岐阜城(岐阜市)
岐阜市を見下ろす標高328.9mの金華山の山頂にある城。
岐阜市内の標高が15m程度に過ぎないので比高は300mをはるかに越える。
この山は絶壁状態で険しく、遠くからでもやたら目立つ。しかも独立峰である。濃尾平野の展望は抜群である。
ここに城を造らないほうがおかしい。ただし、短期の篭城戦にも役にはたつだろうが、長期の篭城には不向きな感じである。
どちらかというと、統治のためのパフォーマンスとしての城を置くにはぴったしの場所である。
だから斎藤道三も織田信長もここに着目したのだろう。ただし、何度も落城を経験しているので、山岳レンジャーなら小人数で奇襲攻撃が出来そうな感じでもある。
とても周囲を監視できるような見通しもないし、山頂部に収容できる人員は数百人が限度である。こういう点からも、やはり、象徴のための城という感じがぴったしである。
しかし、この城は岐阜一番の観光地。麓からロープウェイで簡単に行くことができる。
到着した場所付近が三郭である。少し北に行った気象観測塔がある付近が二郭であったという。
山頂部には模擬天守を始め、レストランやリス村など色々な建物があり、観光地化しているが、少し道から外れると豪快な竪堀などが当時のまま残されている。
主要部分は山頂部500m程度に渡ってだろう。

この城、斎藤道三の稲葉山城、織田信長の岐阜城として有名であるが、当然であるが、その昔から城はあり、原型の城はさらに遡り、建仁元年(1201年)二階堂行政が築いた砦という。
この砦は二階堂行藤の死後、廃されるが、戦国時代、美濃守護代斎藤利永が再興する。
しかし、大永5年(1525年)、斎藤氏の家臣長井長弘、長井新左衛門尉により奪われる。そして斎藤道三こと、長井新九郎規秀の登場である。天文2年(1533年)のことである。
彼は長井新左衛門尉の子ということになっているが、本当のことかどうか?
斎藤道三がこの城に手を加え拡張したという。
道三が息子、斎藤義竜に討たれ、さらに龍興の代になると、永禄7年(1564年)家臣の竹中半兵衛重治と安藤守就に城を奪われるという事件が発生する。
城はしばらくして斎藤龍興に返還されるが、織田信長の侵略の手が延び、永禄10年(1567年)木下藤吉郎の活躍により稲葉山城が攻略され、龍興は越前に逃亡する。
信長は本拠地を小牧山からここに移し、地名を岐阜と改め、城の名も岐阜城に改名。
安土移転後、織田信忠が城主になるが、天正10年(1582年)織田信忠が本能寺の変で倒れると、家臣の斎藤利堯が岐阜城を乗っ取る。
しかし、明智光秀が羽柴秀吉に倒されると降伏。織田信孝が城主になるが、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで失脚し、羽柴氏家臣の池田元助が小牧長久手の戦いで戦死後は池田輝政)ついで織田秀信が城主となる。

慶長5年(1600年)、関が原の前哨戦で西軍についた織田秀信は、福島正則や池田輝政らの攻撃を受けて落城。
この合戦の後、廃城となり、建物は加納城に移築された。
明治43年(1910年)に日本初の模擬天守が建設されるが、昭和18年(1943年)2月17日早朝に失火のため焼失。
2代目の模擬天守が昭和31年(1956年)7月25日が落成した。
この天守閣は想像の産物かと思ったが、古文書を参考に城戸久(名古屋工業大学名誉教授)が設計したものという。
おそらく池田輝政が整備した当時の天守の姿が今の再建天守ではないだろうかという。

ロープウェイ途中から見た天守閣 @ロープウェイ駅近くが三郭。一の門がある。 A上格子門、両側に石塁がある。
Bこの階段を登ると二の丸門 C二郭から天守郭に建つ本郭までの尾根道。
両側には竪堀が斜面を下る。
D天守郭から気象観測塔が建つ二郭を見る。
ここに太鼓櫓があったという。
E本郭と二郭の尾根筋には竪堀が両側にある。 F二郭と三郭の間には白壁があったという。 G二郭と三郭の間にある岩盤堀切。
Hおなじみの復元天守閣 I本郭の東端には隅櫓があった。 天守閣から見下ろした西下の長良川。
麓の岐阜公園にある居館跡の堀。 居館跡の石垣 居館跡の石垣の下から斎藤氏時代の遺構が発見されている。

永禄12年 (1569年)来岐した宣教師ルイス・フロイスの書簡によると織田信長の時代には、山頂部で信長の家族が暮らしていたという。
しかし、麓の岐阜公園の居館跡の下には斎藤氏時代の遺構が埋まっていたというので、やはり山頂部には居館はあったかもしれないが、臨時のものであろう。
この山の険しさ、並みではない。道三も信長もその家臣達も、いちいち山頂まで登り降りをしていたとは思えない。
それに山頂部は岩だらけであり、居住には不向きな感じがする。
麓には居館跡が発掘され(一部、復元)されている。ここには迎賓館や3層の天守があったというが、慶長5年(1600年)、関が原の前哨戦で焼失してしまったという。

加納城(岐阜市)
岐阜駅の南側にある。駅から歩いて行ったのだが、なかなか遠い。道に迷ってやっと到達。
時間は5月の午後6時を回り、少し暗くなってきた時間帯であった。
予想以上にでかい城で驚いたが、残っているのは本丸部分だけであり、堀は完全に埋められ、本丸以外は完全に市街地に埋もれてしまっている。
岐阜城に比べて大切にされていないことが良くわかる。
近世城郭として知られるが、もともとここには城があった。文安2年(1445年)に土岐氏の家宰の斉藤利永によって築城された「沓井城」がベースという。
おそらく、本丸部分がこの城に相当するのではないかと思われるが、この城は天文7年(1538年)には一度、廃城となっている。
関が原の合戦後、慶長6年(1601年)岐阜城が廃され、その代わりに沓井城の跡地に築城されたのが、この加納城である。
家康が信長の影が見え隠れする岐阜城を嫌ったということと、統治のための平地の城を求めたためという。

建築資材は岐阜城のものを用い、岐阜城の天守閣を二の丸御三階櫓としたというが、天守は築かれなかった。
加納城には、慶長8年(1603年)に家康の娘婿の奥平信昌が入り、居城となるが、 寛永9年(1632年)に奥平氏が断絶、その後、大久保忠興が入城、寛永16年(1639年)に戸田氏が三代に渡って居城、宝永8年(1711年)に安藤氏、宝暦5年(1755年)に永井氏が加納藩主となり、明治を迎えた。
明治になると城は破却され、建物は売却。昭和4年(1939年)、本丸の地に陸軍第51航空師団司令部が置かれ、戦後は自衛隊の駐屯地であった。
駐屯地が廃された後、昭和58年(1983年)国の史跡に指定され、加納公園として公開された。
もともとは南北150m、東西100m四方ほどの本丸の東に50m四方の出っ張りがあり、鉄門があった。
ここを出たところが堀があり、極楽橋を渡ると二の丸であった。しかし、堀跡は人家である。

遺構は本丸の周囲に土塁がほぼ完全に残り、外周部は石垣である。本丸内からの高さは4m程度である。
北西の端が一段と高くなっている。ここが天守台であったというが、天守閣は建てられなかったという。
堀は完全に埋められ、駐車場やゲートボール場、公園となっている。二の丸以下はほぼ完全に隠滅している。
二の丸は100m×150mほどの規模であり、北東隅に岐阜城から移築された天守が御三階櫓としてあったという。
その北が厩曲輪、三の丸と続いていた。広さはともに100m四方程度である。一方、本丸の南は大藪曲輪があり、臆病門で本丸とつながっていた。
城全体は南北約600m、東西約300mくらいの規模であり、堀は二重であったという。


西側の堀を長刀堀といい、通りになっているが、その通り沿いが低くなっており、堀跡であったことが分かる。
二の丸の東は荒田川が外堀となっていた。

右の航空写真は昭和62年の姿(国土地理院撮影)

@本丸北東端の石垣 A本丸内部 B本丸東側の鉄門があった突き出し部内部。
C本丸南東端の石垣 D本丸北西端の天守台の土塁。 D天守台の土壇。

大垣城(岐阜県大垣市)
関が原の戦いに登場する城。それもそのはず、ここ大垣は、交通の要衝、関が原の入り口に位置する。
大垣駅からメインストリートを南に500m行くと、へんてこな橋がある。橋の近くで川が急カーブを描いている。
実はこれが、堀の跡なのだそうだ。
橋をさらに南に行くと、大通り脇の裏通りのような道の向こうに城門が見えるではないか。
これが、大垣城の本丸なのである。
この本の丸には、戦災で焼けた四層四階の天守が再建されて、その他に東門、多聞櫓、艮櫓、乾櫓も復元されている。
しかし、本丸は小さい。精々70m四方程度の広さである。街中の公園といった感じである。

平地部分から8m程度、2段に土盛りした程度のものである。
ちょうど、巨大円墳を転用したような感じだ。

周囲は水堀であったはずであるが、本丸周囲の水堀は完全に埋められ、民家が城の脇まで建てられている。
南に位置する二の丸も周囲の巨大な堀も失われ、南側、西側は大垣公園になって、市民の憩いの場である。ここには、城らしい感じはない。

名城と聞いていたのだが、余りの現実とのギャップに唖然。
大垣城は天文4年(1535)に美濃の守護大名土岐氏の重臣、宮川安定築城説と近江源氏の流れをくむ竹腰尚綱が明応9年(1500)に築城したという2つの説がある。
交通の要所だけあり、その後も大物が城主を務めている。
天文13年(1544)には織田信秀の手に落ちている。その後、斉藤氏が奪還、以来、豊臣秀吉が小田原北条氏を征伐して天下を統一した天正18年(1590)までに、氏家直元、池田恒興、羽柴秀勝などの8氏がめまぐるしく城主を務めている。
当初から湿地帯を防御物とした城であったようであり、南北に団子状に本丸と二の丸の2郭が並び、その周囲を水堀で囲んでいた小規模な城であったようである。
イメージとしては、周壕を持つ巨大前方後円墳のような姿ではなかったと思われる。
今残る本丸は、小さいので、築城当時の姿をそのまま伝えているようである。
その後、次第に各氏が拡張修築して、周囲に輪郭式に三重に曲輪と堀を回し、家臣団の屋敷、城下町を持つ要害堅固な大きな城となった。
慶長元年(1596)、伊藤祐盛の代に、天守閣が築かれた。
西側から見た大垣城本丸の再建天守と隅櫓。撮影位置は堀跡。下に戸田氏鉄の騎馬像が建つ。 復元された隅櫓。 東門
本丸南側の石垣は隙間だらけの「笑い積み」。 西門。昭和60年に復元された。 堀跡は川となっている。結構、きれいで魚がいた。

この城がクロースアップされるのは、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いである。
この戦いでこの大垣城は石田三成が率いる西軍の拠点となり、小西、島津、宇喜田の軍勢が終結し、清洲城を拠点とした東軍の福島正則、黒田長政らの諸将の軍勢に対した。
東軍は木曾川を渡り、岐阜城を攻略。大垣城西北のお勝山に陣取り、徳川家康もお勝山に到着した。
このため、大垣城の西軍主力は、当初の計画どおり関ケ原での包囲殲滅戦を行なうため城を出る。
関ケ原の戦いは、小早川秀秋の裏切りで、わずか半日足らずで西軍が敗れてしまい、この大垣城は孤立する。
大垣城には石田三成の娘婿である福原長尭が率いる7500の兵がいた。
関ケ原で東軍の勝利となった後、攻撃の先は大垣城に向く。
城内の秋月、相良らの諸将は東軍に寝返ったが、長尭は本丸に籠って奮戦する。
最後は、徳川家康からの降伏勧告により、城兵の命を助けることを条件に福原長尭は大垣城を開城し、剃髪して仏門に入り自刃する。
この福原長尭という武将は余り有名な人物ではないが、さすがに石田三成の一族であり、裏切りや身の保全を第一に考えた多くの武将と比較すれば、大した武将であったと言えるだろう。
 翌、慶長6年(1601)、徳川家康は石川康通を大垣城主にするが、その後、松平氏、岡部氏を経て、寛永12年(1635)戸田氏鉄が10万石で入封。
以後、戸田氏11代の居城として明治維新を迎える。
 大垣城の天守閣は四層四階であり、昭和11年に国宝に指定されたが、太平洋戦争の戦災で焼失してしまった。
昭和34年に外観をそのままの姿で天守閣が再建され、さらに、乾隅櫓と艮(うしとら)隅櫓、西門と内柳口門が復元された。
南側の鉄門(くろがねもん)跡の石垣は、自然石を荒々しく積み方法のため、隙間だらけで、隙間が多いため笑い口のように見えるので「笑い積み」と呼ばれる。