枡形城(長野市大字上松)36.6818、138.1894
長野市善光寺の北約2kmの城山(706m)に位置する。
この山は善光寺からは比高約300m、北は南浅川の谷、谷底までは比高約200mはある。
また、南側の地附(じつづき)山(733m)から北東約600mにあたり、山が北東に突き出た場所である。

かつて、この城は南側を戸隠バードラインが通っていたので、城に車が横付けできた。
いつでも行けた。
そこを何度も通っていたのであるが、ついぞ行かなかった。
「いつでも行ける。」これは悩ましいことである。
そう言っているうちに行けなくなることが多いのである。それは人生そのもの。
あれ、俺、凄く哲学じみたこと言っているじゃねえか!熱あっか?

ともかく、今、ここまで行くには地附山の南東斜面部にある地附山観測センターがある標高570mの地附山公園から歩かなくてならない。
40分程度、比高で約140mを登り、歩く。

こうなってしまったのは昭和60年(1985)年、地附山南東斜面部で地滑りが起きてしまったからである。
この地滑りで老人ホームが被災し多くの人が亡くなった。
中腹部の住宅団地の住宅も流された。
そして戸隠に向かう観光道路、戸隠バードラインも寸断されてしまった。
このため、現在の戸隠バードラインは大峰山の南の七曲がりを上がって、接続している。
そして、大峰山までのルートは閉鎖されてしまっている。

管理人が最後に昔の戸隠バードラインを通ったのは地滑りが起こる少し前だったと記憶している。
その閉鎖された戸隠バードラインを歩いて城に向かった。

かつて自分も運転して走り、多くの車が行き交ったその道は、木の枝が張りだし、落ち葉が路面に積もっていたが、旧状を止めていた。
約40年振りに通るその道、まるで過去に通じるような気がした。あれ?また、哲学じみたこと言ってる!

@本郭内部。平坦で、綺麗に整備されている。 A本郭虎口から下る道はじぐざくした堀底道である。 B本郭(左)と桝形曲輪の間は堀底曲輪のようになっている。
C桝形曲輪は本郭側以外を土塁が覆い、虎口が開く。 D桝形曲輪(左)南側の堀は堀底道である。 E旧戸隠バードラインのこの部分は堀跡利用では?

そして城の前に来た。昔
の記憶通り、道路越に歩道橋Eがかかっていた。
そこを渡れば城内なのだが、橋は藪で覆われ、老朽化していてもう渡れる状態ではない。
このため、道路脇から城内に突入する。

まず、横堀Dが現れ、堀底道を進むと虎口、そこを入ると名前の元となった枡形状の曲輪Cとなる。45×20mの広さがある。
南側と西側に土塁があり、土塁の外側の堀底を進む敵を攻撃できるようになっている。

この曲輪の北側が本郭になるのだが、そこには大きな谷状の場所Bがある。
ここを堀と言って良いか、曲輪と言って良いか?深さは約8m、幅は40mほどある。
底部には土塁がある。堀底に柵列があったかもしれない。

東は竪堀となり、西は屈曲して竪堀となる。その屈曲した堀部分が堀底道となっており、本郭に登る道Aが分岐する。
本郭@は東西15m、南北45mの広さがあるが、周囲は急坂、北下に平坦地がある。

都合、南北約100m、東西約70mが城域と推定されるが、バードラインがカーブを描いて通過する部分Eも堀を利用したものではないかと思われる。

この場所は西側に大峰城、さらに葛山城があり、葛山城の東を守る出城ではないかと思われるが、出城にしては規模が大きい。
葛山城奪取後、越後方面からの越後勢の進出や越後方の若槻山城を牽制するため、武田氏が拡張した可能性も想定されよう。
川中島地方が武田氏の支配下になった後は廃城になったのではないかと思われる。
さらに本能寺の変後、この地は上杉領になるが、葛山城や髻山城のように上杉氏により再使用されたかは何とも言えない。
(宮坂武男:信濃の山城と館を参考にした。)

北郷古城(長野市北郷)
739.5m 36.7025、138.1756

浅川から北浅川沿いに信濃町に向かう県道506号線北郷ループから東に登った北郷集落南端部にある。
北浅川からの比高は約約80m。
火の見櫓が土塁上に立つが他に遺構らしいものはない。

↑青い屋根の民家の右側に土塁がある。右に延びている平坦部も城域である。途中にある丘を横切る道路が堀跡らしい。
民家、畑のある所が曲輪であり、この付近は山間の地であり、山の斜面がそのまま切岸に相当する。
山上の平坦地の東西約50m、南北約200mの範囲が城域であったようである。

↑唯一の城郭遺構である土塁。上に火の見櫓が建つ。
村上氏家臣小林伊勢守の居城であったが、村上氏の没落後は武田の家臣、高坂弾正昌宣の居城になり、昌宣が海津城に移った時、廃城となり耕地となったという。
北浅川沿いの街道筋の馬による輸送業務を正業にしていたのではないかと思われる。
山の上なので居館としてもそれなりの防御力はあるが、詰の城、戦う城(籠城用の城)として北浅川の対岸、北郷本城がある。
(宮坂武男:信濃の山城と館を参考にした。)