長野盆地の平地城館

 長野盆地周辺には、戦国時代以前から中小の土豪の城があり、さらに川中島合戦に係り多くの城館が築かれる.
そのほとんどは盆地を見下ろす山の尾根にあり、完全な平地にある城は少ない。
 海津城はその平城の代表的なものであるが、3方を山に囲まれた地に立地し、周囲の山城と連携して防御を行う城であるため性格は若干異なる。
 山近くの扇状地に立地する井上氏館や高梨氏館も山城と連携する性格は同じである。
 ここでは、山城と連携しない長野盆地内の完全な平地に立地するいくつかの城郭を紹介する。
 いずれも川中島の合戦等で重要な役割を演じた城であるが、市街化に晒され易い場所にあるため、ほとんど姿を留めないものが多い。

長沼城(長野市穂保)
2019年10月12日台風19号が東日本を直撃し、大雨により各地で大きな被害が出た。
その中でも映像が一番流れたのが千曲川の堤防の決壊である。その場所がこの長沼城があった長野市穂保地区である。
・・と言うより、長沼城のあった場所が決壊したのである。
以下の写真で示す場所は、泥に埋まり、城址に植えられたりんごにも大きな被害が生じたものと思われお見舞いの言葉も見つからない。
せめて、お見舞いを兼ねてこの地の文化財、長沼城をアップ。
この城も結局は洪水で維持できずに廃城になったものと思われます。では。


長沼城は川中島合戦とも登場し、多くの文献にも記載される知名度のある城であるが、ほとんど湮滅状態である。
以前行った時は千曲川の堤防から見下ろした一面のりんご畑を見て、ため息をついて帰ってきただけである。

しかし、近年、地元によりある程度、縄張が復元された。

長野市と須坂市の境界を千曲川が流れ、村山橋がある。
その長野市側の橋から北に約1q、千曲川堤防を走る。
何とその堤防の下と河川敷が本郭なのである。
これって古河城と同じパターンである。

↑城の東を流れる千曲川。写真は5kmほど上流の落合橋付近。
この付近でも十分に船が運航できる大河であり、水運が盛んであったと思われる。
上流に海津城がある。大雨時には暴れ川に変貌する。堤防間は1qくらいある。
現在は近代堤防が築かれているが、それでも決壊してしまった。
堤防も満足になかった当時は洪水に悩まされたことは想像に難くない。


堤防上に立ち、河川敷や西に広がるりんご畑を見ても何の痕跡もない。
唯一の遺構である二郭南の土塁の一部Bが堤防下にあるだけである。

しかし、りんご畑に降りてみると微妙な窪みが各所にある。これが堀跡である。
その窪みを地形図に落とし込んでいくと、見事に古図と一致し、縄張が復元できたそうである。

おそらく窪みを掘れば、河川敷に消えた本郭を除いた城自体の復元が可能と思われる。
完全な平城であるが、何しろ横は千曲川であり、何回かの洪水を受け、また、千曲川の新堤防建設で城域の一部が河川敷となったため、ほとんど何も残っていない。
現在は住宅と果樹園が広がるばかりである。

北側の守田神社から南の貞心寺付近までが主郭部、さらにその外側、南側の勝念寺までの1.5qが総構であったという。
現在の長沼の集落内を走る道路(越後街道、県道368号線)も昔のままとのことである。

しかし、余りにのどかな田舎の田園風景である。
そんな大きな城の存在はとても信じられないというのが本音である。 
主郭部は千曲川を東の背に本郭を置き、西側に二郭を置く梯郭式であり、さらに二郭の中央部西側、北側、南側の3方に丸馬出を持つ武田流の城郭の姿である。
規模は主郭部が東西約200m、南北約300m、その外側を覆う総構を含めれば、東西約450m、南北約600mと推定される。


築城の時期は明確ではないが、信濃島津氏が南北朝時代にこの地に土着し、最初に築いた城といわれている。
千曲川の自然堤防上にあったものと思われる。

当時は堀と土塁で囲んだごく普通の単郭の方形館であったと思われる。
千曲川の河川敷と堤防になってしまった本郭の大きさが約100m四方であり、これがオリジナルな初期居館を引き継いでいるものと思われる。
この規模は海津城の本郭とほぼ同じであることも興味深い。
@本郭西側の堀跡。
千曲川の堤防がそのまま本郭土塁のあった場所。
A本郭東半分は千曲川の河川敷内。
奥に見える北東山は滝の入城、雁田城。小布施町方面。

左手に映る堤防の少し北側が決壊した。

立地も類似しており、洪水に悩まされた点も共通である。
東が千曲川が流れ、肥沃な地であり、穀倉地帯ということと水運による物資輸送のよるメリットが大きいこのがこの地に築城した最大の要因であろう。

しかし、大河、千曲川は洪水のリスクを持つ。
当時は現在のような近代堤防はなく、蛇行を繰り返していたため、流速が遅く水量も現在よりは多かったと思われる。
おそらくこの城は何度も洪水に見舞われ大きな損傷を受けたものと思われる。

廃城となった本来の理由も現在もほとんど遺構が残らないのは、人為的な破壊もあるが、洪水も要因であろう。
現在、現地を訪れても、埋没した堀跡は洪水によるものの可能性があることが見て取れる。

イラストは城址解説板の復元縄張図と現地調査により描いたものであるが、本郭部は堤防と河川敷になっている。
黄色の枠で囲った部分が2019.10.12に決壊した部分である。
当時も本郭の東側に外郭土塁があるが、これが千曲川の堤防の役目を果たしていたのであろうが、規模は小さくそれほどの性能はなかっただろう。

Bほぼ唯一の遺構と言われる南の馬出の土塁の一部 C貞心跡の堀跡。 D二郭(手前の畑)西側の堀跡が窪みとして残る。
E西三日月堀の跡 Fニ郭北側の堀跡の窪み。 G主郭部北の守田神社は微高地にあり、曲輪跡だろう。
守田神社は本来、東側の千曲川堤防内にあったと言う。

この写真の右手に位置する堤防が決壊した。

(↑の写真に写る畑や宅地は全て2019.10.12の台風19号による洪水で泥に埋まってしまった。)

武田氏の信濃侵略で島津氏が退去し、上杉氏の勢力が駆逐されると飯山方面への北進のための拠点城郭として、永禄11年(1568)までの間に数回にわたって馬場信春によって拡張整備される。
この時、二郭や3つの馬出が築かれたと思われる。

城代としては原与左衛門尉、市川等長(梅隠斎)の名が見え、守将として配置されたものと思われる。
この城を北進の拠点としたのは千曲川の水運により、短期間で大量の物資と兵員を船で送り込むことができるからに他ならない。

江戸時代の「長沼古城の図」によると東方を千曲川を天然の水堀とし、西南に城下町を包括する総構えであったことが分かる。
天正10年(1582)3月、武田氏が滅亡し織田家臣の森長可の持ち城となるが、本能寺の変後、上杉景勝が侵攻し、島津忠直が城主に復帰。
上杉氏の会津転封後は秀吉の蔵入地となった。

その後、関ヶ原合戦後、川中島藩13万6500石の領主となって海津城に入った森忠政の配下である各務元正、各務元峯親子の居城となった。
その後、松平直輝が海津城に入ると、その支城として山田長門守が城代として入った。
慶長8年(1603)忠輝が転封すると長沼藩1万8000石として佐久間氏が入城した。
しかし、元禄元年(1688)に佐久間氏が改易され廃城となる。
でも、実際は頻繁な洪水による城や城下が被害をこうむり、その修復などで財政破綻を招いたのが大きな要因ではなかったのだろうか。

信濃島津氏
島津氏と言えば、薩摩である。
しかし、その支族が信濃にいた。

遠く離れた地に知名度の高い武家の氏族がいるのは、奥州合戦や承久の変などの恩賞で領地を得、一族を派遣し根をおろしたことによる。
有名どころでは、甲斐武田氏から出た南部氏、若狭武田氏、安芸武田氏がいる。
中には相馬氏や伊達氏のように支族の方がメジャーになっている例も多い。

この信濃島津氏は承久の乱の恩賞として、島津忠久が承久3年(1221)5月8日に水内郡太田荘地頭職に補任され、一族を派遣したことに始まる。
しかし、土着したのは遅く、南北朝時代であったらしい。
長沼郷に本拠を置いた島津刑部少輔はそのひとりであると言われている。

その後、信濃島津氏がいくつかの史料に登場するようになる。
貞治4年/正平20年(1365)島津太郎国忠は守護小笠原長基と合戦う。
元中4年/嘉慶元年(1387)5月、室町幕府から任命された守護の斯波義種に抵抗する長沼(島津)太郎は村上頼国や高梨頼高、小笠原清順ら国人領主たちと平芝にあったとされる守護所を攻める。(漆田原合戦)
その戦いの延長先が大塔合戦である。

戦国時代前期には越後守護代長尾氏との親戚関係をバックに高梨氏が勢力を拡大し、島津氏の所領を圧迫し始める。
島津貞忠は井上氏や須田氏らとともに高梨氏と対立する。そんな土豪同士の抗争中に武田氏の侵略に直面する。
忠久以降、島津氏は長沼家と赤沼家に分かれるが両家は協力し、一貫として長尾氏(のち上杉氏)に従う。

しかし、拠点とした長沼城は武田氏の侵略で奪われ、島津氏は越後に逃れるが、本能寺の変で織田家臣森氏が撤退すると、川中島は上杉氏が占領し、上杉景勝に従った島津忠直が復帰する。
上杉氏が会津に移ると島津氏も同行し、長沼城を去り、須賀川の偶然にも同じ名前の長沼城に入る。
さらに関ヶ原合戦後、米沢に移り米沢藩で続き家老も務める。

以前の記事 長沼城(長野市穂保)
 長野市中心部から須坂市方向に向かうと千曲川にかかる村山橋があるが、ここの北1qが城址南端。
 完全な平城であるが、何しろ横は千曲川であり、何回かの洪水を受け、また、千曲川の新堤防建設で城域の一部が河川敷となったため、ほとんど何も残っていない。
 現在は住宅と果樹園が広がるばかりである。
 北側の貞心寺から南側の勝念寺までの1.5qが城域であったという。城下を取り込んだ総構を持っていたといい。現在の長沼の集落内を走る道路も昔のままとのことである。
しかし、余りにのどかな田舎の田園風景である。そんな大きな城の存在はとても信じられないというのが本音である。 

始めは島津氏の城であったというが、当主、島津淡路守忠直(月下斎)は天文22年(1553)越後に逃れる。
(その後、月下斎は上杉方の先陣として川中島の戦いに係り、天正10年(1582)遂に長沼城への復帰を果たす。
しかし、上杉氏の会津への移封に同行し岩代長沼で7000石を得る。最後は米沢に移る。)

川中島地方が武田氏の手に落ちると、飯山地方への進出とこの付近の統治の中心地として整備される。
どちらかというと領地支配のための政庁的性格が強い城であったと思われる。
武田氏が織田氏の攻撃で危機に陥ると上杉軍が長沼城に援軍として入る。

島津氏の復帰した時代を経て、江戸時代は松平直輝が松代城に入り、山田長門守が城代として入った。
その後、佐久間氏が入り18000石の長沼藩となるが、元禄元年(1668)廃藩となり、その時点で廃城になった。

城域南限の勝念寺 長沼の集落内。かつての城下町に相当


大堀館(長野市青木島大塚)

 弘治元年(1555)の第二回川中島合戦の際、武田信玄が本陣を置いた館であるが、昭和20年代に破壊され湮滅し、現在は長野市立更北中学校の校庭がその地と言われる幻の館である。
記録にも残る館を簡単に破壊してしまったのは浅はかだが、当時は文化財などの意識はなかったのだろう。
この更北中学校、実は更北中学校は小生の母校である。館のあった校庭を走り回っていた。
部活で俺のシュートが突き刺さったゴールがちょうど虎口の場所だった。
既に館の遺構は完全に失われているが、戦後間もないころまでは堀、土塁は存在しており、当時は大堀山と言われていた。
このことは中学校を造るために勤労奉仕に行った祖父から聞いた話である。

杉が鬱蒼とした林であり、堀の部分はじめじめしていて気持ちが悪い場所であったという。
水堀だったのであろう。
曲輪内部は畑だったらしい。
鬱蒼とした堀部分を写した当時の写真をどこかで見たことがあったが思い出せない。
この地が武田氏の手に落ちると、高坂弾正の家臣町田氏が居館したというが、町田氏はおそらくこの付近にいた土豪であろう。
合戦の際に陣城として築かれたという説があるが、町田氏の館に手を加えたのではないかと言われる。

第4回川中島合戦の頃には、海津城の前哨城館として、広田砦、戸部城、横田城とともに前哨防衛ラインとして機能していたのではないかと思われる。
したがい、激戦と言われた第4回川中島合戦にも使われたのではないかと思われる。

なお、今も町田姓はこの付近に多く、武田氏滅亡後、または上杉氏が会津に去った後、帰農した子孫である。

館は単郭ではあるが、61m×63mのほぼ正方形であり、土塁の高さは4.5m、堀の幅は7.3mほどあったと言う。
国土地理院の管理する昔の航空写真を見ていたら昭和22年(1947)に米軍が撮影したものの中にばっちり大堀館が写っていた。
ちょうど更北中学校の校庭こそが館跡であり、記録どおり60m四方ほどの単郭方形館である。
更北中学校の開校が昭和26年というので、この航空写真の撮影後、しばらくして湮滅してしまったようである。
この写真は遺影である。合掌。

 杵淵館(長野市篠ノ井杵淵)
第4次川中島合戦で戦死した武田信繁の墓がある典厩寺の南西1.2qの杵淵地区にあった単郭の館。
城郭大系の記事によると平安末期に築かれた横田城と並ぶ古い館であり、養和元年(1181)横田河原の合戦に登場する杵淵小源太重光の館であったとも言われる。

小諸の布引観音の経巻奥書に杵淵郷の名があり、その中心がこの館であったと言われる。
70×75mの大きさがあり、四方に堀があったが、一部遺構が残っていたが、宅地化、耕地化で遺構は湮滅したと言われていた。
とりあえず、この館の場所だけの確認に行った。やはり館推定地は住宅であった。
しかし、車を走らせると住宅の間の畑の向こうに土塁のようなものが・・。
車を降りて、農道をちょっと行ってみる。堀跡まであるじゃない。
館の西側の土塁と堀の一部のようである。土塁は高さ2mほどある。
堀は畑になっているが、幅10mほどの窪地として残っていた。昭和初期までは泳げるくらいの池だったというので水堀だったようである。
この館、名前は川中島合戦には全く登場しないが、当然、この館は海津城の前進陣地として利用したものと思われる。

内後館(長野市川中島町今里上屋敷)

犀川が長野盆地に流れ出る地域、今の長野市川中島町一体を戦国時代に治めていた者が小田切氏(滋野一族であり、出身は佐久臼田の小田切。雁峰城にいたらしい。)である。
この小田切氏の本館がこの内後館であり、一族を小田切館(川中島町今井)、於下館(川中島町下屋敷)、小市城に置き、詰めの城として、吉窪城、小松原城を維持していた。

内後館は国道19号線小松原トンネルの500m東、国道の南側一帯の内後集落が館跡という。
この内後という名は「内郷」「内御」とから来ているらしい。
館跡は民家になっている。かつては民家内に土塁があったというが、今はないようである。(怪しい場所が存在する。)

二郭からなる輪郭式の館であったという。
60m×65mの内郭の周囲に150m×120mの外郭が存在したらしい。
集落内を流れる中下堰が堀跡であったらしい。したがって、遺構は既に失われているようである。
武田氏の侵攻を受けると、弘治3年(1557)、当主、小田切駿河守幸長は、落合氏とともに葛山城に籠城するが、武田軍の攻撃で落城して討ち死する。
彼を討ち取ったのが室賀兵部の家来、山岸清兵衛といい、内後館跡の円光寺に墓がある。(この円光寺は、建久元年(
1190)に建立された小田切氏の菩提寺)
小田切駿河守幸長の長男民部少輔は上杉氏に従い、文禄元年(
1592)豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、上杉軍に属した村上義清の嫡子国清の家臣として渡鮮し、戦死したという。
上の写真は西の小松原城がある城山の中腹、天照寺付近から見た内後の集落。
この集落全体が館跡である。その先に見える高架は長野新幹線。
彼を討ち取ったのが室賀兵部の家来、山岸清兵衛といい、内後館跡の円光寺に墓がある。(この円光寺は、建久元年(1190)に建立された小田切氏の菩提寺)

小田切駿河守幸長の長男民部少輔は上杉氏に従い、文禄元年(
1592)豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、上杉軍に属した村上義清の嫡子国清の家臣として渡鮮し、戦死したという。

上の写真は西の小松原城がある城山の中腹、天照寺付近から見た内後の集落。
この集落全体が館跡である。その先に見える高架は長野新幹線。
北東側、国道19号線から見た内後の集落 用水路と道路が堀跡らしい。右側が館跡。

於下館(長野市川中島町於下)

内後館の東800m、JR信越線 於下踏み切り西側、於下公民館付近が館跡という。
小田切氏の下屋敷で「御下屋敷」から「於下」という名がついたという。小田切氏の一族、分家の館であろう。
75m×80mの方形館であったという。
集落全体が微高地にあり、周囲の水田が堀跡であったようである。
以前は民家に土塁が残っていたというが、確認できなかった。


於下踏み切りの西側に館があった。 於下公民館の裏側一帯が館跡という。


広田砦(広田城)(長野市稲里町田牧)
現在の広田集落全体が城域であり、東が昌龍寺付近、西が東昌寺付近までがその範囲であったらしい。
しかし、今はほとんどが宅地になってしまい、東昌寺に土塁が残るのみで、城があったという感じはまったく伺えない。
この城は武田方の川中島中央部の押さえとして弘治年中(1555〜1558)に整備されたものという。
東の昌龍寺付近が主郭、西の東昌寺付近が副郭といった感じの双頭の主郭を持ったような感じの城であったようである。

下の写真は国土地理院の昭和50年の広田砦付近の航空写真に現存していた堀及び用水路を含めた推定堀位置を描きこんだものである。
本来は、昌龍寺付近を中心とした部分が村上氏一族、広田氏の館であり、東昌寺付近がその分家、藤牧氏の館であった部分、または後世に増築した部分ではなかったかと思う。
この地は横田城と大堀館の中間点に当たる。
平地とは言え、北から東にかけて旧小島川が流れ、西側には北から古犀川が流れ、両河川に挟まれた微高地上である。

築館は応永4年(1400)広田氏によるという。
北東500mに田牧居帰遺跡があるが、平安時代頃の遺跡という。その発掘報告を見ると発掘した遺跡は末端部分であり、中心部は広田の集落内であると記載されている。
とすれば横田城と同時期の平安時代に、ここに城砦集落が作られていたのではないかと思われる。
ちなみに横田城付近で分岐した街道はこの城付近を通っている。
広田氏は水内郡の芋川氏と姻戚関係にあり、芋川氏が断絶状態となったため、広田氏が芋川に移住し、芋川を継承する。
広田氏こと芋川氏は川中島の戦いでは上杉方として武田氏と戦い、天正10年(1582)武田家が滅亡すると、川中島に復帰、天正12年(1854)正月、芋川親正は飯綱神社に寄進していた小島田の地を再び飯綱に寄進している。
その後、上杉氏とともに会津に去り、重臣として白河小峰城の城代を務めるほどに重用されている。
広田氏が去ると藤牧氏が館を継ぐが、藤牧弥之助は武田氏に追われ、現在の中野市桜沢に移ると、館は無人となる。
その後、この地を占領した武田氏により城砦化され、大日方氏が館主を務めたという。
大日方氏は小笠原一族であり、大町方面の山間の土豪であったという。
昌龍寺は、大日方直家が父の菩提と、領民の繁栄平和を願い、天正5年(1577)建立したという。
館の主要部の地であった昌龍寺 昌龍寺南の道路と用水路は堀跡。 北東端のこの畑が外郭の堀跡らしい。

東昌寺に残る土塁。
墓地のある場所はかつて水堀であった。

この縁で寺紋は大日方氏と同じ「丸二」である。武田氏滅亡後は大日方氏は上杉氏に従うが、会津には同行せず、小川村に帰農した。
現在もこの地方には大日方姓は多く、子孫であろう。

この寺の高さ15mの四面角塔鐘楼が特徴ある建造物であるが、これは明治初期、松代城の隅櫓を移築したものという。
昌龍寺付近の部分が東西54m、南北90mの広さ、その外郭は東西144m、南北164mほどで、周囲には濠がめぐらされていたというが、内郭自体が昌龍寺の境内そのものである。
昌龍寺周囲の道路が堀跡である。(かつては寺の西側に土塁や堀の痕跡のようなものがあったように記憶しているが・・・。)
外郭の境界部分が東と北側の市道付近である。
一方、東昌寺は周囲を土塁と水堀で囲まれた1辺50m程度の大きさであり、かつては幅7mほどの堀で周囲が囲まれていた。
水堀は昭和50年代末に埋められてしまい、土塁がコンクリートで保護されて残存するのみである。

なお、かつては東昌寺から昌龍寺方向に水堀が延びており、その間にも曲輪があったようである。
現在も用水路である「下堰」が集落内を流れているが、この用水路が水堀跡であり、城内の水堀への水の供給源であったようである。
広田集落全体に水堀が張り巡らされたような城であったのであろう。おそらく、イメージとしては横田城と類似していたのではないかと思われる。

東昌寺は元文4年(1739)松代藩主真田氏により観音堂が建てられ、正式に宝暦9年(1759)東昌寺が建立された。
ここに寺を置き、館時代の土塁、堀に手を付けなかったのは、松代まで平地で全く防衛施設が存在しないのを考慮した措置であったという。
ここは小生の実家の南500mの位置にあり、その水堀は釣のメッカであった。始めて釣をしたのはこの堀であった。

航空写真を見て気付いたのであるが、南西隅に丸馬出のような地形が道路となっているのである。これは果たしてなんなのだろうか?
最近の航空写真でも道の形はこのままである。今度、確認してこよう。

この城は、川中島の合戦では武田方の城であったはずであるが、合戦にどのような役割を演じたのかは何の記録もない。
永禄4年(1561)の激戦の地という八幡原は南東1q、武田方の武将、両角豊後守の墓は北東1q、狐丸塚は南400mに位置し、かつて首塚が多数存在したということから、この城も戦いに巻き込まれたのであろう。
と言うより、永禄4年の大激戦自体がこの城を巡っての攻防戦、主役ではなかったのかと思う。
つまり、上杉軍の主攻撃目標が、大堀館、広田城、横田城と3城並んだ真ん中のこの城ではなかったのか?

小田切館(長野市川中島町今井)
小田切館は、内後館の南南東1.5km、信越線今井駅の南西500mの今井神社がその跡という。
この今井神社の名前は木曽義仲の家臣、今井兼平から採られている。

なんとこの神社の西側に「今井兼平の墓」まである。
勿論、滋賀の粟津で戦死した今井兼平の墓そのものではなく、今井兼平の部下、岩害形部が供養のために建立したものという。

解説板によると横田河原の合戦の時、今井兼平が率いる木曽軍の別働隊がここに隠れ、側面から挟撃したという。
この地の西側は若干低くなっており、そこが犀川の支流、御弊川の跡である。この付近は薄の原野であり、兵を隠すには絶好の場所であったという。

これに係る駒止め石、馬洗いの池、縁切橋などの伝承の場所がこの付近にいくつかあるので、信頼のおける話かもしれない。
神社の周囲には土塁の痕跡を伺わせる土の盛り上がりがある。境内は南北70m、東西40mほどであるが、その外側に外郭が存在していたらしい。
今井集落が若干の微高地にあるので、集落がその外郭ではないかと思う。

この小田切館であるが、この付近を北国街道が通っており、このルート上、直ぐ南で第1回川中島合戦、御弊川の合戦が行われている。多分、この時の上杉軍の陣もここだろう。つまり、最初と最後の戦いで上杉軍の陣となったのではないだろうか。上杉謙信としてはおなじみの場所ということになる。
川中島合戦最後の戦い(対陣)である永禄
7年(1564)年の第5回戦においては、上杉軍がここに本陣を置き、塩崎城(川柳将軍塚古墳?)に本陣を置いた武田軍と60日間、にらみ合った場所という。
当時、街道筋にある館であり、上杉軍が南下するのにも妥当なルートである。
小田切館の跡に建つ今井神社 神社の周囲には土塁跡が残る。

平林館(長野市松代町豊栄字平林)

松代の東、西に皆神山が聳える豊栄地区にある諏訪神社一帯が館跡。
最近まで土塁が存在していたという。
「政所」「花立」「大門」「堀内」「内堀」という小字が付近にあり、館の名残という。
この付近は英多庄という荘園の中心であり、その管理者である平林氏の居館であったという。
平林氏は鎌倉時代にここを支配していた者であが、詳細はかよく分からないが、九州まで領地を有していたという。
なお、この付近は平林姓は多く、その子孫であろう。

小森館(長野市篠ノ井小森)
篠ノ井東中学の東500mにあった小森氏の居館であるが、館の真ん中に千曲川の堤防が築かれ、堤防の内側となった遺構はかろうじて堀跡が推定できるに過ぎない。
遺構らしいものといえば、堤防北下にある土塁の一部だけである。
ここは方形館の隅の櫓台であったらしく、ここには慶安
4年(1651)と年号が刻んだ石祠があり、「小森云々」との文字が確認できるという。

館は70m四方の内郭と西方へ30m、東方へ40mが外郭であったというので二重輪郭式の館であったようである。
諏訪氏一族の小森遠江守の館跡といわれる。
この小森氏も多くのこの地方の武家同様、武田氏の侵攻を受けると武田氏に従属し、武田氏が滅びると、織田氏、上杉氏に従い、最後は上杉景勝にしたがって会津に移ったという。
なお、一部はこの地に残りその子孫が
健在である。(岡澤由往「激闘 川中島合戦をたどる。」龍鳳書房 を参照)

堤防の外にある土塁の残痕。唯一の明確な遺構。 堤防内に残る堀跡は洪水などで結構埋まっている。 堤防内に残る堀跡と切岸。

保科氏館(長野市若穂保科)
白虎隊で有名な会津松平家発祥の地がここである。
会津松平家は元々は保科家であり、武田軍の中で勇名を謳われた「槍弾正」こと、高遠城代、保科弾正忠正俊の末裔である。
保科弾正忠正俊は武田家中においては、信濃先方衆として騎馬
120騎持ちの侍大将であった。
高遠城は織田氏の攻撃で落城するが、当主保科正直(正俊の子)は落城時に城を脱出し、本能寺の変に乗じて城を奪回し、その後、北条氏さらに徳川家康に仕え大名となる。
そこに養子として向かえたのが秀忠の子、保科正之である。
その保科氏発祥の地がこの保科の谷である。

菅平高原の西の谷筋の末端にあり、狭く余り豊かな土地とは思えない。
保科氏は井上一族と言われ、この保科の谷に住み、保科氏を称したという。
この円覚山広徳寺は、保科弾正忠正利(正俊の祖父)を開基とし、延徳元年(
1489)に開創された曹洞宗の寺院であるが、ここが保科氏の館であったといわれる。
館と寺は永正
10年(1513)村上氏との戦いで焼失するが、館の地に寺が再建され、焼け残った館の裏門が現在の寺の総門という。
広徳寺の西の裏山が霜台城であり、保科氏の詰めの城であった。

この城には石垣があるというが、比高
300mの険しい山で道もなく、熊も生息しているとのことで未攻略である。
いつかは行って見たいものである。
保科一族は、村上義清に従い武田信玄と戦い、武田氏の勢力が伸びると他のこの地方の武家同様、一族を武田方と上杉方に分け生き残りを図る。
武田方についた一族の末裔が徳川氏に仕え、後に会津松平家となるが、保科正則の弟左近将監正保は、上杉氏に属し、保科を領し、稲荷山城の城代となり、会津に移る。
なお、この地に残り真田氏に使えた一族もいる。
(岡澤由往「激闘 川中島合戦をたどる。」龍鳳書房 を参照)
 

館跡には広徳寺が建つ。 広徳寺から見た詰めの城、霜台城。 寺の前の畑は窪んでいる。堀跡か? 寺前から見た保科の谷、狭い谷である。

清野氏館(長野市松代町清野)
松代町の清野の大村地区にある古峰神社付近が、村上氏一族、清野氏の館であったという。
この地は南に鞍骨城のある山があり、西側の妻女山と東側の竹山(象山)が両腕で包み込むような場所の最奥地である。

古峰神社の地が居館とは言うが、居館はこの背後の大村集落一帯であり、館の主要部は民家の敷地になっているようである。
遺構はほとんど分からないが、集落自体、北側の低地より一段高く、神社北側の水田が堀跡のような感じである。

館主であった清野氏は村上氏の一族として現在の松代全域から屋代付近を領土にしており、当時の館が現在の海津城であったという。
海津城の本丸自体が
100m四方ほどと非常に小さいが、この本丸こそが、清野氏の居館そのものの縄張りを踏襲しているという。
前海津城とも言うべき前清野氏館の詰めの城として存在していたのが鞍骨城であり、天城、鷲尾、唐崎、竹山を含めた鞍骨城砦群を整備したのが清野氏と言われる。
その清野氏も天文年間になると村上氏とともに武田信玄の侵略にさらされ、始めは村上義清とともに戦い、越後に逃れるが、永禄
2年(1559)ころ武田氏に降伏し、この地に帰ったという。

この時、居館であった海津城に改修されたため、移転した場所がこの館であったという。

その後、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、清野氏は織田氏、次いで上杉景勝に属する。
そして慶長
3年(1598)上杉景勝の会津移封に多くの川中島地方の武家同様、清野氏も同行し、この地を去ったという。
館跡には宝永年間(
17041710)、古峰神社(当時は、日枝神社)が建てられ、松代藩の倉庫「酉の蔵屋敷」が置かれた。
なお、この大村集落は、宝暦
7年(1757)と天保11年(1840)に火災に会い全滅し、村人は清野氏のたたりとおそれ、弘化3年(1846)古峰神社境内に「清野氏遺愛之碑」を建てて供養したという。
(岡澤由往「激闘 川中島合戦をたどる。」龍鳳書房 を参照)
北側から見た館跡の神社と大村の集落、手前の
水田が水堀のようである。
神社境内は狭い。主要部は大村の集落であろう。

横田城(長野市篠ノ井会)
 なぞに包まれた城郭である。
完全な平地にあるため、宅地化が進み、残念ながらほとんど隠滅状態である。
南長野運動公園の西、国道18号線を挟んで反対側、厚生連篠ノ井病院の南が城址に当たる。
城砦集落として知られ、当地では「会村」(あいむら)と通称される。

集落内を多くの用水路が流れ、かつては水堀への給水用であった。
小生の親戚宅がここにあり、今はどこがそれだったのか分からなくなっているが、30年ほど前には幅5mほどの堀があったことを覚えている。
現在は、土塁または土壇が残っているのみであるが、かつての堀の場所は大体分かる。
かつて、会の集落の周囲は一面の水田やりんご畑であった。

今は水田は宅地となりかなり無くなっているが、旧集落と新興住宅街は容易に区別がつき、その境界がかつての堀跡であり、幾分、窪んでいる。

唯一残る土塁に掲げられた説明版には次のように書かれている。
 『平安時代末ごろの築城で、養和元年(1181)木曾義仲が越後の城氏の軍と戦った時に利用し、また北陸を攻め上がるについても、この城を根拠地の一つにした。
応永7年(1400)信濃守護小笠原長秀が、村上氏や大文字一揆らと戦った大塔合戦の時も、長秀はこの城にこもっている。
川中島の戦いの時は甲将原大隈守がこもったと伝える。 

外堀は南北約180m、東西約230mの短形をなし、その内部が、いわゆる環濠集落になっている。
内城の部分は約55m四方で、殿屋敷といわれ、その西北隅(現在地)に南北10m、東西12m、高さ3mの土塁が残り、古殿稲荷神社が祀られている。
 稲荷社の北には、近年まで6m以上の堀があった。
この殿屋敷の部分が本郭である。
外堀内の西半分を、宮内(くねうち、郭内の意)といい、東半分を古町という。
大和地方の環濠集落によく似た屋敷割がみられる。土塁の南に馬出しの地名があり、東には土居沢の地名がある。
古代末期から戦国期に至る館跡として、また防備施設を持つ環濠集落の遺跡として貴重である。(長野市教育委員会)』
城の東側の水堀のあった部分。 唯一残る土塁。

 以上のようにかなり古い歴史がある城であり、この城を巡っての戦いが起きている。
 この地にこのような城郭が築かれたのは、北国街道が西を通り、そこから分岐した街道がこの城付近を通り、北東に延びているなどの交通の要衝にあることによる。
 このため、この地は何度か戦乱の舞台となっている。

 始めに記録に登場するのが、源平の横田河原の合戦であり、大塔合戦にも関係する。
 川中島の合戦との関係も明確な記録はないものの当然係わっているはずである。

 第1回の合戦の舞台である布施の戦いの舞台はこの城の西1km、JR篠ノ井線篠ノ井駅付近である。
 恐らく北国街道沿いで武田、上杉(当時は長尾)両軍が衝突したものであろう。
 北東に「合戦場」という地名があるが、地名が合戦に関わったものであることは容易に想像できるが、どの合戦か特定することはできない。

 三池純正氏の「新説川中島合戦」では永禄4年の第4回合戦はこの城を巡って戦端が開かれたとしているが、これも否定はできない。
 昔、子供の頃、『本当の八幡原(例の一騎打ちがあった場所)はここではなく、もっと西、南長野運動公園の地にあった勘助宮の位置だ。』という話を聞いたことがある。
 唯一残された土塁のみが真実を知っている。

 
栗田城(長野市栗田)
長野駅東口から南東に600mの位置に日吉神社がある。ここが城址である。
この城も市街化の波を受けてほとんど姿を留めないが、2つの郭からなる輪郭式の城であったようであり、日吉神社が本郭の北西部に当たる。
城域は東西709m、南北1090m程度の規模があったというので巨大な城である。

この城の近くに管理人の母の実家があり、母の実家に行った時の従妹達との遊び場がここであった。
その当時はまだまだ水田が広がっていた記憶がある。多分、その水田が堀の跡であったと推定される。

日吉神社の社殿は20m径、高さ3mほどの土壇の上に建つ。
これが栗田城の本郭の土塁の一部である。
現在はコンクリートで一部固められているが、かつては土剥き出しであった。
土壇の北側と西側には堀跡がくっきり残っている。大正時代までは神社の南側に東西に土塁が延びていたという。
土塁に囲まれた本郭は120m×100mほどの大きさがあり、その周囲を水堀が回っていたという。虎口は南西端部にあったという。

その周囲に外郭があったらしいが、外郭の周囲に土塁が存在したのかは分からない。
おそらく裾花川の開析した微高地が外郭であったのではないかと思われる。 
日吉神社本殿が建つ栗田城の土塁。 土塁の北側には堀跡が残る。

この外郭部には家臣団の屋敷など根小屋地区であったものと思われる。その点では城砦集落とも言えるであろう。
現在、1km西を南流する裾花川は当時はこの城のすぐ南を南東方向に流れていたといい、裾花川が外堀の役目を果たしていた。

城主は善光寺の堂主、栗田氏と言われる。
栗田氏は村上蔵人顕清の子村上判官代為国の子寛覚が栗田郷に居住し、栗田氏を名乗り、戸隠権別当としてその子孫は北信濃の有力国人領主に成長となった。
記録では鎌倉時代の『吾妻鏡』の治承4年9月の条に栗田寺別当大法師範覚(栗田禅師寛覚の誤記)として初登場する。
治承4年(1180)9月、木曽義仲の挙兵に平家方の笠原平五頼直が侵攻、栗田範覚は村山七郎義直らとともに木曽義仲に味方し笠原勢を市原で迎撃、戦闘となったが決着がつかず、 越後から城助職(長茂)が加勢に駆けつけることで横田河原の合戦へと発展し木曽方の勝利に終わる。
その後、栗田氏も木曽義仲に従い京まで上ったのではないかと推定される。
鎌倉時代となると当主、寛覚は戸隠山別当に加えて善光寺別当にも任じられ、以後、栗田氏は戸隠山と善光寺の別当職を代々務める。
源頼朝が建久8年(1197)に戸隠山と善光寺に参詣した時は、寛覚の屋形に宿泊し、栗田ノ御所と名づけたという。
源氏滅亡後、信濃守護となった北条得宗家も善光寺に庇護を加えたため、善光寺と戸隠山の別当を兼帯する栗田氏の地位も安定していたと推定される。
この栗田城を築いたのは寛覚の長子栗田太郎仲国といい、戸隠山の別当職は弟の栗田禅師寛明が継承した。
これにより仲国の系を里栗田、寛明の系を山栗田と称して栗田氏は二つの流れに分かれた。

次に栗田氏が歴史に登場するのが、応安3年(1370)10月、信濃守護上杉朝房の栗田城を攻撃である。
これが栗田城の初めての記録への登場である。
この戦いは朝房に従わない栗田氏を攻めたものであり、栗田城の西木戸口あたりで合戦となり、上杉軍を撃退したという。

次に登場するのが応永6年(1399)の大塔合戦である。栗田沙弥覚秀の名が国人領主の中に見える。
永享10年(1438)の永享の乱が起こると、 守護小笠原政康の鎌倉進攻に従った信濃国人たちの名の中に「栗田殿代井上孫四郎殿」の名が見える。さらに『諏訪御符礼之古書』の文明3年(1471)の「御射山明年御頭足」に栗田萱俊の名が登場し、文明9年の「五月会明年御頭足」に栗田永寿の名が見える。

このころ、戦国時代に突入し、栗田氏も隣の漆田秀豊を降している。
戦国時代は栗田氏は宗家にあたる村上氏に属し、始めは武田氏の北信侵攻にも村上氏の下で戦うが、 天文22年(1553)、村上義清が越後に落去すると、栗田寛安も一度、義清とともに越後に行くが、のちに武田方の調略に応じて信濃に復帰した。
これは信玄が越後侵攻のルートとして戸隠往来の道筋を押さえるため、 戸隠神社別当職の栗田氏を調略したものと言われる。

弘治元年(1555)、第2回川中島合戦では寛安は武田方に属して旭山城を守り、 上杉勢を牽制。このとき、信玄は旭山城の栗田氏に兵三千、弓八百張、鉄炮三百挺を送ったという。
両軍の対陣は今川義元の仲裁で講和となり両軍は兵を引き上げた。
このとき信玄は善光寺本尊を甲府に移して甲府善光寺を建立し寛安も甲斐に移った。
この時、栗田城も破却されたらしい。ただし、大正時代まで土塁に囲まれていたというので城としての機能は喪失しておらず、川中島の戦いでは、位置的に見て、上杉軍の部隊が入ったのではないかと思う。

寛安のあとは鶴寿(寛久)が継ぎ、永禄11年(1568)、信玄から甲府善光寺の支配と水内郡の旧領も安堵されたという。
しかし、勝頼が長篠の合戦後、高天神城を拡大・整備し、 今川氏の旧臣岡部元信(真幸)とともに栗田鶴寿も守将の一人となる。
しかし天正9年、徳川家康の攻撃で高天神城は落城し栗田鶴寿も戦死。
栗田氏は子の永寿が継いだが幼少であったため弟の寛秀(永寿=国時)が後見する。
天正10年、武田氏が滅亡すると 永寿は家康に従い領地を安堵されるが、家康が関東に移封されると上杉氏に従うが、慶長3年、上杉景勝が会津に移封となると、栗田永寿もこれに従い信夫郡大森城八千石を与えられた。
しかし、豊臣秀吉が病没、徳川家康との対立が深まると、家康に内通じて会津から出奔したが、討手に攻められて討死。

永寿の遺児寛喜は慶長8年に善光寺に帰り、善光寺別当復帰を画策するが、善光寺本尊を甲府に移し、善光寺を衰退させた栗田氏を地元民が嫌い、復帰は叶わず、寛喜は善光寺御堂のあとに屋敷を構え、寛慶寺の再興をはかったと伝えられる。
長野市教育委員会 発掘調査報告書「栗田城2」、宮坂武男「信濃の山城と館」、武家家伝を参考