井上城(小城、大城、井上氏館)(須坂市井上)
上信越自動車道須坂インターチェンジの東側に平地側に張り出す山がある。 県指定の天然記念物である井上溶岩からなる山であり、この山に井上城がある。 城は大城と小城の2つからなる。一城別郭構造という複合城砦であり、屋代城、丸子城と全く同じ構造である。 さらに北の山麓に館跡があり、館を山上の城が守るこの地方に多く見られる根小屋形式である。 なお、館の東の山上には竹ノ城があり、ここも城砦群に含まれる。 右の写真は城への登り道から見た主郭部であり、左が大城であり、切岸が写っている。 左が小城である。 その間の鞍部には3重堀切がある。 |
城へは尾根の北西側の先端部から遊歩道がついており、そこを登って行けば、迷うことなく城址に到達できる。
しかし、この道は岩がゴロゴロしており歩きにくい。
気温30℃を越える真夏にここに登ったが、この行為は完全に気違い沙汰である。
25分ほどで小城に至るが、小城の標高は507m、麓が340mであるので比高は170mある。
途中、標高380m地点に物見のような40m×15m程度のかなり広い平坦地があり、小城までの間にも3つほどの物見のような場所がある。
小城は城といっても小さな4つの曲輪を並べただけのものであり、延長50m、本郭部も12m径に過ぎない。
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尾根北端部にある平坦地。物見台であ ろう。 |
小城の本郭の東側。 | 小城の本郭。結構凹凸がある。 |
小城、大城間の鞍部にある3重堀切。 | 大城本郭下の帯曲輪。土塁を持つ。 | 大城本郭から見た須坂IC. |
大城本郭。 | 大城の東にある堀切。 | 北側の麓にある館跡。説明板の裏は堀 跡。 |
以上が城の概要であるが、印象としては古風な尾根式城郭であり、戦国後期の城郭のような技巧的な要素は少ない。 井上氏館が危機に直面した場合の避難城としての役目が主体で、城主の井上氏が越後に亡命した後の川中島の戦い頃には、砦程度の役目はあったと思うが、既に機能は終え、整備は余りなされていなかったようである。 その井上氏館は、大城の真北の麓にある。 現在は宅地及び果樹園であるが、100m四方の大きさを持ち、鬼門に当る南西角を欠く。 土塁と水堀が周囲を巡っていたという。 南側の堀跡が明確に残っている。 平安時代から戦国時代までの約400年間にわたり、井上氏が一環して拠点としていた場所である。 須坂市史によると、清和源氏多田満仲の子源頼信が、長元元年(1028)下総で起きた平忠常の乱の恩賞として信濃高井郡を得、二男の頼季が嫡男満実とともに長久年間、高井郡井上に来て、地名を採って井上氏を起こしたという。井上氏からはさらに米持、高梨、須田氏らが分流している。 前九年の役(1056〜62)では頼季、満実も出陣した。 |
役後に三男盛光が高井郡高梨に移り高梨氏を起こしている。 井上氏は井上郷を中心に鮎川流域の支配を確立したが、源平の戦いに巻き込まれる源氏である井上氏は、平氏系統の越後城氏と戦うが破れ、義仲により平氏方を破る。 横田河原の戦いでは井上光盛が大活躍し、城資茂を破っている。 この模様は『平家物語』にも記述されている。 その後の井上氏は、義仲の没落や頼朝との軋轢に伴い勢力が減退し、このため、一族のなかで仏門に入る者も多くなった。 京都南禅寺開山の無関普門をはじめ、規庵祖円、玉山玄提、一向宗の常陸国稲田で親鸞の弟子となり磯部に勝願寺を開いた善性などが井上氏の出身である。 |
室町末期から戦国時代にかけて、井上氏は綿内井上氏等を出すが、成長は抑えられ、同属の須田氏や高梨氏との抗争に翻弄される。
この間に武田信玄の侵攻を迎えてしまう。この時の井上氏の行動は始めは村上氏に付くが、須田氏同様内部分裂し、綿内井上氏は武田方に付き、本家筋は越後への亡命を余儀なくされる。
川中島の戦いでは上杉方の先陣には井上昌満の名が見える。
天正10年(1582)武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺で倒れると川中島地方は上杉氏に占領され、井上満達はようやく故郷への復帰を果たすが、上杉景勝の会津移封に従って井上を去り、米沢で続いていく。
なお、安芸毛利氏に仕えて横暴を究めた井上氏や、播磨の井上氏なども井上氏の分流という。
竹の城(須坂市井上)
井上城の東にあり、井上城とともに井上氏の館があった今の井上の集落を守るための城である。
城は南から張り出した尾根にある標高544mのピーク部付近、300mほどに渡って築かれている。
この山はそれほど高くは見えないのであるが、井上の集落の標高が346mと言うので200m近い比高があることになる。
山は南北に長い尾根上であるが、南側は井上の集落まで扇状地のような斜面となっているため、余り比高は感じられない。 一方、東側は鮎川が流れ、結構急斜面である。 城へは先端部から登り道が付いているが、瓦礫で結構、急であるため歩きにくい。 城郭遺構は先端から水平距離で500m先からであるので、その間には取り立てて遺構らしいものはない。 山頂部までは時には急に時には平坦な道が続く。 主郭部の北側は以外と遺構は大したことはない。 最初の城郭遺構である堀切が現れて50mほどで主郭部である。 その間の高度差は25m程度に過ぎず、堀切が2つあるだけである。 主郭部直下の堀切が比較的大きいがそれでも主郭側から深さ5m、幅9mに過ぎない。 |
主郭である曲輪Tは東西15m、南北25mの大きさであり、内部はフラットである。南側には土塁が覆う。 南下5mに幅9mの曲輪Uがあり、さらにその下7mに幅10mの曲輪Vがある。 曲輪Vは西側まで覆うように延びている。切岸は岩だらけであり、この城も岩山を城としている。この点では春山城に良く似ている。 その南側はだらだらした下りで不明瞭な曲輪が3つある。 30mほど行くとお決まりの大堀切である。 幅9m、深さ4mほど。さらに55m南に行くと、この城最大の見所、幅30mに及ぶ三重堀切となる。 堀はそれほど深くはないが、西側斜面の勾配が緩くなるため、西側は横堀状になる。 さらに南の鉄塔の建つ場所にもう1本の堀切がある。 都合ここまで曲輪Tからは高度差で40mである。 |
小坂神社から見た竹ノ城。 | 本郭北の岩剥き出しの堀切。 | 本郭内部は平坦である。 | 本郭南下の曲輪Uから本郭を見る。 |
曲輪Vは主郭部を南から西に覆う。 | 曲輪Vから南に下ると大堀切が。 | 堀切の堀底。 | 三重堀切の堀は横堀状である。 |
この城は解説板にもあったように井上城よりははるかに優れている感じであり、遺構も明瞭である。
時代的には井上城よりは後で築かれたものではないだろうか。
尾根伝いの南側の防御が厳重な割に尾根先端部の防備は貧弱である。
尾根先端部はもしかしたら住民の避難スペースかもしれない。
小原神社館(須坂市井上)
上信越自動車道「須坂長野東IC」の東約600m、井上城の北下、井上地区にある「小坂神社」が館跡である。
70m×50mほどの台形に近い方形をしており、周囲を高さ2mの土塁が一周する。
井上氏館がある場所からは若干地勢が低く、居館を置くには疑問がある。
武装寺院のように城砦を兼ねた寺院や館跡に寺や神社が建てられたり、移転してきたりすることが多いというが、ここは始めから神社であったらしい。
武装神社ということになるが、非常に珍しいらしい。
すぐ北に井上氏館がある。
南の山にある井上城に行くにはここを通り、南の安養寺の裏から登るのが最短距離である。
おそらく井上城の大手曲輪兼祈願所的な役割があったのではないかと思う。
(宮坂武雄「信濃の山城と館」を参考にした。)
神社東側の土塁 | 境内は地勢が少し低い。 |
須田城(須坂市臥竜)
信濃源氏井上氏の一族、須田氏の城。須坂市市街地の東部、臥竜山の南の山が城址。
城に行くには臥竜公園を目指せば迷うことはない。
臥竜公園の一部であるため、整備された遊歩道が付いており、時期に関係なく訪れることが可能である。
臥竜山は扇状地内に独立した双子の山であり、比高は60m程度である。
城は2つある山のうち、南側の山全体である。
南側の山に城を築いたのは、南側に百々川が流れ、この川が天然の水堀として用いることができることによるものと思われる。
城は非常に古風でこじんまりとしたもので、城域は一辺200mの三角形の領域に収まる程度のものである。 |
須田氏については須坂市史に詳しく記載されている。
その記述を要約すると以下のとおりである。
井上氏から分家した一族と言われ、文献に登場するのは、源平戦い後に御家人となった者の中に須田小太夫という名が見られるのが最初である。
須田氏の領土は井上郷の北、現在の須坂市の中心外、須田郷ある。須田を名字は須坂から採ったものと思われる。
おそらくは須坂の扇状地を農地開発するための開発主体として入植したことが始めであろう。
須田氏の最初の根拠地は旧小山村であったらしいが、根拠とした場所は分からない。
その後、大岩郷(須坂市と高山村の境付近)の開発にも係わっていたようであり、その旨は『諏訪上社大社文書』に記録が残る。
その根拠地は大岩郷大谷の鎌田山と言われる。
臥竜公園から見た城址。 | 本郭西の堀切。 | 本郭北下の帯曲輪。前面に土塁を持つ。 |
本郭内部。 | 本郭北下の帯曲輪内。 | 鞍部にある堀田氏廟。郭跡であろう。 |
戦国時代になると、本家筋の井上氏とも争うようになり、一族内も大岩郷と須田郷に分裂して対立するようになる。
戦国時代はどこの家中にも争いが置き、近隣土豪間の対立も激化する。
このため、各土豪はより大きな勢力に従属することで、領域支配の安定をめざした。
この地方においては村上氏が最大勢力であり、必然的に村上氏が周辺の国人層を束ねることになる。
それは結果としては戦国大名化につながる。
しかし、信濃は各盆地が1つの国に近く、各盆地ごとに中心的な勢力が存在するが、国としてまとまる段階には至らないという地理的な宿命を負う。
その中でも小笠原氏と村上氏はニ代勢力であった。
既にこのころ、隣国甲斐では武田信虎が国内統一し、国外への進出を開始する。
のちの「武田信玄」となる晴信の時代には、信濃にその矛先が向けられる。
中小の大名しかいない信濃は格好の草刈場であり、まず、天文11年(1542)、諏訪頼重を滅ぼし、次いで高遠氏等も滅ぼされた。
佐久地方への侵攻が始まると当然、村上氏と戦うこととなる。
村上氏は小笠原氏と連携し、天文17年上田原で、次いで戸石城で武田氏を2度にわたって破るが、小笠原氏が没落し、連携できなくなった村上氏も武田氏の諜略等により越後に亡命することになる。
須田氏は当然、村上氏に従って武田氏と戦うが、武田氏の謀略の手は須田氏にも延び、須田氏も武田方と村上方に分裂した。
もともと須田氏は2系統に分裂する要素があったので須田郷の須田氏は武田方に、大岩郷の須田氏が村上方に付いた。
村上氏の没落は大岩須田氏の没落も招き、大岩須田氏も村上氏と越後に亡命した。
ここから始まるのが、川中島の戦いであり、常に上杉(長尾)の先方に信濃を追われた、村上義清・高梨政頼・井上昌満・須田満親・島津忠直子の名が見える。
しかし、北信濃は武田の手に落ち、彼らは越後で亡命生活を余儀なくされる。
一方、武田氏の使えた者は武田氏の領国支配体制に組み込まれていった。
この一族、2分策は後の真田氏同様、一族存続のための小土豪乱立状態の信濃の土豪に共通の暗黙の了解のもとの本能的な行動であったのかもしれない。
上杉氏に属した須田の棟梁は須田満親である。
しかし、彼は単なる亡命者ではなかった優秀な人材であり、上杉軍の越中攻略の先陣をにない越中の最高指揮官を務め、天正9年(1581)から11年までの間、越中にあって松倉、魚津城の防衛と羽柴秀吉との交渉に知略を巡らし、松倉城の撤退戦を指揮するなど、武勇と知略に優れた武将でもあった。
彼の故郷、北信濃は武田氏の滅亡、次いで本能寺の変により、上杉氏の手に落ち、須田満親を始め村上氏、高梨氏らは思わず故郷に復帰することになる。
この時、武田氏に属した一族はどうしたのだろうか?
須田満親は、天正13年(1585)六月から海津城に任命され、上杉景勝より北信濃四郡を統括し、検断権を含めた幅広い権限を委譲された。
海津城での知行高は12000石であり、上杉家中信州侍衆の筆頭となる。
第1次上田合戦で真田軍の支援に赴いた上杉軍は海津城の須田満親の率いる部隊である。
満親は海津城で死去し、次男長義が後を継ぐ。しかし、慶長3年(1598)の上杉景勝の会津移封に同行しこの地を去る。
須田長義は陸奥梁川城で20000石の知行を得、関ヶ原の戦いに伴う伊達政宗の上杉領侵攻では伊達軍を破る活躍をするが、西軍の敗戦に伴う上杉氏の米沢への減封に須田氏も同行し、米沢に移住、上杉氏家中にあっても重職を勤めている。
以上の須田氏の歴史を見ると、須田城は武田系に属した須田氏の城であったと思われる。
城も古風であり、規模も小さい。近隣の替佐城、壁田城、髻山城のような新規性もない。
川中島の戦いに際して強化された感じも受けない。
おそらく、北信濃が武田氏の手に落ちた段階で廃城状態になったのではないだろうか。
福島城(須坂市福島)
「ふくしま」ではなく「ふくじま」と読むそうである。
上信越自動車道「須坂長野東IC」から千曲川を渡り西の長野市内に向かう「屋島橋」の北東にある旧道である北国街道県道347号線沿いの「福島宿」の東側にあった。
「あった。」という表現、非常に微妙な言い方であるが、普通、城址には何らかの痕跡はある。
この付近が城址らしいが・・・。正面の山が春山城。
しかし、ここは痕跡さえもあやふや。そこはりんご園と水田、ちょっと微高地であるリンゴ園が曲輪跡で水田が堀跡かなあという程度しか分からない。
おそらく千曲川の氾濫で遺構は削りとられたり、埋もれてしまったのであろう。
これは下流にある長沼城と同じである。規模、構造、範囲は今では分からないが南北に長い長方形をしており、20ヘクタールほどの規模で湿地(泥田)に囲まれていたと思われる。
何しろ西を流れる千曲川の水面と標高が同じである。
今は立派な堤防があるので問題ないだろうが、当時は堤防などなく常に洪水のリスクに晒されていたのであろう。
そのようなリスクがある場所に城館を築くメリットは千曲川の水運の他、考えられない。
須田氏の城として築かれたが武田氏の侵略で須田氏総領家は越後に逃れ、武田氏に従った須田氏が管理し、海津城の支城として対岸の長沼城とともに使われた。
千曲川の水運を利用して兵と物資を輸送し、さらに北の上杉の勢力範囲を侵略するための拠点の1つであったのであろう。
武田氏が滅亡し、さらに本能寺の変後、森氏が退去、上杉領になると、城主の須田氏は謀反を起こし滅亡、廃城になったという。
城の存続していた年数は30年ほどと短いが、現実には洪水による修復コストが嵩んだことと、既に軍勢を侵略のために北上させる必要性がなくなり、長沼城に機能が統合されたため廃城になったのではないかと思われる。
(宮坂武雄「信濃の山城と館」を参考にした。