若槻山城(長野市大字若槻東条)
長野市北部、善光寺の北東側にある三登山山塊にある城である。この山塊の北東端の独立峰が髻山城である。
若槻山城は山の頂上にあるわけではなく、尾根の途中にあるので麓からは確認しにくい。
左の写真は南の山麓から見た城址である。 中央一番上の尖った部分が、番所。 その下が本城、さらに下の常緑樹の林が堂沢出城である。 鎌倉時代初期、若槻頼隆が築城したという。若槻氏の本拠は麓、現在の若槻団地内にあった若槻里城であるが、その詰の城として築城されたものである。 若槻頼隆の父義隆は源義家の七男というので源氏の直系である。 義隆は、頼朝の父義朝に従い平治の乱に参戦、身代わりとなって討死したという。 子の頼隆は従五位下の位を持ち伊豆守と称し頼朝と行動を共にしていたようである。 |
鎌倉時代初期に御家人として相模国毛利庄よりここ若槻庄の地頭職として移り、地名を取って若槻氏を名乗ったという。
室町時代には、高梨氏に従い、以後、高梨氏と行動を共にする。
信濃の戦国時代は早く到来し、応永11年(1404)、信濃守護代細川慈忠の赴任に、若槻氏を含む高梨氏一派が反抗、この時、若槻山城は攻撃を受けて落城したという。
本格的な戦国時代に入ると信濃は武田氏の侵略に晒され、上杉方に付いた高梨氏と若槻氏は行動を共にする。
このため、若槻山城は近隣の髻山城や葛山城などとともに川中島北部の山岳城砦群の1つとして上杉氏によって整備されたという。
弘治3年(1557)の第3回川中島合戦の野戦である上野原の戦いは、若槻山城と髻山城の麓一帯で展開されたという。
おそらく若槻山城には上杉軍の部隊がいたものと思われる。 |
登り始めると尾根沿いに堀@や曲輪Aが現れる。当然、本城の一部の遺構である。
本城部分は落葉樹に覆われており、秋になると落葉して良く見渡すことができる。
遊歩道を登っていくと本郭部の切岸Bがあり、五郭Cに出る。
本城は本郭から東の尾根に段差5から10m間隔で5段の曲輪を展開させる。
いずれの曲輪も30m四方はある。上の三郭からは土塁が確認できる。
二郭Dは西側の本郭側を除き3方に高さ1mほどの土塁が巡る。
本郭Eは50m×20mほどの広さであり土塁が1周する。特に北側は櫓台があったのか4mほどの高さがある。
虎口は南に開き、その付近は石垣造りであったようである。
本郭の南側には数段の腰曲輪があり、竪堀Fが豪快に斜面を下る。
本郭の北側は深さ8mほどの堀切となっており、豪快な竪堀Gが下る。
その北に1本細い竪堀があり、曲輪があり、さらに1本豪快な竪堀Hが山を下る。
@本城末端部の堀切 | A本城末端部の曲輪 | B登って行くと主郭部の切岸が見える。 |
C主郭部一番下の五郭 | D二郭は土塁が覆う。 | E本郭内部。周囲を土塁が覆う。 |
F本郭から南に下る竪堀 | G本郭北の堀切 | H本郭北の3本目の堀 |
ここから登りの尾根となり、高度で100mほど上が番所である。 もちろん、本城の上の尾根筋を防御するための出城である。 直線連郭式に20m×10mほどの土塁で囲まれた2つの曲輪Iがあり、堀切Jがある。 北端は4本の堀切と竪堀で厳重に遮断される。
|
一方、林道から逆に尾根を250mほど下ると堂沢出城である。 ここは、2003年(平成15)6月、地元の小学生が若槻山城登山の帰り道に見つけたものという。 2段の曲輪からなり、特に北側の曲輪Kは60m四方もあり、平坦である。 その背後、北側には高さ3mの土塁Lがあり、さらに堀Mがある。
|
それより北側、本城側はただの山である。
この出城、出城というより、広さからいって住民の避難スペース、
または上杉軍の増援部隊が入る駐屯地ではなかったかと思う。
若槻里城(長野市大字若槻東条)
若槻山城の里城がこの若槻里城である。単に若槻城ともいう。
山城が完全な状態で残るのに対して里城は若槻団地となって湮滅してしまっている。
長野市立北部中学校の東側一帯、駒沢川と徳間池に挟まれた範囲が城址という。
山城からは1.5qほど南に位置し、標高は400m。
駒沢川の扇状地にあり、駒沢川とその支流が谷津状となり、その間に挟まれた半島状の丘を城としている。
東西に2つの曲輪が並び東西400m、南北300mほどの規模であったらしい。
鳥瞰図は日本城郭大系掲載図から再現したものである。
航空写真は国土地理院が昭和51年に撮影したもの。
右下に徳間池、左上に里城池が見える。
右の写真は南側の徳間池から見た本郭部分(右側)であるが、そこにはすでに完全に住宅が立ち並んでいる状態であり、遺構はない。
駒沢城(長野市上駒沢)
JR信越本線三才駅から県道372号線を南に600m、諏訪神社付近が城址という。 しかし、城の遺構はない。 すぐ南に浅川が流れる。 この川はかなりの土砂運搬能力が高い暴れ川であり、洪水も多かったらしい。 おそらく何度かの洪水で遺構が流失または埋没してしまった可能性が考えられる。 駒沢氏の城であり、天文3年(1534年)に城主、駒沢刑部が村上義国に討たれたというので、川中島合戦以前の城のようである。 |
三日城(長野市(旧豊野町)石)
JR豊野駅の西1.2q、豊野西小西側の穂長神社西側付近を東端としたその西側の山が城址である。 髻山城からは南東に1.8km、東は千曲川が良く見える。 上杉謙信が川中島への前衛拠点のために髻山城を築いた際、完成するまでの間、家臣の甘粕近江守に命じて、わずか三日で築かせたと伝わる。 三日城跡近くの丘陵には、川中島の戦いの際に上杉勢が旗を立て並べたといういくつもの旗塚が残っており、善光寺平への備えと考えられている。 地元の伝承ではここを占領した武田軍も使用したという。 写真に示すように神社付近が切岸状になっているが、その北東側の部分は一面のりんご畑になっている。 いずれにせよ一時的に使用した陣城のようなものであろう。 なお、豊野町誌によると三日城の西側近くに石村城(城主下村氏)というのもあったと言い、「殿屋敷」という字名が残っているという。 |
大峰城(長野市長野)
善光寺の北側の山の上にある城。 本郭に典型的なあやしい城が建つ。 標高は828m、麓の善光寺付近からの比高は400mを越える。 当然ながらこの模擬天守、大峰城とは何の関係もない観光用のものである。 この模擬天守は、昭和37年に築かれたものであるが、当時、長野市街から戸隠に通じる有料道路がこの山の東から北側を通っており、そこを通行する観光客を目当てにして造ったものである。 右の写真は葛山城から見た大峰山である。 |
造った当時は眺望も良く客は多かった。 しかし、東側の地附山で大規模な地すべりが起き、有料道路が寸断される。 その後は、西側の通称、七曲の道が戸隠へのメイン道路になった。 このため、大峰城はルートから外れ、訪れる者も少なくなり、衰退の一途をたどっている。 久しぶりに来たが、客は誰もいない。 しかし、結構な遺構は残っており、ここまで車で来れるのはありがたい。 例の模擬天守は本郭に建ており、遺構はかなり破壊されている。 記録によると、本郭は周囲を土塁で囲まれた50m四方程度の大きさであったという。 駐車場を作るためどの程度改変を受けているのかはわからない。 |
模擬天守の建つ西側の堀@は間違いなく本物である。 深さは8mは十分にある。 堀は竪堀になって斜面を下って行く。 駐車場を作ったため、南側は一部途切れている。総延長は250mほどある。 この西側が二郭であるが、中は二段になっている。 傾斜しており余り平坦ではない。広さは30m四方程度に過ぎない。 その西側に深さ4mの堀切Aがあり、やはり斜面は竪堀になる。 ここを越えると三郭である。 ここも内部は2段になっている。 35×30m程度の大きさである。西側には深さ5mの堀切に面し土塁Bがある。 前記の二本の堀同様、斜面は竪堀になる。 すごいのは北側に下りていく竪堀Cであり、3本の竪堀が1本に合流している。 三郭の西が城域の西端であるが、さらに西に郭がある。 ここは本郭部より少し高く、標高830m位ほどある。 ここに40m四方の周囲を土塁に囲まれた郭Dがある。 ここに配水池がある。西側、東側に横堀Eがある。 恐らく出城か物見に使っていたように思える。 |
さらに駐車場の南に前面に土塁を持つ曲輪Fがあり、堀切、曲輪、竪堀Gが見られる。
改めて見るとかなり見事な遺構が沢山残っている。
しかし、模擬天守や駐車場の地以外は管理されていなく、雑木林、笹藪である。
夏場はとても入る気にはなれない。
行くなら晩秋がベストである。(冬は道が閉鎖されてしまう。)
大峰城は葛山城の出城と言われているが、出城にしては大きな規模を有する。
横堀に近い竪堀が斜面を這い回る様は塩崎城と良く似ている。
城址から見た長野市内東部。 右上に井上城が見える。 |
@ 本郭西側の堀。 竪堀になって斜面を下る。 |
A 二郭と三郭間の堀。 |
B 三郭西側。 堀切に面して土塁がある。 |
C 三郭西側の堀は竪堀となって 斜面を下る。 |
D配水場がある西の郭。 周囲を土塁が囲む。 |
E 配水場がある西の郭下の堀。 | F 駐車場南下の曲輪は前面に 土塁を持つ |
G駐車場南の堀切と竪堀。 |
葛山城主落合備中守の家臣大峰蔵人の城とされているが、築城時期は明確ではない。
当初は小規模なものであったと思われる。
長野市史では配水地のある西の郭が当初の城ではなかったかと推定している。
この郭の周囲は傾斜が緩く、防御性に問題があったため、多少標高は低いが、周囲の傾斜が急な模擬天守の建つ地に主郭部を移したとしている。
これは上杉氏の支配時代のことであろう。
川中島合戦には名前は出てこなく、大峰城の演じた役割は不明である。
葛山城とペアで活躍したのであろう。
なお、北東約1kmに枡形城がある。
かつての戸隠有料道路を通れば簡単に行ける距離であるが、この道は閉鎖されてしまい、草茫々の廃道状態であったため攻城は断念した。