上尾城(信更町上尾)
長野市街から国道19号を松本方面に向かい、信州新町に入り、水篠橋を渡り、道の駅を過ぎ、左折、犀川に架かる平三水橋を東の対岸にわたり、北に向かい更府小学校を目指す。
岡を登って行くと台地となり、上尾集落があり、更府小学校Hがある。
西下の犀川の標高が410m、小学校付近が480〜490m、ここが「二ノ城」であり、居館や根小屋があった場所らしい。

城はここの東の岡、北に突き出た尾根状の岡である。
標高は510m、犀川からの比高は100mである。

坂の途中から北に延びる小道@を行くと城址となる。
途中に東に延びる切通しの道Aがあるが、これが堀跡であり、民家のある場所が四郭、五郭である。
この付近は宅地化や耕作により遺構が失われている。

四郭の北の堀切を越えると本郭であるが、急な切岸が高さ8mほど聳える。
堀切を東に行くと巨大な堀Bとなる。
本郭上までは10m、四郭側にも土塁がある。
堀の幅は25mほどあるであろう。
堀底から本郭に登る道があり、これが本来の登城路らしい。
本郭西側の犬走りのような道Cを行くと、北側の二郭に出る。
その途中、西下15mに腰曲輪があり、さらにその下にも曲輪がある。
そこは馬場というが、民家の敷地である。

二郭は35m×40mほど。中央部に塚がある。
南側の本郭間には土塁と堀があり、高さ5mほどを上がり虎口Dを入る。

本郭Eは35m×70m。東側に欠損があるが、高さ3mほどの土塁が覆う。
南西端Fは立派であり、井楼櫓が存在していたのではないかと思われる。

二郭の北に大きな堀があり、5mほど下に三郭Gがあるが、ここは小さい。
先端部が崩壊しているのではないだろうか。

以上が主郭部であるが、五郭の東側は氷熊地区から延びる尾根に続き、この方面が弱点である。
この尾根に尾根を分断するような堀が存在するという。

@この道の先が城址。右は五郭。 A四郭(左)と五郭間の堀跡。 B本郭(左)と四郭間の巨大な堀
C本郭西下の小道は犬走り? D二郭から見た本郭 E 本郭内は整備され東側以外を土塁が覆う
F本郭南西端の土塁上には櫓があったかも。 G二郭から見た北下の三郭 H四郭から見た「二ノ城」跡の更府小

なお、更府小学校の西側、犀川を見下ろす標高489mの山があり、小学校との間に池がある。
この西側の山から犀川筋を監視していたのではないかと思うが、山頂部は特段の遺構はなかった。
ただし、腰曲輪のようなものが確認できた。
この山頂部には物見があったのではないかと思われる。

滋野氏の一族、望月氏の一族が布施の地頭となったが、応仁年間に相続争いがあり、布施氏の長子が上尾城を築城して居城とし、平林を名乗ったのが始まりという。
この山間の地で春日氏などと同様、牧場を経営し、馬により生計を立てていたようである。
戦国時代、当主は平林正家、正恒であり、村上氏に従っていたが、武田氏の侵略で家臣となり、牧野島城の副将にもなったという。

武田氏が滅亡すると、川中島を占拠した上杉氏の家臣となり、会津移封に同行した。
この時、廃城になったのであろう。
平林氏は会津では白河小峯城で2000石を所領した。
その後、米沢に移り、寛永の分限帳には「平林右近一千石」とあり、信濃出身者では清野氏、芋川氏に次ぐ高禄を得ている。
しかし、江戸時代中期に至り、上杉鷹山の改革に反対した七家騒動が勃発。
改革に抵抗した平林氏は隠居、閉門、知行300石召し上げの処分を受けてしまった。そんな波乱の一族のいた城である。
しかし、この付近には「平林さん」は多く、この地に残った一族もいて、その子孫であろう。

屏風城信更町氷ノ田)
県道70号線沿い、信更中の北600m「嫁殺池」北の標高620mの山が城なのであるが、果たして城と言えるものか、分らない。
池からの比高は50m程度である。

東から見た城址 嫁殺池の東から北に延びる道を行けば城址に至る。

北端部分、北の急斜面に面して前面を半円形の土塁で囲み、周囲に曲輪を持つ場所は確認できたが、藪状態で写真を撮っても何が何だか分らず、さらに西側にも遺構があるような感じなのであるが、タラの木に阻まれて突入ができない。
池の東側に道があり、この道を行くと山に入って行く。

すると切通しAがある。
一見、堀切に見えるが城郭遺構であるか判断できない。

その西側の山に登るが、山上は比較的平坦ではあるが、ほとんど自然地形である。
宮坂武男氏は堀切の痕跡があったというが分らない。
北側は鞍部状になっているが、そこは堀っぽい感じがしないでもない。

しかし、その堀が竪堀となって下って行く東下に窪みのような場所Cがあり、そこからS字を描いて土塁を持つ堀Bが下っている。
一見、登城路のようにも見えるし、窪みが井戸跡であり、湧き水を誘導する用水路跡のようにも見える。(ただし、水気はまったくない。)

@山南東にある切通は堀切なのか? A山斜面をS字に下る堀状遺構 B Aの先には井戸のような窪みがある。

この遺構?のようなものについては宮坂氏も記述していない。
これが一体何なのか、しばし考えてしまった。
以上のもの以外、城郭遺構らしいものは見つけられなかった。

村上氏家臣、大日方勘助が城主という伝承がある。大日方氏は後、武田氏に従い、武田氏が滅亡すると真田氏に従ったという。
宮坂武男:「信濃の山城と館」参考。


楯の城(長野市信更町今泉)
県道70号線、大沼入口バス停、県道から南に大沢地区に向かう道が分岐する標高450mの場所にNTT通信塔がある。
そこから北に下る尾根が城である。
犀川にある水内ダムの南東の山である。

県道は尾根を掘り切るように横断しているが、本来、堀切を利用したものの可能性がある。
電波塔と東側の尾根間にも堀跡@らしいものがある。
本来はそのまま堀が北まで延びていたようである。
電波塔の建つ場所が曲輪だったと思われ、ここが主郭か?

一方の東の尾根も城域らしいのであるが、これは本当だろうか?
ただ尾根が北に向けて下っておりA、途中に段差が3箇所程度あるだけであり、末端は鉄塔の場所Bで終わる。

電波塔の場所から比高で40mほどある。
犀川方面を監視する城としても、背後に特段の防御施設もない。
こんな城、果たしてあるのか?

長野懸町村誌では、武田家臣、金丸弥左衛門が城主であり、武田滅亡後は上杉氏に従い、会津移封に同行し、廃城になったとしている。

宮坂武男:「信濃の山城と館」参考。

↑は東側から見た城址。アンテナの位置から下る尾根筋が城域というが・・
@最上段部、県道脇の堀。 A 尾根を下っていく部分が曲輪?傾斜している。 B先端部には鉄塔が建ち、平坦で