須坂の城2

米子城(西の城、宇坪城、東の城)(須坂市塩野西山/米子)
須坂駅の南東約5q、菅平方面に通じる国道406号線(大笹街道)を西に臨む、米子川と灰野川に挟まれた東から西に張り出した尾根の3つのピークが城である。
と言っても、そのピークは岩山であり、平場はあるが、ほんの少しの兵しか置けない。
長期の籠城も困難である。精々、少人数が短期間の籠城するなら使える程度のものである。
一時的避難場所としてなら使える。
しかし、ここに立て籠もっても包囲されたら脱出も難しいように思える。

↑ Tが西の城、Uが宇坪城、Vが東の城、城間は岩の尾根で繋がる。
もっとも攻める方もこんな岩山を攻めるのは容易ではない。
ヘタに攻めたら、投石を受け、死傷者が続出するであろう。
それほど登りにくい。
時間的余裕があるのなら包囲していれば水と食料が枯渇し、自落、降伏するのは確実である。

西の城(629m、36.6247、138.3386)、宇坪城(649m、36.6239、138.3409)東の城(703m、36.6255、138.3462)の3城からなる。
それぞれの城は約250m、600m離れている。
ほぼ独立していると言ってよいだろう。

南から見た西の城 南から見た宇坪城(蓑堂城ともいう。) 南から見た東の城

南北朝期の城と言われる。
観応3年(1352)足利兄弟尊氏、直義の争い「観応の擾乱」で尊氏方の小笠原、高梨氏がこの米子城に立てこもり、直義方の祢津、井上氏が攻撃したと伝わる米子城の戦いの舞台という。
この時の城がここの可能性がある。
戦国時代には、この地の土豪須田氏が菅平方面から下る大笹街道を見張る城として使ったのではないかと思われる。

2022年11月、この城の攻略に臨んだ。
宇坪城の山頂には蓑堂観音があるのだが、崖崩れで道が使えない。
このため、宇坪城と東の城間と結ぶ尾根に出ることを考えた。
国土地理院の地図を見れば道が描かれているのである。

↑プチ遭難現場を南下から見る。左のピークが宇坪城、その手前(右側)で進退窮まる。
そこで「みのどうトンネル」の入り口から急坂をよじ登り尾根に出て、尾根沿いに攻略することを考えた。
苦労してよじ登った急坂、上の尾根に出てみると・・・道なんかない!

岩が尾根上に林立しているだけ。
とりあえず岩を乗り越え、乗り越えして宇坪城側に進んでみる。
斜面は崖である。そして、行き詰まった。

尾根上、どこに道があるんだ!両側は崖である。 尾根上から見た南方向、この先は菅平高原である。

管理人の登山能力では無理だ。
おまけに高所恐怖症と来ている。
足がガクガク、進退窮まる。
岩上に座り込んだ。プチ遭難である。

そこからの景色は悲しいほどの絶景である。
ここで119番したら・・・・そんな考えも頭をよぎる。

何とかリックの中に入れていたザイルをたらし下まで降りる。
こんな岩だらけ、周囲は崖の尾根上に道なんかある訳がない。
多分、ここは修験者の修行の場であり、城とされる岩山は「行場」(ぎょうば)というものなのであろう。
その修験者の本拠が東にある米子不動尊であろう。

結局、攻略は叶わなかった。
もっとも、地元信州の猛者も撃退されたというので管理人が断念したとしても不思議ではない。
仕方ないので遠景のみ。
多分、頂上部は岩の上、取り立ててこれと言ったものはなさそうではある。

米子不動尊(須坂市米子)36.6126、138.3580
瀧山不動寺が正式名称、米子城の南東約2.5q、米子川の上流にある真言宗豊山派の寺院で、日本三大不動尊の一つという。標高は694m。
本尊は上杉謙信が寄贈した不動明王で須坂市指定文化財になっている。

通称、米子不動尊といわれているこの寺院は里堂であり、本堂はここから12q山に入った場所にある不動滝と権現滝の間にある。
この場所の位置は36.5684、138.4060、標高は1412m。2つの滝は根子岳(2207)と四阿山(2333)から北に流れ出る米子川が形成したものである。
なお、根子岳の西に広がる山麓が菅平高原である。

滝は国指定名勝に指定され、本堂は須坂市指定有形文化財になっている。
滝は落差100mを超える豪快なもので、NHKの大河ドラマ「真田丸」のオープニングに登場する。
(滝の上に城が描かれていたが、あれはCGである。城なんかある訳ない。)
ここには管理人も小学生の時に行ったことがある。
修験者はその滝に打たれる修行をしたという。

寺の開山は養老2年(718)白山信仰を確立した泰澄大師の1番弟子で修験道僧の浄定(きよさだ)という。しかし、これは伝説の域を出ないであろう。
でも、これからして修験の寺である。
開基は仏教の民間布教に尽力し、奈良東大寺に深く関与した僧の行基という。
しかし、中世前期にはかなり廃れていたようである。

この寺を中興したのが、あの上杉謙信である。
謙信は上洛した時、13代将軍足利義輝より関東管領職に補任された際、足利将軍家に伝わる念持仏の不動明王を拝領し、念持仏とした。
この仏像は永禄4年の第4次川中島合戦の際に、本陣に祀り士気を高めたと言われる。
その不動明王立像が、本尊である。

全国各地から参詣者が訪れる祈願寺であり、宿泊用の寮が建っている。
なお、住職は真田家の系統の者とのことで、寺には六文銭が掲げられている。
そういえば、ここの南が菅平、その南が真田の谷だった。
真田の忍者といわれる猿飛は四阿山で修行したともいう。
四阿山から流れ落ちる滝が不動滝、権現滝である。
何らかの関係が想定される。(Wikipedia等を参考にした。)

大岩城(須坂市日滝本郷)

大岩城(須坂市本郷/高山村高井)須坂市と高山村の境にある明覚山から北に派生する尾根上にある尾根式城郭である。
城の標高は677m。比高は260mほどである。

西の山麓にある蓮生寺が須田氏館跡であり、ここから登れるということで登ってみる。
まず、北東側に延びる尾根を行き尾根の先端部に出ると、そこが平坦になっている。

これが城郭遺構であるかどうか不明であるが、そこから北に派生した尾根筋にも数段の平坦地がありこれは曲輪のようである。
尾根を東に向かうが、巨大な岩が数箇所尾根を塞ぎ、天然の塁壁になっている。
岩の上には「かもしか」がいてじっとこちらを観察していたが、飽きたようで山を下っていった。
熊でなくてよかった。

最後の岩場を越えれば城域であるが、周囲は崖であり、ロープ等の準備がなく、体調も不良であったためここで断念した。
いずれ再挑戦を期したい。
巨大な岩が林立しているので大岩城というのだそうであり、石垣もあるらしい。

建久4年(1193)にこの地に入った須田氏が築城したという。麓の須田館のつめの城である。
ここの須田氏が大岩須田氏であり、武田氏により越後に追われた一族である。
その一族からは須田満親が出ており、上杉氏家臣として活躍するとともに本能寺の変後、この地方が上杉氏に占領されると最高司令官としてようやく故郷に復帰を果たしている。
しかし、その頃には大岩城は機能を停止していたらしい。

北から見た大岩城。 北に延びる尾根筋には
曲輪が5段段々になっている。
主郭部手前に立ちはだかる大岩。 この岩の両側は崖。
装備不足でどうしても通過できず
撤退の羽目に・・残念

須田氏館 (須坂市日滝本郷)

大岩城の西の山麓にある蓮生寺が須田氏宗家の居館跡。
境内が段々状になっており、本堂付近が居館であったらしい。
背後の大岩城がある山側に段々状の曲輪があり、蔵があったという。
この寺の山門が味があって素晴らしい。
2008年11月24日、4年ぶりに大岩城の攻略を試みる。
今回は蓮生寺の墓地から登るルートを行く。この道を行くが、途中で道は途切れる。
須田氏館跡、蓮生寺山門 居館は本堂の場所であったらしい。

それほどの藪ではないのでそのまま直攀。ところが、20mほど先を黒い獣が猛スピードで走っていくではないか。
足が長い動物であることを願い注視するが、短足でずんぐりむっくりの100s超級の大物。
奴は途中で止まって、こっちを見ている。こんなんでまた大岩城攻略は断念。この城、鬼門!