しているようでもない。

この部分はこの怪しい城を建てるため、35m四方ほどの平坦地が造成されており、このため、改変を受けているようである。

大日方左門の詰め城とも言うが、「ふるさとの館」の地は牧場であり、大日方左門が経営する牧場があったともいう。
この山間の生活手段としては、農業はまず無理、牧場経営や街道の物資運搬が最も考えられるところであろう。
(宮坂武男「信濃の山城と館」等を参考にした。)