金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)
敦賀市の北東部、敦賀湾に半島状に突き出した海抜86mの尾根先端部に築かれた山城である。
南北朝の戦いでの玉砕戦と織田信長の越前攻撃での「金ヶ崎の退き口」戦いの2つの合戦で名高い。
名高いと言っても、それほどの遺構はない。
地元の人に聞いても、遺構なんかないと言っていた。
しかし、うれしいことに遺構はちゃんとあった。はっきりした堀切と竪堀が2箇所だけであるが。

ここに城が築かれたのは、源平合戦の時、平通盛が木曽義仲との戦いに備えてという。
何といってもこの城を有名にしたのは、延元2年/建武4年(1337)の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸落ちした新田義貞による篭城戦である。
この篭城戦は次のような経緯で展開される。
主なところは「太平記」によるものであり、どのまで真実で、どこがフィクションかは分からない。
なお、この城については、「梅松論」は「無双の要害」と記し「太平記」は「彼の城の有様,三方は海に依って岸高く岩滑なり。巽の方に当れる山(天筒山)一つ。
城より少し高くして 、寄手城中を目の下に直下すといえども、岸絶へ、地けわしく崖にして、近付け寄れぬれば」と記している。
これは正確な記述である。

延元元年/建武3年(1336)湊川の戦いの勝利で足利尊氏が入京、このため、恒良親王、尊良親王を奉じて北陸落ちした新田義貞が、気比社大官司気比氏治に迎えられてここに入城する。
しかし、足利方の越前国守、護斯波高経らの軍勢に包囲され兵糧攻めにされる。

翌年2月5日、義貞は密かに脱出し、杣山城(福井県南条郡南越前町)で体勢を立て直し、2月16日、義貞は金ヶ崎城を救援を図るが敦賀郡樫曲付近で足利方に阻止される。
3月3日、足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られ、尊良親王、新田義顕(義貞嫡男)、城兵300名は城に火を放ち自害、恒良親王は捕縛され、3月6日に落城する。

しかし、翌延元3年/暦応元年(1338)4月、軍事力を回復した新田義貞に奪還されるが、再度、足利方に奪還され、越前国守護代甲斐氏の一族が入り、敦賀城とも称したという。
南朝方の拠点であったことで、戦前には重視され、1934年には早くも国の史跡に指定されている。

次にこの城が戦いに登場するのは、長禄3年(1459)5月の守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立に端を発した長禄合戦である。
この戦いで古河公方足利成氏征討の幕命を受けた斯波義敏が兵を引き返して金ヶ崎城を攻撃するが、甲斐方の守りは堅く、義敏方は大敗。
義敏は失脚した。

朝倉氏が越前を掌握すると、朝倉氏一族の敦賀郡司が入る。

次にこの城がクローズアップされるのは、元亀元年(1570)の織田信長による越前侵攻時である。
電撃的に侵攻した織田軍に対して、朝倉氏の反撃体制は整わず、郡司朝倉景恒は織田軍に開城する。
しかし、浅井長政が離反して近江海津に進出し,挟撃戦になったため、信長は木下藤吉郎秀吉らに殿を任せ、近江朽木越えで京に撤退する。(金ヶ崎の退き口)

このように何度もこの城が合戦の舞台になったのは、交通の要衝にあり、要害性に優れているからであろう。

城跡は金ヶ崎宮裏手の山一帯である。
このが金ヶ崎宮の地自体も中腹の平坦地に位置し、曲輪であったと思われる。
この裏手の山の南北は急勾配である。
この境内から遊歩道が延びており、この道を行くと城跡に行ける。

境内の地は標高40mほどであるが、背後の曲輪(二郭)は標高70m程度である。
直径40mほどの曲輪であり、焼米が出土したという。
ここの東に見事な堀切、二の木戸がある。
幅10m、深さ4mほど。竪堀が豪快に下る。

敦賀港から見た城址。 中腹にある金ヶ崎宮。ここも曲輪であろう。 二の木戸の堀切。
南北朝の騒乱ではここで大激戦
があった場所
と伝えられる。
一の木戸はほとんど埋没している。 二郭内部。直径40mほど、焼米が出たという。 三の木戸の堀切。竪堀が豪快。
三の木戸の北は登りとなる。 月見御殿と言われる場所。ここが本郭らしい。 月見御殿の先端からみた北下の日本海。

南北朝の戦いではここで大激戦が演じられ、飢餓で体力のない城兵は圧倒され、ここが破られたことで落城したという。
さらに東に40mほど行くと一の木戸があるが、こちらは埋没していて良く分からない。
ここを東に行くと天筒山(標高171m)まで続く尾根であり、のぼり道となる。
この先には城郭遺構はないが、天筒山には金ヶ崎城の出城がある。

この城は元亀元年の戦いで大激戦が演じられ、織田軍により落城、 朝倉景恒は金ヶ崎城に撤退したという。
二郭の西下に「三の木戸」があり、ここにも堀切と竪堀がある。
その先は上りとなり、150mほど行くと月見御殿という曲輪がある。
ここが本郭であったようである。
3段構成になっており、こんなところに古墳がある。
この場所は標高が86m。城内最高箇所である。
直ぐ下は日本海の絶壁であり、ここまで追い詰められれば逃げ場はない。

逆にこの崖なら海上からの救援もままならず、篭城の飢餓がすさまじかったことが、想像される。
この城の城域は、南北最大300m、東西400m程度であり、直線連郭式の山城である。

なお、金ヶ崎宮(かねがさきぐう)は、建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社でここで戦死した恒良親王と尊良親王を祀る。
明治23年(1890年)に建てられた。約1000本のソメイヨシノがあり桜の名所として知られている。
4月1日〜15日には神事・花換祭が行われる。

敦賀城(敦賀市結城町)
「関が原の戦い」のフィクサー、名将、大谷吉継が城主を務め、整備した城である。
しかし、城があったという地には、ほとんど何もない。
真願寺に城址碑があるので行ってみるが、城という感じはない。

北の闇加川が堀跡のような感じがしただけであった。(本当に堀跡だったそうである。)
城は直ぐ北が海であり、海に面していたことになる。

ここ敦賀は中世は国内最大の貿易港であり、港を管理する城、海運を管理する城だったようである。
詳細は不明であるが、大谷氏は水軍も持っていたようであり、関が原の戦いで前田氏が南下して小松城を攻撃すると、大谷吉継は、海路、金沢を攻撃するという噂を流し、これに乗せられた前田氏を引き返させている。 

越前国は天正3年(1575)、織田信長が朝倉氏を滅ぼすとともに織田領となり、柴田勝家を経て、天正11年、豊臣秀吉家臣、蜂屋頼隆が5万石で領主となった。
この時、敦賀城が築かれた。
天正17年、頼隆は九州出陣中に病没し、子が無かったため断絶、この後に入ったのが、関が原の戦いの主役の1名、大谷吉継である。

かれは5万7千石を領し、敦賀城を拡張整備し、3層の天守閣が建っていたという。
しかし、彼は慶長5年(1600)関が原の戦いで、自刃、敦賀は結城(松平)秀康の所領となり、代官が置かれた。
慶長年間(1596〜1615)に火災で城の一部を焼失したため、東堀を埋める等、規模が縮小され、元和2年(1616年)の一国一城令により、破却された。

寛永元年(1624)、敦賀は小浜藩主京極氏領となるが、京極氏は松江城に移り、川越城主酒井忠勝が小浜城主となる。
小浜藩も敦賀に陣屋を置き支配した。敦賀城のあった跡の中心部には、小浜藩の御茶屋、町奉行所、代官所が置かれた。
真願寺門前に建つ城址碑 ここが堀跡らしい。

城域は明確ではないが、北側は真願寺北の堀跡といわれる闇加川、南は八幡神社付近(来迎寺通り)、東は旧笙ノ川、西は敦賀病院の西の通りぐらいではないかと推定される。
敦賀西小学校の校門脇には敦賀城の案内碑が、また、真願寺門前には、城址碑が建っている。
なお、陣屋の建物の一部は、市内来迎寺に移築されている。