宮平城(長野市信更町宮平)
布施神社の南南西600mにある標高720mの山にある。
この付近には「須立城」がある。
須立城はこの地の土豪、布施氏の拠点城郭と言われる城である。
しかし、この城、とても拠点城郭とは思えない。
北を流れる犀川筋の水運と街道を山上から監視する程度の規模のものでしかなかった。
拠点城郭は別の場所ではないか?
との疑問を抱いた。
「須立城」からの帰路、居館推定地、布制神社前であった老人は「あの山にも城があるよ。」と言った。 ⇒ それが宮平(みやだいら)城であった。 なお、城には名前はなく、長野県の中世城郭にも記載されておらず、宮坂武雄氏の「信濃の山城と館」にも記載がない世間には知られていない城のようである。 その後、らんまる殿よりメールをいただいた。 その城が「長野県町村誌(北信編)」に「新山城」として記載されているという。まあ、その情報もあるが、 とりあえず、字名から「宮平城」と仮称する。 |
その山には布制神社前から宮平地区の宮平公民館を目指し、さらに南の山向こう桜井地区に向かう林道を走り、その峠となる標高680m付近に車を置き、尾根伝いに東に進むと行ける。
この尾根上には道はあるが、ほとんど藪に閉ざされつつあり、途中から笹が生い茂り、その中を掻き分けて進む。
どうも多少急であるが、南からも登れるようである。
ただ、比高が稼げるという理由のみで尾根を進んだに過ぎない。
笹を掻き分け進むと、ピークらしい場所Fに出る。 周囲に低い土塁があり、石の社がある。 すでに参拝する人もいないのか荒廃している。 ここが城か?とがっかりするが、南下を見ると堀切Gのようなものがある。 しかし、これは道の切通しのようでもある。 堀切を転用した可能性もある。 この地、出丸のようなものであり、主郭部はその東にあった。 笹の中を進むと前方に高さ8mほどもある土塁がある。 異様な光景である。 そこに行って見ると、裏側は深さ7m、幅12mほどもある堀@になっていた。 その東は曲輪になり、さらに堀Aがある。 ここを越えると、3段ほどの内部が傾斜した曲輪があり、土塁Bがある。 その途中、段差部分に堀が認められるが、かなり埋まっている。 最上端の曲輪は内部が平坦である。 土塁の東側が堀状Cになっているが、深くはない。箱堀状態である。 深さは4mほど、幅は8mほど。 この堀はどうも埋もれているような感じでもない。 この堀は南北の斜面部は竪堀となる。 |
@主郭部西端の堀 | A @の堀を越えると東側に堀がある。 | B本郭手前、西側の曲輪は本郭側に土塁がある。 |
C Bの土塁を越えると堀があるが、 箱堀状である。 |
D 本郭内部は2段になっている。 朽ちた社がある。 |
E本郭北下にある曲輪東の土塁、裏側は崖。 |
F城西側のこの場所は出丸か? | G Fの南下のこれは堀切?または切通し? |
この堀と越えると本郭Dである。南北50m、東西30mほど。
内部に社があるが崩壊している。もう、誰もここに来ないのだろう。それだけここは過疎の地である。
本郭内部は2段になっている。北側5m下に腰曲輪Eがある。
この腰曲輪の東に土塁間に開きがある。
しかし、その先は崖である。
もしかして東側は崩落してしまっている可能性がある。
以上がこの城の概要であるが、規模は明らかに「須立城」より大きい。
しかし、かなり古い感じもする。
規模からして布施氏の拠点城郭はこの城だろう。
その後、どのような使われ方をしたのか不明であるが、上尾城が主体的に使われたころには廃城になっていたのではないかと推測する。