立ヶ花城(中野市立ヶ花)
中野市の西にある立ヶ花丘陵の最南端にあり、高梨一族、草間氏の城と伝えられる。
千曲川の東の小高い山の突端にある城址には鉄塔が建つので場所は直ぐに分かるであろう。
下左の写真は千曲川の西岸、手子塚城から見た城址である。
下右の写真は昭和51年国土地理院撮影の航空写真である。千曲川と対岸の手子塚城との位置関係が分かると思う。
鉄塔が建つ場所が二郭である。その右側に本郭の盛り上がりが見える。千曲川が右下に写る。
城の西を千曲川が流れ、南側を篠井川が流れる。千曲川からの比高は40m。
南側、西側は崖面であるが、北側は丘陵続きである。主郭は15〜20m径ほどの大きさであり、南側に腰曲輪が2つある。
ここからの南側方面の眺めは抜群であり、天然の見張り台でもある。それとともに西下の千曲川の渡しも監視していたと思われる。
北東側に例の鉄塔が建つが、どうもここは鉄塔建設で拡張されているようであり、主郭側を半月状に堀が覆っていたようであるが、半分以上埋められているようである。
もともとは、この場所は土塁上の上のような細長い曲輪だったようである。
本郭(T)と二郭間の堀は竪堀となって南側及び西側の斜面を下っている。
鉄塔の建つ二郭(U)からは南側に竪土塁が下る。二郭の東側に堀があり、土塁が覆う。 この土塁も幅は広く曲輪であったようであり、ここが三郭(V)という。 この部分は主郭に対して二重堀のような構造になっていたようである。 この三郭の北東側は8mほど落差のある窪地になっており、窪地にはビニールハウスが建つが、この切岸は人工的である。 さらに三郭は東側に湾曲し、携帯電話の中継塔まで80mほど延びる。 一方、この堀の北側の出口は虎口状となり、西下に道が下る。 大手道は携帯電話の鉄塔側(草間氏の主城の草間城はこちら東側である。)と思われるが、この西下に下りる道は渡し場への道ではないかと思われる。 見た感じでは、この城は規模も小さく、物見用の城であろう。 |
城主と伝えられる草間氏は高梨氏の一族といわれ、大塔物語では高梨友尊(高梨朝高・薩摩守)に従い、草間大蔵が大塔合戦に出陣していることが書かれている。 草間氏は、はじめ大久保館にいたが、草間周辺が水が豊かで水田開発に有利であるため、応永年間(1394〜1427)草間次郎(草間信良・豊後守)が草間城に居館を移し、草間地区の西にあたるこの地に草間城の出城である立ヶ花城を築いたという。 戦国時代になると、この地も武田氏の侵略にさらされる。 草間氏は主家の高梨氏とともに戦い、この城でも合戦があったとも言われる。 |
@二郭から下る竪土塁と竪堀 | A 本郭内部 | B 本郭から見た南下の腰曲輪。 右に千曲川が見える。 |
C 二郭、三郭間の堀。 |
しかし、永禄2年(1559)ころには、武田氏に圧迫され、草間氏は高梨氏等とともに越後に逃れる。
その後の上杉氏の会津移封で一族の一部は会津に行き、上杉氏の家臣となったという。
江戸時代の草間氏の後裔である草間庄蔵が上杉氏の江戸番を勤めている記録もあるという。
また、越後に定住した一族もおり、上越市付近に子孫と推定される草間姓が多いという。
手子塚城(長野市豊野町蟹沢)
千曲川を挟んで立ヶ花城西の対岸の小丘陵を利用した城であるが、どうも元は古墳であったらしく、文化年間(1804〜17)諏訪社の社殿修復の際に地中から古墳の石室の天井石と推定される大石が発見されたと言うので古墳を城に転用したものらしい。 千曲川からの比高は約30m。 立ヶ花城は目と鼻の先にある。 右の写真は千曲川(手前)の東の対岸、立ヶ花城の西下から撮影した城址である。 南北150m、東西100mほどの広さであり、3段ほどの段郭が残る。 最上階の20m四方の曲輪には諏訪神社が建つ。その下の曲輪の |
北側には土塁が残り、さらに北下に堀切跡がある。 西側との岡続きである西側にも堀があったようであるが、どうもJR飯山線の切通しが堀を拡張したものではないかと思われる。 南側の堀は良く分からない。 戦国時代、この地は島津氏の領土であり、その支城である大倉城の出城といわれる。 東側が千曲川の渡し場で、それを管理する城であったという。 また、千曲川対岸の高梨氏に備え、防御拠点として築いた城といわれる。 しかし、これは本当だろうか? 1つの渡しを異なる戦国大名が管理するものだろうか? そうとすれば、両者間に何らかの協定があったはずである。 果たしてそんなものは存在したのか? |
@ 本郭北下の曲輪先端に土塁 がある。 |
A 本郭に建つ諏訪神社社殿 | B 西を走るJR飯山線は堀を利用? |
内堀館(中野市上今井)
千曲川が立ヶ花の狭隘部に入った西岸、上今井橋の西側、上今井集落の南端部にある。 北側は佐藤病院という大きな病院があるのでそこを目指せは良いが、集落内の道が細く、車では難渋する。 館は現在は臼井氏の宅地となっているが、居住している感じはなかった。 嘉暦4年(1329)守矢文書に太田庄(上今井)に赤治(沼?)郷豊後太夫判官の名があり、この者の館であった可能性があるという。 いずれにせよ、戦国時代には存在していたようである。 江戸時代後期に飯山藩の本陣として利用されていたと言う。 55m×60mほどの方形で、北と東と西の三方に幅約10mの堀があり、水がある。 北と西に高さ約3mの土塁がある。南側には堀も土塁もないが、もともと存在していなかったらしい。 右の写真は昭和51年の国土地理院撮影の航空写真であるが、館の南に堀あとらしいものが見える。 千曲川が南側を流れていたためとも言う。(千曲川との距離がありすぎるが?) 千曲川岸に船着き場があり、河川水運に係わっていた可能性もある。 西側に臼井家の門があるが、ここはかつても大手門であったようである。 外堀もあったとも言うので、本来は、南方向以外にはコの字形に堀があったようである。 航空写真に写る館東西の南北に走る道路が堀跡のようにも見える。 |
館西側の堀 | 館南西端の土塁 | 臼井家の門、多分当時もこの位置が大手だろう。 |
牛出館(中野市牛出)
立ヶ花橋の北400m、西に千曲川を望む河岸段丘上にあり、現在はりんご畑である。 |