鴨ヶ岳城砦群2

鎌ヶ岳城(中野市更科)

鴨ヶ岳城砦群の城の1つであり、主城である鴨ヶ岳城の南東1kmの標高700mの山にある。
鴨ヶ岳城からは2つの鞍部を越えて行くことができる。城までの道はしっかりしているが結構アップダウンがあり、きつい。
2つ目の鞍部の標高が600mであるので、そこからさらに高度で100m登ることになる。簡単に行けると思っていたが、甘かった。完全に予想が外れた。
おまけに遺構の期待も外れた。
主郭部分は山上に位置するが、それまでの間に物見と推定される曲輪のような場所が2つある。
そのうち1箇所は背後に堀切を持つ。

山頂部直下に曲輪と推定される平坦地がさらに2つあり、最後の急坂を登ると山頂である。
山頂部は楕円径をした平坦な場所であり、城域は東西200m、南北40mとささやかなものである。
周囲の斜面も鴨ヶ岳城ほどの険しさはなく、要害性は今1つである。
西側に曲輪Wである。内部は西側に若干傾斜しており、50m×40m程度の広さである。
北側に低い土塁がある。その東に両側に土塁を持つ堀があり、中央に虎口が開く。ここを入ると曲輪Uとなる。
この曲輪Uは直径20m程度の小さい曲輪であるが面白い構造をしており、東側に一段高い土壇があり、土壇手前は堀のように窪んでおり、井戸のような感じである。曲輪周囲は土塁が巡っている。
曲輪Uの東に幅11m、深さ4mの堀切があり、堀底が道になっている。この道を南に下ると更科峠である。
本郭は東西30m、南北13mの広さで中央部に神社の社がある。南北に腰曲輪がある。本郭の東に幅9mの堀切を介し、曲輪Vがある。
この曲輪は直径15m程度に過ぎない。曲輪Vの東は下りとなり、50mほどにわたって曲輪が5段ほどある。この尾根を下って行くと携帯電話の中継局があり、さらに下ると山ノ内町側に出るが、この道が神社(名前忘却)の参道であり、鴨ヶ岳城から尾根を行くより距離も短く、比高も稼げるので行き易い。
この城は鴨ヶ岳城の南を守る支城でもあるが、南の更科峠の交通を監視する場所でもあったと考えられる。
ところで城に向かう途中で「熊」の糞を発見。ラジオの音量を上げるが、電波状態が良くない。棒の先に熊鈴を付けて激しく鳴らして歩く。これだけでも疲れる。
幸い「熊」との遭遇はなかったが、もしこの城に行こうという物好きな方がいたら、十分に気を付けて下さい。

曲輪W北側の土塁。 曲輪Wの東側に曲輪Uの虎口が開く。その間に両側に土塁を持つ堀がある。 左の写真の虎口を曲輪U内から見る 曲輪Uの南北には土塁がある。
曲輪Uの東の土壇上から本郭を見る。その間には堀切がある。 本郭と曲輪U間の堀底は堀底道になっており、更級峠に通じる。 本郭に建つ神社の社。 曲輪V西の帯曲輪から曲輪V、本郭方面を見る。

箱山城(中野市中野)

鴨ヶ岳城の北に位置する岩山の山頂にある城である。
鴨ヶ岳城のある山とは標高550mの箱山峠を鞍部としてつながっており、城のある箱山山頂部は695mの標高を持つ。
箱山峠からでも比高は150mもあり、この山も結構登るのがきつい。

一応、道らしいものはある。途中にピークが2つほどあり、ここも物見台であったと思われる。特に山頂直下の斜面は岩が多く急勾配である。
肝心の城自体は小さなものである。南西に延びた尾根筋50mにわたり武者溜まりのような平坦地があり、最高箇所に本郭を置くだけである。
基本的には単郭の城といえるだろう。
本郭は南西側と東側に大きな堀切を持つ。南西側の堀切は幅13m、本郭側からの深さ6mほど、東側の堀切は幅11m、本郭側からの深さ5mほどあり、切岸には岩が剥き出しである。本郭内は東西20m、南北13mの大きさである。
郭内には井戸の跡がある。郭内に碑が3つ建っている。内容が良く読み取れないが、修験僧の修行の場であったようなことが書かれている。
確かにこの岩だらけ山は修行には最適であろう。北に尾根が続き、腰曲輪が10mほど下にある。
東側の堀切の東に岩が林立した場所があるが、ここは曲輪ではないだろう。さらに東は細い鞍部となり、東の岩場に通じる。この岩場は物見の場所であり、周囲は崖である。したがって、東から侵攻されることはありえないといえる。規模は小さく、鴨ヶ岳城の北を守る砦、物見である。

城から箱山峠方面に戻ると尾根に「かもしか」がいて、じっとこちらを見ていた。
全く逃げようともしない。好奇心の強い動物と聞いていたがにらみ合いは2分ほど続いた。
おかげで写真を撮り、ビデオ撮影にも成功した。
「鴨ヶ岳」で「かもしか」ってシャレにならんが、そのうち飽きたようで猛スピードで坂を駆け下りていった。「かもしか」は結構増えているとのことである。遭遇した場所はかなり人家がある場所に近いがこんな所にまで出没するのか。

箱山峠は下にトンネルができたため、すでに廃道状態で荒れ果てていた。
山ノ内側からの登り道自体もわからなかった。かつては山ノ内町方面と中野の市街を結ぶ最短の道であったという。
この峠が凄い。切通しになっているのだが、箱山側は20m、鴨ヶ岳側は30m以上の崖である。
現在は廃道になっているため、落石した石がゴロゴロしていて歩くのに緊張する。
この切通しの北側になぜか堀切があり、東の斜面に曲輪がある。
どうもここは峠の交通を監視する砦、関所があったようである。
峠を中野側に抜けると道は清掃工場方面に下りて行くようになっていたようであるが、道はなくなっている。
七面山方面に向かう道は遊歩道となって続いており、途中で鴨ヶ岳城に向かう遊歩道と合流し、七面山方面に下る。

南西側の堀切底から見上げた本郭。
上まで6mほどある。
左の写真の堀切を本郭から見下ろす。 本郭の内部は平坦であり、眺めが抜群である。 本郭東の堀切底から見た本郭。
本郭東の細尾根は岩だらけである。 箱山峠の切通しの北に大きな堀切が1本ある。 「な・・なんだ君は?」というのは君のセリフか? これが箱山峠である深さ20mの切通しである。

安源寺城(中野市安源寺)
この城は鴨ヶ岳城砦群に属する城ではない。
城の名はほとんど知られていない。誰がつくったのかも記録はない。
ただ、位置関係と戦国期の城郭であることから高梨氏関係の城であったものと思われる。
城のある場所は上信越自動車道中野ICの北東2q、鴨ヶ岳城からは西に約4km、立ヶ花丘陵の南端部近くである。
城のある山は北西から南東に細長く、標高は410m、南の水田地帯の標高が330mほどであるので比高は80mある。
しかし、丘陵上の盛り上がりのような山であるので、丘陵西側からは比高50mほどであるが、丘陵の東側からは30mの比高しかない。
斜面の勾配も緩いので地形に頼る要害性には難がある。
城域は結構広い。400m×80mほどあり、城域面積としては鴨ヶ岳城より広いと思われる。

城の南端部に配水タンクがあり、南端の曲輪は墓地になっているので小さな車なら墓地まで何とか行くことができる。
簡単に行けて、それなりの遺構が見られるのでコストパフォーマンスは高い。
城は4つの曲輪が並んだ連郭式であり、その周囲に前面に土塁を持つ曲輪(または堀)を巡らす。
曲輪間の堀幅は15mほどあり、長さは何と50mはある。
実はこの城へ始めて来たのは2002年の夏であった。折から夏であるため、草茫々で奥には入れず、おまけに目の前を紐状生物が横断したのを見てカブトムシとクワガタを捕獲して撤退。今回はそのリベンジである。
さすがに11月末となると紐状生物はおらず、草の勢いも衰えている。
墓地となっている南端の曲輪は改変を受けているので本来の姿は分からない。
この墓地の北側の曲輪Vは郭内に蔦がからんでいて分からないが西に土塁が残っている。
北に行くと果樹園であり、堀底から曲輪上まで桃畑である。畑の中に幅15m、幅50mの堀がくっきり残っている、
この堀の北側が本郭であり、堀底から切岸の上まで5mほどある。登ってみると土塁であった。
土塁上に立って本郭内を見るとこれまた藪であるが、本郭の全周に土塁が巡っている。
郭内は東西45m、南北80mほどあり広大である。
本郭北側の土塁も立派であり、北東端に虎口が開き、土橋が堀にかかる。

この堀も幅15m、長さ40m、深さ4mほどの大きなものであるが、堀底一面笹やぶであり、底が見えない。西側にも土橋がある。
この北が二郭であるが、この曲輪も広い。
本郭同様東西45m、南北80m位の広さがある。北端に土塁があって堀が先にある。その先も平坦地で城域ではあるが、ここには土塁や堀等はない。
その東にも一段下がって曲輪がある。面白いのは本郭と二郭の東と西を堀とすれば横堀、曲輪とすれば前面に土塁を持つ曲輪がぐるっと巡る。
本郭上からの深さは3mほどと深くはなく。周囲の土塁も低いので、横堀ではなく、前面に土塁を持つ曲輪とした方が妥当と思われる。
この曲輪の外は勾配が緩やかな斜面である。二郭とその周囲はきれいなクヌギ林であり、ここはカブトムシとクワガタの宝庫であると思われる。
以上がこの城であるが、ここは戦闘用の城ではなく、曲輪も広く平坦であり、居館ではなかったかと思う。
居館とすれば、高梨氏の居館「小館」よりはるかに巨大である。
果たして誰が住んでいたのだろうか?
住民の避難城とも見られるが、こんな低地に近い場所を避難城にするのは危険すぎる。
要害性も劣り、攻められたら皆殺しになってしまう危険性が高く避難城ではないだろう。
本郭(左)南の堀は50mにわたって続く。 本郭(右)西側の帯曲輪。左側に土塁がある。 曲輪U北側の堀。