鴨ヶ嶽城塞群
鴨ヶ岳城砦群は中野市街地の東に位置する比高300mの山々に築かれた高梨氏の居館である小館を守る城砦群である。 城砦群は主城の鴨ヶ岳城(標高688m)を中心に南東1qの山に鎌ヶ岳城(標高700m)、箱山峠(標高550m)を挟んで北側の山に箱山城(標高695m)の3城からなる。 当然、主城の鴨ヶ岳城が最も規模が大きく、鎌ヶ岳城、箱山城は鴨ヶ岳城の南北を守るとともに箱山峠、更級峠を監視する小規模な支城である。 右の写真は西方、立ヶ花丘陵にある安源寺城から見た鴨ヶ岳城砦群である。 |
高梨氏館(小館)(中野市小館)
伝説の美女「黒姫」が生まれ育った館である。
高梨氏の平常時の居館が小館(こだて)であるが、この館は鴨ヶ岳の西山麓、市街の東に整備され公園化して残っている。
あの「黒姫伝説」の舞台がこの館である。
土塁や堀等はある程度、復元した部分もあるであろうが東西130m、南北100mという典型的な方形館である。
土塁は高さ3.5mほどあり、堀も10m以上ある。
入口が西に表門他1箇所あり、東に裏門があった。(南から入るが公園にしたための後付けとのこと。)高梨氏がこの地を去って450年以上経つが、この館跡は地元では大切に扱われていたらしい。
普通は平地の館は耕地化や宅地化されたりして姿を消してしまう場合が多いので良く保存してくれたものである。
小生にとっては小学生の時読んだ美しくも壮絶な印象を残す「黒姫伝説」の舞台に来れたことが、何よりも感慨深かった。
小館の内部。周囲を土塁が巡る。郭内には 12棟の建物があったという。 |
館北側の土塁と堀跡。かなり立派である。 堀は半分宅地化で失われているようである。 |
館西側の堀。木橋当たりが表門であったという。 |
この館と高梨氏に関係する「黒姫伝説」は北信濃では「姨捨伝説」と並ぶ良く知られた伝説である。
この伝説にはいくつかのバージョンがあるが最も一般的なストーリーは次のような話である。
『中野の武将高梨政盛に黒姫という美しい姫がおり、ある日、殿様は黒姫をともなってお花見に出かけた。
するとその花見の宴で黒姫の前に一匹の白い蛇が現われた。
殿様は上機嫌で「姫、あの蛇にも酒盃をあげてやりなさい」と娘の黒姫に勧めた。
黒姫は蛇を怖がらずに、酒盃を白蛇の前に差し出すと蛇は嬉しそうにそれを飲み干すと去っていった。
その後、殿様のところに一人の立派な姿の若者が訪れ「自分は、あのお花見の宴の時、黒姫からお酒をいただいた志賀高原の大沼池に棲む龍だ。酒を飲ませてくれた黒姫の姿が忘れられない。黒姫をぜひ妻に貰いたい。」と懇願した。
当然殿様は断わるが、この龍はその後も、毎日毎日殿様のもとを訪れお願いした。
そんな龍の熱心な姿に、いつしか黒姫も心ひかれるようになる。
心配になった殿様は部下と相談し龍に策を仕掛けた。館の廻りを何周かすれば嫁にやるといい、館の周囲に刀を多く吊るしてた。このため、龍は傷だらけになった。
そして傷だらけの龍に対して殿は最後に「姫はやらん」といった。
「これが礼をつくした返答がこれか!」と龍は激怒し、本性を現わすと、たちまち天にかけのぼった。
そのとたん、あたりが暗くなり大嵐となり、洪水が何日も続き、田畑や人家畜が流され一面地獄のような光景となった。
これを見た黒姫は、矢も盾もたまらず「龍よ、私はあなたのところへ行きます。だから嵐をしずめておくれ」と龍に呼びかけた。
その声で洪水はやみ、龍が天から下り、黒姫を乗せると再び天にかけのぼった。
龍は妙高と戸隠の間の山に降りたち山頂の池で黒姫と暮らすようになり、その山を「黒姫山」と呼ぶようになった。』
エンディングが若干異なり、『洪水を見て悲しんだ姫が、山の池に身を投げ死んだ。
これを知った龍は洪水を止め、以後、その山を「黒姫山」と呼ぶようになった。』
という異なるバージョンのものもあり、この2つのバージョンが良く知られている。
(小生が小学生の頃の郷土読本に載っていた話は、後者のバージョンであり、黒姫が死んで終わるものであった。
この読本に載っていた黒姫のイラストが誰が描いたか忘れたが、これまた魅力的であった。)
ちなみにその池とは、黒姫山頂近くの火口湖「峰の大池」のことである。
この話は、夜間瀬川等の大洪水があったという事実と大洪水があった同時期に高梨の姫が亡くなったかした2つの話が融合してできた話ではなかったかと思われる。
この話に出てくる館こそが、この「小館」である。
なお、高梨政盛には娘がおり、その娘こそが長尾為景の母であり、後の上杉謙信、長尾景虎の祖母である。
つまり、黒姫のモデルになった姫がいたとすれば、その姫は上杉謙信の祖母の姉妹ということになる。
黒姫山の北が越後であり、嫁いだ方向に見える黒姫山の向こうが越後であるので、謙信の祖母がモデルなのかもしれない。
そうしたら黒姫の孫が謙信??想像のしすぎか・・・?
鴨ヶ嶽城(中野市中野)
小館の背後を守る大要塞である。
小館の標高が390mなので鴨ヶ岳城の比高は300mもある。
城まで行くには日本土人形館付近の駐車場に車を置いて七面山から登るルートが比高を40mほどかせげる。
鴨ヶ岳までの道はきついが整備された遊歩道がついているため、きついながらも快適である。
ここから七面山までは比高70mほどを登るが、すでにその途中から曲輪らしい平坦地が現れてくる。
これは植林に伴うものとも思えない。頂上の展望台も城郭遺構のようである。 小館と鴨ヶ岳城の中間地点でもあり、ここが出城なのであろう。 雁田大城に対する雁田小城のような位置関係である。鴨ヶ岳小城と言った方が妥当かもしれない。 ここからが本格的な登りになるが、山頂部までに3箇所ほどの物見のような平坦地がある。 箱山峠に分岐する部分は堀のようになっている。他にも堀切のような場所がある。 山頂の主郭部は南北600mにわたる壮大なものである。 一番北の端は岩場のような場所で物見の曲輪といった感じである。 南に向かうとようやく城郭遺構が見えて来る。ここが曲輪Tである。 |
段差3mほどで8m四方ほどの数段の曲輪があり、最も南に一段高く、高さ5mほどの物見台がある。 手前に大きな岩と竪堀がある。物見台の頂上部の広さは15m四方程度である。 その背後にお決まりの大堀切である。深さ7m、幅15m程度の規模である。 曲輪Uがこの南側である。曲輪Uは長さ40m幅8mの平坦地のあと南に高さ5m位の櫓台がある。 ここが山の最高地点であり、3角点がある。 最高地点のこの場所をこの城の本郭としている場合が多いが、曲輪は狭く、北方面の防備がやや貧弱であり、とても本郭とは思えない。 曲輪Uの南は再び大堀切である。 深さ8m、幅30m程度もあり豪快そのものである。 その南が曲輪Vである。30m×20mの大きな曲輪であり、本郭といってもいいかもしれないが、曲輪Uの櫓台から内部が丸見えであり、やはりここも本郭とはいえない気がする。 曲輪Vの南側から西側にかけては帯曲輪があり、南は長さ60mの下りの尾根道であるが、堀切を介して小曲輪がありその上の直径30mほどの大きな曲輪Wがある。 東側には土塁があり、南に高さ3mの土塁台がある。 ここが本郭にふさわしい感じがする。 その南に物凄い堀がある。 曲輪Wの土塁上からは12m位の深さがあり幅は20m位ある。 今まで見た中世山城の堀切の中では最大である。 どれ位の工事量であったか想像がつかない。 |
その南にも堀切があるので二重堀切となっている。
この先は鞍部までの長さ70mに渡り、比高20mの下りであるが、その間に曲輪が5つほどある。
鞍部には幅15mの箱堀となっている。堀の両側には土塁がある。
この南は尾根が幅が40mほどに広くなり、少しずつ登りとなる。100m近く行くと目の前に異様な光景が現れる。
東西50m位ある石塁である。石塁の手前は窪んで堀状になり、西側は横堀状になっている。ここが曲輪Xである。
この石塁は結構崩れている。この石塁の南の堀がまた凄い。
深さ10m幅20m長さが50mほどある。堀底には崩落した石が結構転がっている。
この先30mに小さな堀が1本あり、徐々に下りとなる。城郭遺構は300mほど南に石がごろごろしている径15m位の物見のような場所があるだけである。
ここから2回アップダウンを繰り返し、南の山に行くが、そこにあるのが鎌ヶ岳城である。
以上が高梨氏の鴨ヶ岳城であるが、信濃最大規模の山城である。
この城の工事量はどれ位であったのだろうか。
しかし、投入した工事量も結果としては、高梨氏にも領民にも何の効果ももたらさなかったのである。
黒姫もこの山に登ったのだろうか?
曲輪Tの南の土壇。櫓台だろうか? 手前に堀切がある。 |
曲輪U南の櫓台。ここが城の最高 標高地点である。 |
左の櫓台上から見た南側の堀切。 この先が曲輪Vである。 |
曲輪Vから見た曲輪Uの櫓台。 この間に大堀切がある。 |
曲輪V内部。公園として整備された 城はやっぱりいいなあ。 |
曲輪W北側の大堀切。 | 曲輪Wの東側には土塁がある。 | 曲輪Wの南側には一段高い土塁が ある。この曲輪が本郭だろう。 |
曲輪Wの南には深さ12mの大堀切 がある。カメラに収まらん。 |
曲輪Wの南には5段の曲輪があり、 末端の鞍部に箱堀がある。 |
曲輪X南には50mに渡り石塁が続く。 | 曲輪Xの南には深さ10m、長さ50m の巨大な堀が横たわる。 |
七面山西側から七面山山頂を見る。 途中に曲輪が展開する。 |
七面山南斜面の曲輪。 | 鴨ヶ岳城主郭部に登る途中の物見 台と推定される場所。 |
左の物見台から見た中野市街。 左下が七面山。 正面に飯綱山と黒姫山。 |
高梨氏は井上一族といわれているが、一族にしては本家筋の井上氏と対立したり、別行動をすることもかなりありとても同族とは思えない点が多くある。
このため、井上氏ルーツ説については、名門である源氏の看板が欲しくて経歴を詐称したのではないかとも言われている。
別説では奥州の安倍氏の出であり、奥羽から信州に逆移住した一族という説もある。
雁田城の解説板にアイヌのシャチ説があるが、高梨氏が安倍氏の流れとすればそのような説が出てもおかしくはない。
高梨氏は北信で最強の武力を誇った氏族であり、この高梨氏の「武」も安倍氏ルーツ説を感じさせる。
または、律令制時代に信濃に入った一族、善光寺仏をもたらした渡来系の氏族、大室古墳群の積石塚古墳を作った渡来系の一族の末裔なのかもしれない。高梨氏は源平合戦にも名が出てくるが、木曾義仲に従って上京した井上一族とは軍事行動を異にしている。
高梨氏からは大町の仁科氏が出ている。
南北朝時代の中先代の乱の混乱時においては 高梨五郎経頼が鎮圧に出動し、足利氏側に立って信濃の有力国人としての地位を確立する。
次に高梨氏がクローズアップされるのは守護小笠原長秀の強圧的態度に対する北信濃の国人たちの反抗である応永七年(1400)の「大塔合戦」である。
この時は村上氏と高梨氏が反乱軍の中心となった。
『大塔物語』によれば、高梨薩摩守友尊の軍勢は村上勢と同じ五百余騎とあり、強大な軍事力を有していたことが伺える。
この合戦により高梨氏の地位は上がり、貴族の荘園の権益を奪い取り、守護方であった市河氏の所領なども没収している。
この後、信濃も本格的な戦国時代に突入し、高梨氏も周囲の井上、須田氏等と対立抗争を繰り返す。
高梨氏の領土は戦国期には、現在の中野市、小布施町、山ノ内町、木島平村、飯山南部一帯であったが、当初は須坂市北部が本拠であったようであるが、戦国時代初期、永正10年(1513)中野の中野氏を滅ぼし本拠地を中野に移したという。
中野に本拠を移したのは平地が多く生産性が高い土地であったことによる。
高梨氏の特徴の1つは越後、長尾氏と婚姻関係にあったことである。
長尾為景が上杉顕定と戦った時は高梨政盛が出兵し、勝利に貢献している。
政盛の娘は越後守護代長尾能景に嫁して為景と二女を生み、その二女がまた、政盛の孫政頼の妻になるというように、深い婚姻関係を結んでおり、一種の軍事同盟が締結されていたようである。
為景亡き後の後継者争いにも長尾景虎擁立を支援していたという。
このことが上杉謙信が川中島に係る遠因となる。
中野に本拠を移して築いたのが、「小館」といわれる高梨氏館であり、背後の山に詰めの城、鴨ケ岳城が築かれたという。
しかし、小館は元々中野氏の館であったともいわれ、鴨ヶ岳城の前身に当たる城は中野氏により築かれていたらしく、正確には拡張・整備したというのが正解かもしれない。
一方で高梨氏は京都の文化を取り入れるのにも積極的であり、京より高僧を招き、寺院の建立を行なっている。
小館の発掘では枯山水の庭園が発掘されており、文化に対する姿勢が伺える。
高梨氏は中野に本拠を移すと戦国大名への道を歩むが、村上氏同様、十分な支配体制が整わない段階で、武田氏の侵攻を迎えてしまう。
高梨氏は庶家も多く、宗家も含め、山田高梨、中村高梨、江部高梨の高梨四家があり、その下に従属させた土豪がおり、これらが宗家を中心に結束していたようであるが、戦国末期の戦国大名の統制力に比べれば同盟に近い弱い結束力でまとまっていたようである。
武田氏はその諜謀を以って、次々と同盟関係を分断し、ほとんど大きな戦いをすることなく、北信濃まで手中に収める。
高梨氏もこれにやられる。山田高梨が諜略され、北に位置する家臣の木島氏も諜略されてしまい本拠の中野さえ維持できない状態に陥り、大要塞たる鴨ヶ岳城を放棄し、飯山城に移り、上杉謙信を頼ることになる。
川中島の合戦では高梨氏は上杉軍の先陣として戦い、高梨秀政、高梨頼親が活躍している。
上杉家中での高梨氏の動向は不明であるが、高梨秀政は同じ武田氏と戦う徳川氏家臣となった小笠原氏に仕え、遠江の高天神城で武田氏と戦い討死している。
どこの陣営であろうが、相手が武田であったことは偶然の一致なのだろうか。
おそらく上杉景勝時代には武田氏とは平和な関係となり、これに不服な高梨秀政が先代から領土を奪った憎き武田氏と戦う場を求めて上杉氏を離れたものであろう。
一方、頼親は上杉景勝に仕えて、一時的には中野の地に復帰するが、景勝の会津移封とともに、会津の地に移った。