雁田城(岩松院館、小城、大城)(小布施町雁田)

福島正則の墓があり、葛飾北斎の絵があることで有名な岩松院の北東に覆いかぶさるような山がある。
やや北西から見ると蛸入道のような異様な形をしている。標高は520mこの山頂にある城が雁田城である。
岩松院前が340mほどの標高であるので、比高は180mほどある。
この山頂にある城を雁田大城とも呼ぶ。

ということは雁田小城も存在するということである。
もっとも岩松院自体も戦国居館の跡であり、石垣が至るところにあり、武家の居館の雰囲気がプンプンしている。
ここは岩松院館あるいは萩野氏館というべきだろう。

ただし、この石垣が戦国時代からあったものであるかは不明である。
小城は岩松院の直ぐ北から登る道があり、5分程度登れば到着する。
この小城は山の中腹にあり、山頂の大城の出城、物見の砦であり、11×10m程度の広さの単郭で極めて小さい。
しかし、驚くべきことに完全石垣つくりである。
切岸はいわゆる高石垣ではなく、1mほどの高さの石垣を4段に積んだ階段状である。
一番外側の石垣までは主郭側から7mほどの距離がある。
この石垣は北側及び大城側にはない。
西から主郭部に登る石段は、近畿地方の織豊系城郭と良く似た構造である。
主郭の東、大城側には石壇があり、背後に堀切がある。
堀切内には巨大な岩が残っている。主郭周囲には石塁はない。
普通なら主郭の周囲を松尾古城のように石塁で囲むのが当然のように思うが、囲みはない。

しかし、この石垣の城は誰が造ったのだろう。
高石垣ではなく段々に積む工法は、近世のものではなく中世の技法であり大田金山城などの石垣に類似する。
しかし、この付近では余り似た構造の石垣はない。
若干、霞城や鷲尾城の石垣が似る。

雁田城自体は高梨氏の城であったが、他の高梨氏の城にもこのような石垣はない。
築城した者の可能性としては、高梨氏を追った武田氏、武田氏を滅ぼして一時、この地を支配した織田氏家臣の森氏、その後、川中島を支配した上杉氏が候補として挙げられる。

石垣の工法としては森氏が最も熟知していた可能性が高いが、支配期間が短く、築城する余裕はあったかどうか疑問である。
上杉氏にしてもこの工法を知っていたかどうかとの疑問がある。

しかし、石垣の職人は技術集団として全国を渡りあるいており、各地の戦国武将の受注に応じて施工工事を行なっていたともいう。
大田金山城や唐沢山城の石垣も武将お抱えの者ではなく全国を渡り歩いていた職人の手によるともいわれている。
このため、上杉氏の城には石垣の城は余りないようであるが、上杉氏支配時代のものとではないと否定できる根拠はない。
まさか福島正則が造ったとは思えないが。

小城の背後の堀切を越えるとしばらく城郭遺構はない。
岩だらけの道が大城まで続くだけであるが、途中には石門のような場所や石垣のように見える岩がある。
ここの岩は節理にしたがって、板状に割れるタイプのものであり、松尾古城、鷲尾城、霞城の石垣の石材と似ている。
小城の石垣もこの岩を利用していることがわかる。

急坂をあえぎながら登ると山頂から20mほど下に曲輪があり、最後の急坂を登ると西端の大きな堀切が出迎える。
堀切の西側は土塁状になっており、岩むき出しの本郭の切岸がそびえる。
堀切の幅は9m、深さは本郭側から5mほどである。
本郭は尾根先端の盛り上がった場所に位置し、長さ30m、幅15mほどであり、郭内は2段になっている。
その段差がある部分は石垣である。西側に井戸らしい石組みがある。

本郭の東側には土塁があり、その東はお決まりの大堀切である。深さ5mほどあり、南側の小曲輪に一度降りてから、堀底に行くようになっている。
その東にやはり東に土塁を持つ長さ18m、幅9mの曲輪があり、徐々に高度が下がる。
先を行くと滝の城に行くが、先の尾根筋にはさらに30mに渡って4本の堀切で厳重に遮断されるおなじみのパターンを取る。
西側の1本目が大きく、残り3本はそれほど大きなものではない。
最後に鞍部手前に石門のような岩がある堀切がある。城の総延長は150m程度である。
大城には小城ほどの石垣はなく、戦国期典型的な尾根式城郭の古い形態の城のままである。

築城は荻野氏が室町時代から戦国初期ころ築いたという。
この荻野氏がどのような者が分からないが、戦国末期延徳元年(1489)以降はこの地方は高梨氏の支配地でとなり、この城は北東の尾根にあると二十端城と最終的な詰の城、滝の入城からなる高梨領南部の防衛城砦群であった。

解説板には「東西30間半(約55m)、南北15間(約27m)、周囲には空掘や用水を引いた樋跡が見られる。
築城年代、位置、名称等解明されていない部分も多く、伝説に満ちた謎の城といえよう。
古くはアイヌ人の城「チヤシ」あるいは大和朝廷の東征時(3〜4世紀)に作られた柵という。
また、東條庄狩田郷の領守職、苅田式部太夫繁雅(元暦元年、1184年の文献あり)の居城と伝えられる。
室町時代の貞治六年(1367)萩野備後守常倫が築いた二十端城は、この苅田城を含んだものとも言われる。

史実からすると、豪族・高梨氏との関りが深く、延徳元年(1489)以降はその支配が確定した。
永禄4年(1561)武田信玄が高井地方を支配下とするまでの間、苅田城、二十端城、滝ノ入城等は、高梨氏支配地の南部における防衛線であったと推察される。」と書かれていた。
そう言えば、壁田城の解説にもアイヌだの大和朝廷だのということが書かれていた。
同じ中野市の城なので解説を書いた人が同じ人かもしれないが、延徳田んぼ等、条理制遺構が近くにあり、古くから開発された土地であったとは理解できる。
しかし、アイヌの「チャシ」が出てくるのはどうも飛躍しすぎのような気もするが。

岩松院から高さ50mほど登ると
小城の石垣が姿を現す。
虎口が複雑。
石垣は1m高さのものが4段に重なる。
金山城の石垣と良く似る。
小城は11m×10mの単郭。
背後東側に石塁がある。
石塁の東側は岩だらけの堀切となる。
ここを過ぎて大城に向かう。
大城までは比高120mほど。
途中に石門のような場所がある。
こんな場所を通過しなくてはならない。
まるで天然の石垣である。
大城の西に姿を現した大堀切。
深さ5m、幅9m。
本郭は35m×10mほど。
内部が2段になっている。
段の所は石垣である。
これは井戸か?本郭の西にある。 本郭の背後にはお決まりの大堀切が。
規模は西側のものと同じ。
30mの長さにわたり四重堀切が
東側に構築される。
城域東端(多分)の岩だらけの堀切。
石門のようになっている。