大阪城(大阪市)
大阪のシンボルである。
日本を代表する城郭であるのだが、あまり感銘は受けなかった。
なお「大坂城」「大阪城」と2つの書き方がされているが、ここでは「大阪城」と書く。

豊臣秀吉が築いたことで知られる城であるが、今の姿は大阪夏の陣で廃塵となった豊臣大阪城を徹底的に破壊し、その上に徳川氏が築き直したものである。
秀吉の痕跡を徹底的に排除し、徳川の威光を大阪の町民等にPRするための姿である。

城のイメージは名古屋城や駿府城、江戸城に非常に良く似た徳川氏独特の威圧的なものである。これに非常に嫌悪感さえ抱くのである。
その点、弘前城や松本城などは優雅さがあり、会津若松城や上田城などは歴戦の城という重みを感じる。
ちなみに上田城が友好城郭なのだそうだ。勿論、彼の縁であるが・・・。

豊臣秀吉が築いた大阪城は非常に興味があるが、徳川の城というとどうも・・・・とは言え、徳川氏が力任せに造った(造らせた)掘りの深さや石垣の壮大さは見ものであることは間違いない。

堀幅は内堀で数十m、外堀だと優に100mを越える場所もある。
石垣上からの深さは20m以上の場所もざらである。

城の主郭部は南北に細長い上町台地の北端に位置する。
左の写真@のように大阪城公園駅から城に行くと、青屋門を通り極楽門付近から天守閣がかなり高い場所に見えるが、そこが岡の突端部であったことが分かる。

ちなみに天守付近の標高は32m、かなり土盛りされているとは言え、寝屋川付近が0m地帯であるので、比高は30mほどあることになる。
この立地条件は名古屋城とも良く似る。
平城ということになっているが、主郭部だけを見れば岡城と言えるのだろう。

この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れていたといい、多分、その跡が大川であり、外堀の北側部分もその一部であろう。
その淀川の水運を利用すれば、京都に行くのも簡単であったという。
戦国末期にはこの場所に石山本願寺があった。
石山本願寺は織田信長の攻撃を何度も撃退したことで知られる。
その理由の1つには立地状の優位性も当然あるだろう。
しかし、最後は信長に屈服し、この地を退去する。

その寺は天正8年(1580)に焼失してしまうが、その跡地に豊臣秀吉が大阪城を築城する。
石山本願寺との戦いでこの地の立地上の優位性を認識してのことであることは想像が付く。当然ながら、水運、海運上の立地にも優れている地でもある。
豊臣氏の大阪城 は輪郭式であり、本丸を中心に大規模な郭を同心円状に連ね、間に内堀と外堀を配する。

秀吉は大阪の市街から天守がよく見えるよう天守の位置、街路などを工夫したとも伝えられている。
天正11年(1583)から築城を開始し、完成に約15年を要したという。
関が原の戦い後も工事が続けられていたことになる。
規模は現在の4〜5倍の面積があったという。

特に台地に続く西側から南側にかけてが、城の弱点と言われ、徹底的に強化されている。
右の写真に示すこの方面の堀は人工により、台地を掘削したものであり、物凄い土木工事量であったことが推察される。

さらに現在市街地になっているが、西方から南方を囲むように惣堀が存在し、大阪冬の陣の直前には玉造門の南方に真田幸村(信繁)が巨大馬出、「真田丸」が構築されている。
ここでの冬の陣最大の激戦は良く知られるところである。
A南外堀 台地を人間が掘り切ったものである。 B 西外堀 遠く乾櫓が見える。
徳川氏が再建した大阪城においても南外堀に面して6つの櫓が林立し、この方面の防衛を考慮していることが良くわかる。
現存しているのが一番、六番櫓である。
左の写真Cは六番櫓を二の丸内から見たものである。
堀越しに見た櫓ほどの迫力はないが、石落しを2ヶ所設け、窓腰狭間、石狭間も多い。
窓の内側には障子を建てて内室を画し、居住構えが完備しているという。
寛永5年(1628)の建築、天保年間(1830年代)に大修理をした。
二重二階本瓦葺、面積/一階217.21u 二階138.68u 延355.89u

その堀を埋めてしまえばどうなるかも自明の理である。

その後の城の歴史は、そのまま、安土桃山時代から江戸初期にかけての日本の歴史のメイン部分そのものである。
周知のとおり、豊臣氏の本拠地となったが、大阪夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失。その後、徳川氏が再建。

豊臣氏が築城した当初の城と、その落城後に徳川氏が再建した城では縄張や構造が変更されているが、両者を重ねてみると、曲輪の位置関係等の基本構造、堀の位置、門の位置などは豊臣時代と基本的に大きな違いはないという。
それはそうであり、埋めたところを再利用した方が安上がりに決まっている。

大きくイメージチェンジをしたのは、城のシンボルである本丸と天守部分中心のようである。
元和6年(1620)から再建が開始されるが、徳川氏は豊臣氏築造の本丸に高さ数mの盛り土をし、縄張、建物デザインを変更し、大阪の町に豊臣氏の影響力と記憶を払拭させるとともに畿内や西日本に対する徳川幕府の支配拠点としたという。

しかし、皮肉なことに「豊臣氏の影響力と記憶の払拭」は完全に失敗。
払拭されているのは徳川氏の記憶である。

城内、どこに行っても太閤さんである。
秀吉の兜と甲冑を着た案内人がいるくらいである。も
う1人のヒーローはここでは真田幸村である。
再建した徳川の「と」の字さえない。
徳川が大阪城を奪ったが、その徳川が再建した大阪城は今では豊臣秀吉が造ったことが常識になっている。
皮肉なめぐり合わせである。
当然ながら徳川氏の別の目的は、この再建工事を口実に諸藩に財政を支出させ、財力を削ぐことであった。

再建後の城郭の面積は豊臣氏大阪城の4分の1の規模になったが、天守は豊臣氏の天守を凌ぎ、堀の規模は江戸城をしのぐ程のものとなったという。

この再建された徳川大阪城の天守は寛文5年(1665)、落雷で焼失したまま再建されず、その他の建物も、大手門や多聞櫓などの一部を残して明治維新(1868)の混乱の中で多くが焼失してしまった。

昭和6年(1931)、左の写真Dに示す天守閣は再建されるが、太平洋戦争の空襲で、さらにいくつかの江戸時代の建物が焼失し、天守閣も一部、被害を受けたという。

この天守が今の天守であり「大阪夏の陣図屏風」の豊臣時代天守閣図をモデルに、鉄筋コンクリート造りで復興されたものという。
当然、わが国の天守閣復興の第1号である。


戦後は城域を公園化し、昭和28年から44年にかけては残存の櫓などの修復、そして天守は平成7〜9年に大改修を行いリニューアルした。
再建天守とは言え、初期鉄筋コンクリート建築として価値があるということで、平成9年(1997)には国の登録有形文化財に指定されている。

なお、この復興天守は豊臣氏時代の天守閣のデザインをベースにしているが、それなら外観は「黒」であるが、外観だけは江戸時代の天守閣のように「白」ベースである。
この辺が折衷的で中途半端なデザイン。

ちなみに、今の復興天守の壁を黒くしてみたのが右の写真である。
豊臣大阪城の天守はこんなイメージだったのだろうか?

仮に豊臣時代の天守閣のイメージに変えることも可能なのであろうが、昭和6年からの大阪のシンボルとしてのイメージが強すぎ、変えることができなかったのであろう。

余談であるが、大阪城の三代の天守のうち、今のコンクリート天守が最も寿命が長いそうである。

そんな大阪城、今は小さくなってしまったとは言え、全てを見るのには膨大な時間が必要である。
なので、その一部を。

大手門(重要文化財)Eは二の丸西側の西外堀Bと南外堀Aの間にかかる土橋を経て入る城の正門。

元和6年(1620)に建築したが、天明3年(1783年)に落雷で破損し、嘉永元年(1848)に補修をし、昭和42年解体修理をした高麗門形式の門。
ここを入ると枡形があり、正面に多聞櫓(重要文化財)がある。
多聞櫓とは言うが、大手門枡形の石垣の上に建つ部分は櫓門である。
桝形に入った敵を攻撃する銃眼や槍落としがある。東側は続櫓になっており、この部分が堀に面した石垣上を回廊状に巡らされる多聞櫓と言える。
大手門Eに通じる土橋 大手門を入ると枡形があり、多聞櫓Fがある。

大阪城に残された江戸時代の建築物としては最大規模。

内部が公開された時に行ったので見ることができた。
堀側が廊下状になっており、銃眼がある。
曲輪側は部屋に仕切られており、ここは兵士の宿泊施設であったという。
寛永5年(1628)に建築されたが、天明3年(1783)の落雷で焼失し、嘉永元年(1848)に再建されたものであり、矩折一重一部楼門構え本瓦葺、面積 600.45u

堀側(左)が廊下になっている。 曲輪側は仕切られ小部屋になっている。 堀側に銃眼が開く。
千貫櫓(重要文化財)は、大手口の城門櫓である多聞櫓をサポートするための隅櫓の一つで、多聞櫓の少し北側に建つ。
大手門に至る土橋を渡る敵兵を横から銃撃するのが役目だろう。
この櫓は乾櫓とともに徳川氏による再建当時のものであり、元和6年(1620)に建築されたことが、昭和36年(1961)の解体修理の際、土台の木材から「元和六年九月十三日御柱立つ」の墨書が見つかり、この建物の棟上げ式の日がはっきりした。

櫓の名称の由来については織田信長による石山本願寺攻めの時、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、あの櫓さえ落とせるなら銭千貫文与えても惜しくはないと話し合ったというエピソードが伝えられている。
大手土橋から見た千貫櫓G、右が多聞櫓F 千貫櫓の内部、390年前の姿である。

二重二階本瓦葺、面積/一階199u 二階143.32u 延342.32u

桜門I(重要文化財)は二の丸から本丸へ入る正門である。その左右は壮大な空堀Hとなっている。
名前は豊臣大阪城時代にも門前に桜が植えてあり、桜の馬場があったことによるという。

桜門は、徳川氏再建時、寛永3年(1626)に築かれたが、明治維新の城中大火(1868)で焼失し、明治20年(1887)に再築されたもので高麗門本瓦葺、柱真間隔が5.15m。

門を入ると桝形になっており、正面に蛸石Jと呼ばれる城内第1位の巨石がある。
およそ36畳敷(60u)推定重量130tという。

本丸西の空堀H 本丸の正門、桜門I 本丸の枡形内の巨石130tの蛸石J

その先が本丸である。
本丸内は売店や庭園があるだけであるが、かつては本丸御殿があった。
政庁でもあった。徳川大阪城時代、14代将軍徳川家茂が長州征伐の指揮を取ったり、15代将軍慶喜がここで鳥羽伏見の戦いの指揮をとった。
その後、慶喜の大阪脱出の混乱の中で城は無法地帯となり、慶応4年(=明治元年、1868)、動乱の中で全焼、後、明治18年、跡地に和歌山城二の丸御殿の一部が移されたが(紀州御殿)、これも昭和22年(1947)に焼失してしまった。

西の丸Kは二の丸の内、本丸の西に広がるこの一帯である。
豊臣の時代には秀長の屋敷があり、秀長没後には正室の北政所が一時住み、続いて徳川家康が伏見からここに移って五大老筆頭として政治を取り仕切ったという。
関が原のきっかけになった上杉征伐にはここから出陣した。
その当時、本丸の天守(淀君、秀頼)に対抗し、天守を築いたという。
大阪夏の陣で焼け、徳川氏が再興すると、蔵が立ち並び、これらの蔵は鍵の数から「いろは四十八蔵」とも呼ばれた。
明治以降は軍用施設として使用されていたが、西の丸跡地と、その南側の城代屋敷跡などを一つにまとめ、昭和40年(1965)西の丸庭園として整備された。

隠し曲輪Lは、本丸の帯曲輪である。
豊臣氏大阪城時代には本丸の周囲に帯曲輪があり、その外側が堀だったようであるが、徳川氏による再興後、この部分のみが残っただけである。
出入口が狭くて敵から気付かれにくく、兵士を隠す場所だったことから、一般に「隠し曲輪」と呼ばれた。
江戸時代には焔硝蔵が置かれ、立ち入りが制限されていた。そのことから、ここに秘密の抜け穴があるとの伝説も生まれたという。

山里丸Mは大阪夏の陣で淀殿、秀頼母子が自刃した場所として有名。
豊臣時代とは若干の位置は異なるようだが、それほど変わっていないらしい。
天守の北側、一段低い場所にあり、豊臣氏大阪城時代には、山里の風情を保つ松林や、桜、藤などの木々が繁り、いくつもの茶室が建っており、秀吉や、その家族が茶会や花見を楽しむくつろぎの場所で、秀吉の生母、大政所の居館もこの中にあったと伝えられている。
徳川氏再建後は、山里加番(城役人)の建物が建ちならんでいたが、曲輪名はそのまま使われた。

天守から見た西の丸K 本丸西の内堀と帯曲輪の隠し曲輪L 淀殿、秀頼母子自刃の地、山里丸M

山里丸を出ると二の丸との間に極楽橋@がかかる。もとは幅3mの木造橋であった。
寛永3年(1626)にかけられたが、明治維新の混乱で焼け、昭和40年(1965)に鉄筋コンクリート造りで復興された。
この橋の名称の由来は、石山本願寺時代にまでさかのぼると推定されており、「豊臣時代大坂城本丸図」にもこのあたりに木造橋が描かれている。

本丸北の北内堀N 青屋門O 東外堀Pは幅100m以上ある。

青屋門Oは、大坂城の搦手の門で、元和6年(1620)頃創建され、算盤橋と称する引橋(押出し、引入れ自在の装置)が寝屋川に架かっていた。
この門は、昭和20年(1945)8月の空襲で大破したが、昭和45年(1970)大阪市が残材をもって現状のものに復元した。そのため、凄く古い感じがする。名前の由来は本願寺時代、この門外付近に青屋町があったことによるものという。
(大阪城のHP、パンフ等を参考、案内図は極楽橋のたもとにあったものを流用)