千曲市の城2

冠着山砦(千曲市大字羽尾/筑北村坂井)

長野盆地最南端に目立つ山がある。
それが標高1252mの冠着(かむりき)山である。

この山、北から見ればドーム型の頂上部が広いように見える。しかし東西から見れば三角形である。
つまり、東西に延びる尾根状の山なのである。

この山の山頂部、花こう岩で出来ている。花崗岩なので火山と言われていた。しかし、火山ではないそうである。
火山跡と言うべき山なのだそうである。
かつて550万年前、ここに標高2000mを越える火山があり活動していた。
火山が活動を止めた後、原始千曲川等による浸食を受け、山が削られ、火道の中に残り固まった溶岩は浸食を受けにくく、そのまま残った。
これが山頂部という。

この付近の山系の最高峰である。
大きな山系であり、この山から派生した尾根の末端には荒砥城などいくつかの城がある。

↑千曲市更埴地区、千曲川堤防から見た冠着山。撮影場所からの比高は約900m。
頂上部はフラットに見えるが東西に長い尾根状である。その尾根に平場がありそこが城址である。


この冠着という名前、どこか北海道の地名に似る。
なんとなくアイヌ語が語源のような感じである。

もう一方、この山には「姨捨山」という別名がある。
あの「姨捨伝説」に関わる。

どちらかというと、この姨捨山という別名の方が有名かもしれない。
山の北の山麓にはJR篠ノ井線の「姨捨駅」があり、長野自動車道の「姨捨SA]、田毎の月で知られる姨捨の千枚田などがある。

しかし、この姨捨山はどうやら適当に当てつけたものであり、そのような名前の山はなかったらしい。
この付近の山地を総称したものという説もある。
一番高くて目立つので、この山を姨捨山としたのだとか?

その姨捨伝説であるが、ここが良く知られているが日本各地にあるばかりでなく世界中にあるそうである。
飢饉、飢餓に係り、そのような話が生まれたようであるが、事実かどうかは諸説あるらしい。

その姨捨山こと冠着山の山頂が城である。
標高1252mの山となると行くのが大変のように思えるが、それがそうでもない。
山の南側に県道498号線が通り、冠着山の南西下標高1066m地点に鳥居平という車が50台ほど置ける平坦地がある。
ここには安養院の奥の院があったという。
池もあり、北が山で日当たりも良く、高地ではあるが居住性を持つ場所である。

そこから比高190m、距離1.2kmを30分ほど登れば山頂なのである。
ただし、県道498号線かなりクネクネであり、目が回る。
でもちゃんと舗装されており、普通車でも問題なく走れる。

山頂までの道、途中に人間のものではない「糞」が転がっていた。
どうやら奴が生息しているようである。
もっとも、この付近の山、奴がいても全く不思議ではないけど。

@山頂西下の曲輪にある天水溜 A山頂部西下直下にある冠着山権現の祠。 B山頂部、冠着神社の周囲には土塁がある。
建物は雪避けの覆屋であり、中に社がある。
その城址という山頂部、東西約50m、南北約20mの若干南に傾斜した平坦地であり、ここが主郭である。

内部は2段になっており冠着神社のある場所Bが一段高い。
北側、西側を土塁が覆うがこれは風避けのようにも見える。
東は約50m細尾根状になっている。

西側は段々状の緩い傾斜になっており、天水溜もある。
途中にある冠着山権現の場所は土塁がコの字型に覆う。
C神社東の鳥居。平坦地はここまで。 南西下の鳥居平から見た冠着山。
ここからの比高約190m。

この城については「坊城」「望城」等の別名があるが、物見台、狼煙台であったようであり、筑北地区の勢力が使っていたらしい。
しかし、神社は東向きであり、現在は東の千曲市側の人が管理している。

山頂からは長野盆地一帯が見渡せる。

↑冠着山山頂から見た北に広がる長野盆地と北流する千曲川。
一番上の写真は中央の少し下付近の千曲川の堤防付近から撮影したもの。
右から突き出た山は屋代城、中央部右端が長野市街地中心部、その下が川中島。
しかし、ここから望んでも、高すぎて何が下で起こっているか分かるものなのだろうか?


(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。)

佐野城(千曲市桑原)

「佐野山城」ともいう。千曲市の西部、桑原地区を通る長野自動車道の下をくぐり、佐野川の谷を1qほど西に入る場所にある。

この佐野川の谷は、現在は林道不動滝線が通じるだけの山間であるが、戦国時代以前は聖山、麻績、松本方面を結ぶ主要街道であったという。

平安末期、この城の麓にある不動滝を訪れた西行法師の詩が「撰集抄」に収められている。
松尾芭蕉も「更級紀行」でこの滝を詠んでおり、多く人が行きかっていた。
佐野城はその街道筋、平野部への出口を抑える城であった。

右は東側、上信越自動車道付近から見た城址である。
その佐野城であるが、多くのHPなどでもほとんど紹介されていない。
かなり険しい山であり、しかも麓の不動滝付近は断崖であり、非常に生き難いためではないかと推定した。

しかし、けしてそんなことはなかった。
林道の途中にある「不動滝、佐野城跡」の標識が出ているところに車を置き、佐野川沿いの山道を行くと途中、倒木等があるものの、佐野川にかかる橋をわたり不動滝まで行ける。
←が不動滝である。

そこから、佐野城までは遊歩道があり、そこを行けば城址まで藪漕ぎなどの難儀をすることなく行けるのである。

これは意外であった。しかも、遺構はほぼ完存である。
城のある山は西から佐野川の渓谷に突き出た尾根の先端部にあり、標高は690m、不動滝からの比高は90m、桑原地区からの比高は240mである。
不動滝からの遊歩道を40mほど登ると、いきなり段々の平坦地@が現れる。

まさにここからが城域であり、本郭までの比高50mにわたり曲輪が展開する。
この城のある尾根状の山は「剣の刃渡」Gという細尾根の南に主郭部があり、その南が扇型に広がり、その扇部に6,7mの段差で数段の曲輪を展開させる。

一番下の曲輪@に下は崖であり、崖江に面して土塁がある。
その段々状の曲輪Bの1つに「山の神」という碑がある。
曲輪Bまでの登り道は横堀状Aになっているのが印象的である。

山上の主郭部近くになると堀切Cらしいものが2か所あるが、これは堀切というより、堀底道となっている登城路を蛇行させたもののように思える。

主郭部は3つの曲輪からなる。
一番南の曲輪T Dが実質的な本郭にあたり、40m×20mほどの広さを持つ。
その北の曲輪U Eが城の最高地点になるが、櫓台のようなものである。高さは5mほどあり、坂虎口となっている。
曲輪Tとの間には堀切があることになっているが、井戸のようなくぼ地があるだけである。
曲輪Uは10m×40m程度の細長く、南北両側に低い土塁を持つ。
北に堀切を置き、その北に曲輪VFがあるが、この曲輪は単なる土壇であり、高さ3mほど、15m×5mほどの規模である。


@不動滝の横を登って行くと現れる一番下の曲輪
前面に土塁がある。下は佐野川への崖である。
A山の神がある帯曲輪の登る横堀状通路 B帯曲輪にある「山の神」の碑
C主郭部途中にある堀、っと思ったら通路らしい。 D曲輪T、ここが事実上の本郭であろう。 E最上地に位置する曲輪Uは櫓台か?
F曲輪U背後の堀切と曲輪V(左) G北の山に通じる[剣の刃渡」という細尾根。
上は平坦化され、土壇がある。両側は崖。
H「剣の刃渡」の先にある「外郭」という名の曲輪。
特段遺構はないが、堀底通路がある。

その先が鞍部である「剣の刃渡り」Gである。
ここが城の搦め手にあたる。幅は5mほど、上部は平坦であるが、ところどころに土壇がある。
木戸があったのであろう。
堀切はない。両側は絶壁である。

その先は登りになり、外郭があったというが、行けども行けども、それらしいものはない。
たんなんる自然地形であった。
ただし、道が堀底道Hのようになっている。
これが遺構なのであろうか。
西下に下りる道があり、水場である古谷沢があるというが、それらしい道は分からなくなっている。

築城は、応永7年(1400)9月、守護の小笠原氏を大塔合戦で駆逐した村上氏が小笠原氏の再来に対する抑えのために、家臣の桑原氏に命じて築城させたといい、城主の名に桑原左近太夫の名が見える。
しかし、今残る遺構は戦国時代のものであり、戦国時代、武田氏により改修され、川中島合戦の際には、付近の塩崎城、小坂城、塩崎新城、屋代城などと同様、武田軍の兵が分散して入ったのであろうと思われる。
この城の規模であれば、500人程度の兵が駐留することが可能である。

天文22年(1553)武田氏は麻績を経て、この方面から葛尾城を迂回する攻撃を行っているが、その時、佐野城に対する工作を行ったらしい。
「高白斎記」によると、4月5日、塩崎、屋代氏が武田氏に内通する旨を示し「桑原ノ地無最ノ由御注進」と記録されている。
なお、桑原氏はこのころ、塩崎氏と名乗るようになったらしい。
屋代城、同様、佐野城が武田方に付いたため、武田氏の桑原方面への進出が可能となり、村上氏の没落を早めたものと思われる。

佐野城の最後の登場は、武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺に斃れた後の天正11年(1583)である。
川中島は上杉景勝に占領され、屋代秀正が上杉氏に下るが、徳川家康の工作で離反、その時の直江兼続の書状に「逆徒居城荒砥、佐野山両地不経五三日自落、無行方為躰気楽」と記載されている。
この時、塩崎氏も屋代氏とともに反旗を翻す。

この背景としては、上杉景勝は海津城代にかつてのこの地の領主、村上義清の子、村上国清を任命。
屋代秀正をその補佐とする。しかし、屋代秀正はかつて村上義清を裏切り、没落させた首謀者の1人、2人の間には微妙なものがあったのであろう。
結局、屋代氏は村上−武田−森−上杉ー徳川 と主君を替えたことになる。まさに戦国時代の土豪の代表的な身の振り方である。
荒砥城に篭ったのは屋代秀正であり、佐野城には塩崎六郎次郎が篭ったという。
この反乱の後、両者は敗れ、逃亡。城は廃城になったようである。
なお、屋代氏は旗本として存続するが、塩崎氏がどうなったのかは分からない。

竜王城(千曲市桑原)
千曲市西部桑原地区を見下ろす西の山にある。
標高は720m、桑原地区が450mなので比高は270mとなる。
とんでもない場所にあるが、ありがたいことに車で行ける。
しかし、「本当にこれ城か?」と疑問を持つような城である。
ほとんどただの山の平坦な場所としか思えないのであるが・・。

北に大田原マレットパークがあり、南にある佐野城からは直線で1qほど、佐野城からは遊歩道が延びる。
城へは北の県道390号線から大田原マレットパークに向かうと途中に案内板があり、それにしたがって桑原地区まで通じる南の林道に入る。
林道といっても舗装されていて走行には問題ないが、ところどころに崖があり、岩が崩れているので注意を要する。

東下に千曲川を望む山頂東側の平坦地が城址であるが、東西60m、南北200mほどが本郭部らしい。
しかし、堀で区画されているわけではなく、どこまでが曲輪なのかよく分からない。
かろうじて東側が城らしい切岸になっているだけである。
平坦ななっているのは北側のみであり、南側は藪で分からない。
東下の斜面に帯曲輪が数段、見られるが、当初は植林によるものかと思った。
(しかし、こんな高い山に植林はないだろうなあ。)


築城がいつころか分からないが、文献に登場するのは遅く、天正11年(1583)9月である。
当時、武田氏が滅亡し、川中島を治めた織田氏家臣の森氏が撤退、上杉景勝が占領。これに対して徳川家康の支援で松本を回復した小笠原貞慶が川中島を狙い進出。
これに対して上杉に従う清野清寿軒と子息左衛門尉信昌が迎撃して撃退、その拠点がこの竜王城であったという。

文禄3年、清野氏は助次郎長範が当主であり、上杉の分限帳「定納員数目録」では士卒250人を統率しており、この竜王城を拠点にしていたという。
しかし、この城、これは一時的な陣城、詰城であり、常駐するような城ではない。
ただし、かなりの人数が短期間駐留できそうである。
清野氏が拠点としていたのは、おそらく稲荷山城などであり、その背後の小坂城、赤坂城が詰めの城であり、竜王城はさらに詰めの詰めの城といった感じである。
または、里人の非常時の避難施設であった可能性もある。

佐良志奈神社館(千曲市若宮)
更級(さらしな)とは、長野県北部川中島一帯の千曲川の西側一帯を指す。現在の長野市南部と千曲市西部一帯である。「更科」とも書くことがある。
かつては長野県に「更級郡」があったが、現在は大半が長野市に編入され、南側の旧上山田町が千曲市になっている。

川中島合戦が行なわれたのがここ。「更級日記」(内容は、この地方とはほとんど関係がない。)や「更級そば」で有名である。
この地方のシンボルが姨捨伝説で有名な「姨捨山」。
更級郡の成立はよく分らないが、平安時代の初期には成立していたと言われ、筑摩郡から独立したものという。
ちなみに「級」は「科」と書くこともあり、地理的には「科」は段差などを意味するものという。
信濃の別の書き方の「科野」や「立科」、「蓼科」、「倉科」、「保科」及び千曲川を境に更級郡に隣接する千曲川東岸の「埴科(はにしな)郡」にもこの字の意味が込められている。

その更級郡の名が付いた神社が千曲市の「佐良志奈神社」。
広さは100m四方ほど。
あの戦国復元城郭、「荒砥城」の北東側の山裾にあり、東に千曲川が流れ、そこにかかる大正橋を渡れば、国道18号線、そして「しなの鉄道」(旧信越本線)「戸倉駅」である。
正確な創建年代は伝承では433年頃といわれているが、これは信じることはできない。
仁徳天皇の皇子、允恭(いんぎょう)天皇が命じて建てさせたともいわれている。


平安時代に成立した延喜式では、延喜式内神社は当時の更級郡11社中の一社であったことが確認できるので、伝承はともかく、この時代まで成立が遡ることはできる。
しかし、宝徳2年(1450)に本殿が火災に合い、古文書等が焼失してしまいそれ以前の歴史が辿れない。

作家、志賀直哉は戸倉上山田温泉に逗留していたことがあり、小説「豊年蟲」(豊年蟲=オオシロカゲロウ  大量発生した年は豊年になるとされる。志賀直哉は千曲川の河畔で見たらしい。) にもこの神社が登場する。
石造の社標の文字は佐久間象山の手という。

南北朝時代、正平年中(1346〜1370)後醍醐天皇の皇子、宗良親王が信濃に逃れた時に暫時御所とした場所という。



確かに西側の神社鳥居↑付近と北側にかなり風化しているが、土塁と堀が確認できるのである。
宗良親王暫時御所説は納得性があるものである。
南北朝時代の館とすれば風化度はこんなものだろう。
南の山にある八王子山砦が詰めの城だった可能性がある。

しかし、実際、来てみると神社境内の森は立派であるが、山の北側山麓にあり、山影になり日あたりが悪い場所である。
どこかジメジメしているような感じである。
それに千曲川がすぐ東を流れ、この場所では水害にあう恐れもあるのだが。
(これだけ立派な森になっているので、その心配はなかったのかも知れないが。)