中条城(飯山市緑中条)
山口城の東下を走る県道409号線を国道292号線と交差する藤ノ木交差点から3q北上した緑地区にある。
ここに「とざま文化センター」があるが、その南西500mにある北西から盆地部に突き出た尾根突端部が中条城である。
末端部が「入城」(いりじょう)、上の部分が「累城」(かさねじょう)といい2つの城が隣接した複合城郭であり、両城間は深さ7m、幅20mほどもある巨大堀切で分断されるが、構造的には同一の城といえる。

上側の累城は戦国期、この地が武田氏の脅威に晒されたころ、増築されたものと言う。
最高箇所は標高432mほどであり、末端部は385mほど。
この間、標高差50mほどに渡り曲輪群が展開する。

末端部は城主の子孫「今清水氏」の宅地@であり、ここが「入城」と言われている。
90m×20mほどの平場であり、文字通り、当時から居館であったのであろう。
南北朝時代に遡る城というのですでに700年間もここに居住していることになる。
まさに悠久の歴史である。

今清水家の裏を登って行くと墓地があり城域となり、入城の主郭直下の曲輪に出る。
この曲輪が二郭に相当する。
J形をしており、かつては畑として使っていたようであるが、今は耕作は放棄され草ぼうぼうである。
ここから10mほど上の本郭に登っていく道があり、石垣で補強Aされている。


本郭Bは25m四方ほどの大きさがあるが、一面の腰まで来る笹薮であり、曲輪の端で足が切岸に落ち、宙吊り状態となって脱出に苦労した。
主郭の北側に4mほどの高さの櫓台があり、石の祠がある。

その北側には巨大な堀C、D、Eが連続する。深さはいずれも5〜8mあり、勾配が急であり、塁状になっている。
堀底は箱堀状である。
入城の本郭Bから3つ目の堀Eが累城との境界となる巨大堀であり、ここは堀底が幅5mほどの箱堀となっている。

堀というより、通路であり、曲輪でもある感じである。
廃城から400年以上が経つが遺構がまったく風化・埋没していないのが驚きである。
ここは豪雪地帯であるが雪が風化から守っているのであろうか?

この巨大堀を越えると累城である。
巨大堀の上に小さな堀があり、ここから8m登ると累城の二郭、さらに12m登ると累城の主郭となる。
この曲輪は15m×40mほどの大きさである。
いずれの曲輪も酷い藪であり、写真では分からない。
本郭の北側が高さ5mほどの土塁状Fになっている。
櫓台とも曲輪ともいえるかもしれない。
幅は5mほど、長さは30mほどある。
あるいは風避け土塁の意味もあるかもしれない。
その北側に2本の堀G、Hがあり、北西側に続く尾根から分断している。
なお、2つの堀間は曲輪状になっており、土塁もある。
この部分を考慮すれば3重の堀と言えるかもしれない。

@居館の地には今も城主子孫の今清水氏が住む。 A入城の二郭から本郭を見る。
 そこまでの道が石垣で補強されている。
B入城の本郭を西側の櫓台から見る。
果てしない笹薮地獄である。
C本郭櫓台を背後、西側の堀から見上げる。 D入城背後、2本目の堀は鋭い。 E入城背後3本目の巨大堀は箱堀。
 累城との境もここであろう。
F累城はひたすら藪。
本郭西側の大土塁上だけがかろうじて藪がない。
G累城背後の堀 H累城最西端の堀。
ここまで来る人はほとんどいないでしょう。

この城は高梨氏一族、今清水越中守重継が文明年間に築城したというが、南北朝時代にまで遡るとも言われる。
武田信玄の侵攻が活発となると、今清水氏は上杉氏に従い、その頃、累城が拡張されたのではないかと推定されている。
一説には今清水氏と不和になった兄弟の中曽根氏が累城を築城したという説もあるが、あまりにも2つの城は隣接し、連携を取った城である。
この構造からは不和という要素は感じられなく、この説は違うであろう。
今清水氏は上杉景勝の会津移封に従いこの地を去り、廃城となったというが、一族の一部がここに残り、今も続いているのである。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。)

富倉城(飯山市富倉)
国道292号線(飯山街道)を北上し、新潟県妙高市との境付近に「富倉トンネル」がある。
その手前を左折し西の山方向に向かうと「富滝神社」がある。
この神社の裏山が城址である。

しかし、道などはない。
おそらく神社裏側は杉が植林されたようであるが、過疎化により手入れは行われていない状況である。
その斜面は水が沸いているのかジメジメしており、急斜面では滑るので難儀する。


↑ 富滝神社の裏を登れば城址であるが、神社も裏山も荒れている。過疎地の宿命か・・

ようやく山頂直下まで辿りつくが、藪状態、目視では平場や竪堀は確認できるのであるが、写真を撮ると悲惨。
藪しか写っていないのである。

神社裏から登ってたどりつくのは、二郭東下の腰曲輪@である。
ここはかろうじて藪は少なく、写真を撮ることができる。
標高は620mほどである。

二郭の切岸が高さ4mほど聳え立ち、ここを登ると二郭Aであるが、この曲輪は35m×20mほどの大きさ。
北側に幅8mほどの腰曲輪があり、北側は堀切がある。
この曲輪の南西側が本郭であるが登りとなる。
しかし、とんでもない藪であり、突破に時間がかかる。

@二郭の切岸と東下の腰曲輪。 A二郭内部、写真が撮れるのはここまで。 B 竪堀であるが・・何だか分からん。

本郭は標高が650mほど。
30m×20mほどの楕円形、内部は一面の藪である。
北側には腰曲輪がある。西側には深さ8mほどもある大きな堀切があり、2重堀切構造になっているようであるが、堀底は一面の藪で確認できない。
南側10m下に幅7mほどの帯曲輪があり、そこから3本の竪堀Bが下っているらしいが、笹薮でさっぱり分からない。
南東側に小さな堀切を介し、曲輪が確認できるが、内部は緩斜面であり、造りは甘い。
城域は標高差30mにかけて100m×最大60m程度の小さな規模である。

地元では「上杉謙信の狼煙台」「遠見城」といっているとのことであるが、その伝承の通りの規模であり、物見、狼煙台と言えるであろう。
眼下を越後と飯山を結ぶ飯山街道が通り、ここは上杉軍の川中島進撃の重要ルートである。
その街道を監視する城であるとともに、急な知らせを越後方面に伝える狼煙リレーの中継点でもあったのであろう。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。)

飯山城 (飯山市飯山)
長野県の北端、飯山市にあり、幕末まで使われた。
東に千曲川が流れ、千曲川に面した比高30mほどの独立丘にある。
築城年は不明であるが、鎌倉時代初頭、北条氏に反逆して、源頼家の子、千寿を擁立しようとして失敗し、この地に逃れた泉小次郎親衡によって築かれたという。
ただしこれがどこまで真実であるかは不明であるが、戦国時代の初めころまで泉氏の居城であったことは間違いない。
後に中野を本拠とする高梨氏の支城となった。

戦国時代、弘治3年(1557)に武田氏の信濃侵略で高梨政頼は飯山城に逃れ、上杉氏に支援を求める。
その後、上杉謙信の川中島出陣の基地として使われる。

そして、武田氏の北上が本格化。この飯山城が最前線となる。
このため、永禄7年(1564年)に大改修を行い現在の姿に近いものになったという。
これにより武田氏もついに飯山城を奪取することはできなかった。
上杉景勝と武田勝頼の和睦で飯山は武田氏に割譲されるが、武田氏が滅亡すると一時織田氏の武将、森氏が占拠するが、本能寺の変で撤退、再度、上杉氏の城となる。
天正10年(1582)以降は、上杉景勝の城となり、城代に岩井信能が入れられた。

上杉氏が会津に去ると、豊臣秀吉の家臣、石川光吉が代官として入るが、慶長3年(1598)に関一政が3万石で入封する。
しかし、翌年に美濃国土岐へと移封。慶長8年(1603)松平輝忠が信濃国川中島に18万石で入封し、その家臣、皆川広照が傅役として4万石で入るが、輝忠失脚に連座して除封。
その後、堀氏、佐久間氏、桜井松平氏、永井氏、青山氏と目まぐるしく城主が替わり、享保2年(1717)、本多助芳が越後糸魚川より入封し、以降本多氏10代が明治維新まで飯山城を居城とした。

しかし、明治元年(1868)、戊辰戦争の戦火を受ける。
官軍を先制攻撃した旧幕府軍衝鋒隊が侵攻。
松代藩に救援を求めたが間に合わず、城下を焼かれてしまう。これを飯山戦争という。
高々2万石程度の大名の総動員兵力は2,300程度。これじゃあ戦争は無理である。
城の建物は、廃藩後に破却や焼失によって失われている。
城は千曲川に沿った350m×200mほどの楕円型をした丘陵上に、南から本丸、二の丸、三の丸と並べ、西側に西郭、北側に外郭を置く。
右の写真は、北から見た城址である。
この丘の周囲を堀が1周していた。
江戸時代の飯山城には天守はなく、二重櫓が天守代わりであったという。
本丸は60m四方ほどの広さで、藩主の居館、櫓台の土塁Cと石造りの枡形Dが残る。
二の丸は70m×50m、三の丸は×50m、政庁があったという。

櫓が設けられ、門は全部で12棟あった。
西郭には重臣の屋敷があった。現在は市民会館が建つ。本丸周囲に一部石垣や枡形が残る。
大手は南側、飯山小学校の西部分にあったが、上杉氏時代は北の搦手門が大手門であったという。
建造物としては、南中門跡に民家から2層の城門@が再移築され現存している。
また、不開門が飯山市の妙専寺に、裏門と伝わる門が長野市田子の民家に、どこの門かは定かではないが城門が中野市江部の民家に、それぞれ移築され現存している。
この他に、2層部分を焼失しているが、長野市の信雙寺に大手門が移築され現存している。
現在は公園化し、本丸には葵神社E境内、二の丸Fは城址公園として整備されている。
堀は全て埋められている。
この飯山城であるが、予想以上に良い場所に立地している。この丘なら城を置いて当然である。
しかし、防衛拠点とするなら山城である。上杉謙信も重視した要因はやはり千曲川Gの存在であろう。
その川岸にあるということは河川交通による物資の輸送集積に他ならないであろう。おそらく千曲川の河岸に舟付き場があったのであろう。

@移築復元された南中門 A西郭南側の土塁。この下が大手門 B西郭から二の丸への虎口
C本丸北側の石垣造りの櫓台 D 本丸北側の枡形 E本丸に建つ葵神社
F本丸から見た北下の二の丸 G 本丸から見た東を流れる千曲川 H 西郭に建つ市民会館下

大倉崎館(飯山市常盤)
飯山市から国道117号を北上すると、常盤大橋をわたって国道は千曲川の東岸を走るようになる。
この常盤大橋の西側が館跡である。
なぜだか、館跡を国道が分断しているのである。
その西のたもとに解説板があり、その北側に堀と土塁が見える。


上の写真は南側の菜の花公園から見た館跡(左の森)、橋は常盤大橋。
この現地解説では「上野の中世館跡は大倉崎館跡とも呼ばれる中世(鎌倉〜室町時代)の豪族が居住した館跡です。
館主については竹内源内という言い伝えがありますが、今のところははっきりしたことは分かっていません。
千曲川に接した要害の地に築城し、中世の争乱期における地方豪族の居城としては典型的な様相を示しています。
館は東を千曲川の断崖に接し、北・西・南を幅10m、深さ5m以上の壮大な堀で囲んでいます。
堀の長さは北辺が34m、西辺が104m、南辺が42mあります。
昭和63(1988)年、国道117号の常磐大橋が館の中央に建設されることから発掘調査が行われました。
その結果、中国から輸入された白磁、青磁、能登半島で焼かれた珠州焼、越前焼、美濃・瀬戸焼等の焼き物の他、中国銭、鎧の一部の小札、釘などの鉄製品、茶臼、硯など貴重な品が多く発見されました。

これらのことから14〜15世紀頃、当地には有力な豪族(武将)が居城していた想像されます。
なお、現在は国道117号により南北に二つに分断されていますが、土塁や堀などは現在でもよく残っており、当時の面影を今に伝えています。
この城の断崖は、越後から平丸峠などの関田山脈を越えて運ばれてくる塩屋魚などの海産物を積み込んだ拠点でもありました。
城崖に残る棚のように続く通路跡は無風の碑に人力で通船(帆船)を引き揚げた往時を偲ばせる貴重な遺構です。」と記載されている。

北側の土塁と堀 国道南側の遺構は藪状態で曖昧。

しかし、館のド真中を国道117号で分断、常盤大橋を架けるというこのセンス、どうなっているのか、これこそ本当の「ナンセンス」である。
北側の遺構の残存率は良いが、南側は壊滅的である。
この館の性格は、千曲川の水運を管理する城だったのであろう。