関が原古戦場(岐阜県関が原町)
関ケ原は中世から近世へのターニングポイントとなった場所である。
ここは、西日本と東日本を分ける境界でもあり、ここを境に東は角餅、西は丸餅、お雑煮に作り方も違うなど風習なども微妙に異なるという。
当然ながら交通の要衝でもあり、古代は東山道が通り、不破の関が置かれた。
現在は、東海道線、東海道新幹線、名神高速道路など日本の幹線が通る。新幹線に乗ってこの地を何度も通過しているのであるが、通過はあっと言う間、何がなんだか分からないうちにこの盆地を通過してしまう。
やっと、この地の古戦場巡りが実現した。遠路はるばる鉄道でやって来る者にとっては、レンタサイクルが重宝する。
しかし、関が原駅前にはレンタサイクルを置いている店がない。鉄道の高架橋を越えた北側の歴史民族資料館でやっと借りれる。ここまで駅から歩いて10分ほどかかる。
自転車さえあれば、後は移動は比較的楽である。とは言っても、ここは扇状地でもあり、北側の笹尾山方面が高く、石田陣地の前の大激戦が行なわれたという場所は、緩斜面である。
ここを登るのは自転車には少しきつい。(逆に南に走るのは、下りとなるため、全く漕がなくて済み楽である。)
ただし、ここは2q四方の狭い範囲に遺構が分散している。しかも、民家が建てこみ、道は狭く、自動車での移動は大変であるので自転車での移動がベストだろう。

関が原の地形は、北の伊吹山から尾根が広がる末端に位置する盆地であり、南端に平野部に突き出す様に笹尾山、天満山が位置する。
さらに南西に松尾山、東南に南宮山が、馬蹄形に関ヶ原の盆地を囲んでいる。
その盆地を東西に中山道、北へ北国街道、南へ伊勢街道が通っている。
不破関が置かれていた事からも、ここは、政治・軍事上の要衝の地である。

関ケ原合戦より以前、ここでは、古代日本を二分した天下分け目の戦いがあった。
壬申の乱、最大の激戦がここで行なわれた。
この戦いは、天智天皇が崩御後の実子である大友皇子(後の弘文天皇、近江朝廷)と大海人皇子(後の天武天皇) との後継争いである。
吉野に逃れていた大海人皇子は、近江朝廷側に不穏な動きがみられため、大海人皇子は兵を起こす密使を美濃に送り、まず不破の道を押さえ、合流する。
これに対して近江朝廷側が軍を送り、この地で激戦となる。
玉倉部付近で最初の戦いの火蓋が切られ、2軍に編成された大海人軍に近江軍は次第に押され、瀬田川の決戦で破れ、大津京が陥落、大友皇子は長等山において自害する。
なお、徳川家康が最初の陣を張った桃配山の呼名は、大海人皇子が壬申の戦の際、この地で桃を配って兵を激励したという言い伝えからきているという。
乱の翌年、天武天皇は、ここに不破関を置き、天下の変乱に備えたという。
中央に事件があった場合や謀反を起こし逃亡する者のあった時など、必ず固関使を遣して、関を固めさせたという。
その後、戦国時代、ここで近江の六角氏と美濃の斉藤道三の戦いも行なわれている。
これらに戦いは、関ケ原合戦の陰に隠れてはいるが、この地の重要性を示していると言える。

関が原の戦いは、家康が西軍をこの地に誘い込み、野戦で破ったということが言われているが、事実は全く逆だったようである。
西軍はこの関が原に東軍を誘い込み、包囲殲滅する作戦だったようである。
その証拠にこの地には、大谷吉継が既に布陣しており、屏風図などにも防護柵や切岸が描かれている。
これは即席のものではなく、あらかじめ準備していたものと思われる。
実際、宇喜田本陣の東側に2条の土塁と堀列が確認できた。したがって、野戦築城した西軍の陣地を東軍が攻めたと言えるだろう。
このパターンは長篠の合戦と同じである。また、西軍陣地の方が高い場所にあるので、軍勢が少なくても陣地で不利を補間できる。
実際、数の少ない西軍がかなりの善戦を見せるのは、この野戦築城陣地の効果が大きかったようである。
結局は、南の拠点、松尾山城を裏切りが予想される小早川に占拠され、裏切りが行なわれたため、南部方面が崩れ、防衛網に穴が開いてしまった誤算があっただけのことであり、戦術的には完璧にだったと思える。

合戦の経緯は、余りに有名な話であるので省略する。
この古戦場を廻っても、大した遺構はない。城なら遺構は残る可能性があるが、野戦陣地ならすぐに元の野原や畑に戻る。
激戦が展開された笹尾山の麓や天満山の麓はただの水田に過ぎない。
笹尾山だけが、防護柵列が復元されているだけ、つまり、どこにもあるような田舎の風景にすぎない。
ただし、かつてこの場所で激しい戦いが行なわれ、明石全澄、島左近、島津義弘などといった有名な武将が、この場所にいたという雰囲気が味わえるだけで十分である。
笹尾山で石田三成が焦燥感を持って見つめた光景がそっくりそのまま、目の前に展開しているのは感慨深い。
見てまわったのは一貫して西軍陣地ばかりであるが、管理人は合戦の勝者には興味はない。
大体、合戦の記録は勝者側で作成されるものが多く、しかも勝者に有利に書かれるものである。こんなものはどうでもよい。
それより、記録が少なく、滅び去った者もいる敗者側により大きな興味があるからである。
(掲載地図は国土地理院の25000分の1の地図の一部を切り取り、加工したもの。)

@開戦地。井伊、松平の騎馬隊数十騎が、先峰の福島隊の脇を通り抜け、宇喜多隊の前へ進出し発砲し、激戦の火蓋が切って落とされた。 この地を開戦地と定め、国史跡に指定しているが、実際の場所はもっと南の水田地帯の中だったようである。 A小西行長陣地。小西隊は、北天満山麓に6000の兵展開し、開戦と見るや、この山においてのろしをあげ、味方に戦闘開始の合図をした。午後になって小早川秀秋の裏切りで大谷隊が壊滅すると崩壊し、敗走する。 B宇喜田秀家陣地。南天満山頂から南麓一帯に 18000の兵を展開。明石全澄の指揮で東軍の福島隊と激戦を交え、圧倒したが、小早川の裏切りで大谷隊が壊滅。小西隊が崩壊すると崩れてしまう。
宇喜田陣地の東側に2条の土塁と堀列が確認できる。陣地は予め野戦築城されており、そこに西軍が入り、その陣地を東軍が攻めた形だろう。 宇喜田隊と福島隊の大激戦が行われた場所から小西陣地の北天満山ろく(左)と島津陣地(右の林)を見る。 C宇喜田陣地の南に不破の関の北土塁がある。ここも陣地として使われたのだろうか?
D島津義弘陣跡。島津は約1千の兵をつれて、この地に布陣した。正面に防護柵を結び銃手を三隊に分け、巧みな射撃で東軍を翻弄。西軍が崩れて戦場に孤立。最後は敵中突破という大胆な方法で脱出する。 三成は、北国街道を守備するため兵6千と豊臣の兵2千を笹尾山の正面に配し、防護柵を二重に構築、柵の前面に島勝猛を、中間に蒲生郷舎を置 き東軍と大激戦を交えた。 E石田三成が陣をおいた笹尾山山頂。ここで三成が指揮を採った。
E笹尾山山頂から見た北天満山(右)、その向こうに松尾山。この光景を400年前、三成が焦燥感を持って見つめたのだろう。。 F最後の決戦地といわれる場所。石田陣の南東400mの場所。周囲はのどかな水田地帯である。 G家康は陣頭指揮をするため、桃配山より軍を進めて、この陣場野に陣を敷いた。石田陣の南東1q。戦後、ここで首実検をした。周囲の土囲や中央の土壇は天保12(1841)年に幕府の命令により、竹中家が作ったもの。
H首実検後東西2ヶ所に埋葬した首塚。当時、この地の領主であった竹中家が戦後処理で造ったことが同家の記録に見える。   討ち取った首を洗ったという首洗いの井戸。 H井伊直政と松平忠吉の陣が東首塚の場所。