小谷城(長浜市(旧湖北町))
 
浅井長政とお市の方で名高い北近江の巨大山城である。
この城、近くに行くと、お土産だろうが何んだろうが、必ず悲劇のヒロイン「お市の方」である。
もちろん、城は日本100名城に数えられる。100名城にはかなり怪しい感じの城も多いが、この小谷城は歴史、規模、遺構、100名城にふさわしい城である。

築城は戦国大名浅井氏の祖、浅井亮政という説が有力である。(もっと以前から城があったかもしれないが)
彼はもともとは在地の土豪に過ぎない存在であったが、大永4年(1524)に起こった国人領主を巻き込んだ北近江守護京極氏の跡目争いの間隙をぬって台頭し、北近江一帯の支配権を確立し、そして拠点として築いたのがこの小谷城であるという。

左の写真は居館があった西下の清水谷から見た小谷城である。ここから見上げても、覆いかぶってくるような凄い迫力がある山である。

この経緯は対立と抗争、和睦と場面場面がコロコロ変わり複雑であるが、最後は浅井亮政が国外追放した京極高清と和睦、小谷城に迎え入れて守護代となり、守護京極氏の名のもと北近江一帯を支配することとなる。

この経緯は上杉謙信の父、為景の越後支配とも似る。
いずれにせよこの小谷城は下克上の落し子として誕生し、戦国時代の終息の過程で歴史から消えることになる。
浅井亮政が北近江を支配すると、南近江を支配する六角氏と対立することになる。
六角定頼は大永5年(1525)小谷城を攻撃。亮政は越前朝倉氏に援軍を頼み、これを凌ぐ。
これ以降、浅井氏と六角氏は対立し、浅井氏は朝倉氏と同盟関係を結ぶようになる。

しかし、後者の関係は同盟というより、半従属関係に近いものであり、織田と徳川の同盟関係に近いものであったようである。
六角氏との対立は浅井久政の代になると浅井氏の劣勢となり、浅井氏は天文22年(1553)、地頭山合戦で敗れ、六角義賢と和議を結び、久政の嫡男新九郎は六角義賢の一字を押し付けられ賢政と名乗らされ従服させられてしまう。

やはり2代目、久政の能力は家を最後には滅亡させてしまうので、劣っていたと言うべきであろう。
しかし、久政の子、賢政は優秀な能力があったようであり、永禄2年(1559)、重臣と図り父・久政を隠居させ、長政と名乗り、六角氏に対する反撃を開始する。この経緯、武田信玄の父信虎追放や上杉謙信の兄晴景隠居と似ているが、完全に隠居させられず、影響力を残してしまったのが、後の浅井氏滅亡につながる。
対六角氏との戦いは永禄3年(1560)野良田で行われ、浅井氏が勝利することで、北近江の支配権を奪還する。

その後、浅井氏は朝倉氏への不戦を条件に永禄7年(1564)尾張の織田信長と同盟、そして信長の妹のお市が輿入れする。
この同盟により浅井氏は六角氏とともに美濃の斎藤龍興と敵対関係になる。
美濃斉藤氏を滅ぼした織田信長は、永禄11年(1568)、足利義昭を奉じて上洛を開始、浅井長政は佐和山城で織田軍と合流、観音寺城の六角義賢・義治を攻撃し滅亡させる。

元亀元年(1570)信長は浅井氏との同盟条件を破って朝倉氏攻撃のため、越前に侵攻。浅井氏は難しい立場に立たされる。
長政は信長との同盟を維持しようとするが、久政は朝倉氏との関係を重視、家内激論の末、浅井氏は信長との盟約を破棄、信長軍を挟撃する。

この情報はお市から信長にもたらされたとも言い、かろうじて信長は朽木谷を経て脱出に成功。いわゆる「金ヶ崎退き口」である。
怒りに燃えた信長は浅井氏攻撃に出陣。姉川の合戦で浅井朝倉連合軍を破る。
しかし、武田信玄の侵攻などですぐには小谷城は攻撃することはできなく、横山城で浅井氏を牽制する程度であった。
当然ながら長政はお市を離縁し、お市は実家に戻るのが戦国時代の常識であるが、織田浅井が手切れになってもお市は小谷城に留まり、子供も産まれている。その子達が、豊臣秀頼の母、淀君であり、徳川家光の母、お江である。

単なる政略結婚以上のものがあったのであろう。(この話、武田勝頼に嫁いだ北条氏康の娘も同じである。)
天正元年(1573)武田信玄が死ぬと信長は本格的に小谷城を攻撃する。まず、虎御前山に陣城を築く。
一方、小谷城では背後の大嶽城などに朝倉氏の援軍を入れ対峠。
8月8日、小谷城の西にある支城の山本山城を守る浅井氏家臣、阿閉淡路守貞征が織田氏に投降。

この機会に信長は岐阜から翌9日に虎御前山に着陣。大嶽城方面の浅井軍が裏切り、大嶽城方面が織田軍に制圧される。
背後を絶たれることを恐れた小谷城の朝倉氏の援軍が撤退を開始。
この時、朝倉義景の援軍本隊二万が木之本付近に着陣していたが、撤退する小谷城の朝倉氏の部隊と追撃する織田軍に巻き込まれて、混乱、総崩れとなる。
(後に同じ場所で起きた賤ヶ嶽の戦いとなぜかそっくりである。)

朝倉軍は越前へ敗走、織田軍は一気に朝倉氏の本拠一乗谷まで追撃、8月20日、朝倉義景を自刃に追い込み朝倉氏はあっという間に滅亡してしまう。
まさに電撃戦であり、後に武田も似た状態で滅亡する。おそらく、朝倉氏も武田氏の末期も内部体制が弱体化していたのであろう。
朝倉氏滅亡後、信長は虎御前山に戻り、本格的に小谷城を攻撃を再開。

8月26日、羽柴秀吉の部隊が京極丸を占拠。本丸と小丸を分断。翌27日、小丸の久政が自刃。本丸が孤立、長政はお市と三人の娘を織田陣営に送り、29日に本丸東下の赤尾屋敷で自刃、小谷城は落城し、浅井氏が滅亡する。
浅井氏滅亡後、北近江は戦功により羽柴秀吉に与えられる。
しかし、秀吉は小谷城が山城で不便であったことと、これからは経済の時代ということで、琵琶湖の水運、北国街道の陸運を重視し、本拠を長浜(今浜)に移し、長浜城を築く。
この際、小谷城の建物、石材などの多く移築された。
それとともに浅井氏の遺臣団も秀吉の配下に組み込まれる。
なお、小谷城の天守であったといわれる建物が、長浜城に移築され、さらに彦根城にリサイクルされ、彦根城西の丸櫓として現存しているが、どこまで真実かは分からない。(どうも違うらしい。)

@主要部入り口の番所 A少し登ると御茶屋という曲輪が。 B御馬屋敷、馬出、防御陣地だろう。 C馬洗池となっているが井戸だろう。
D今井秀信の首据岩 E桜馬場 F千畳敷入り口の黒鉄門跡 G本丸から見た広大な千畳敷
H本丸南側の切岸の石垣 I本丸内部は2段になっている。 J本丸背後の大堀切 K浅井長政自刃の地、赤尾屋敷跡。

北から近江盆地に張り出す山にある。城の主要部のある山は標高398mの山王丸をピークに南側の尾根に沿って金吾丸付近までの約800mの間、この間の高度差約100mにわたって曲輪を展開する壮大な直線連郭式の城郭である。
この部分が主要部となる。

比高は麓の標高が100m程度であるので300m。
山の尾根両側は崖交じりの急勾配という険しさである。
しかし、広義の小谷城はさらに広く。先端部の出丸、さらに北の標高495mの小谷山山頂に築かれた大嶽城や西の清水谷を挟んで西側の尾根にある山崎丸などが含まれる。

清水谷に浅井氏の居館や家臣団の屋敷、寺院があったという。
まさに戦国大名の本拠地にふさわしい巨大さである。こんな険しい山に主要部があり、麓から見るとその堂々たる山容に圧倒される。

ところが、ありがたいことに南端から尾根を登る大手道沿いに自動車道があり、主要部の直近まで車で行くことができる。
駐車場があり、車を置いて歩くと、標高300mの金吾丸北の堀切に出る。
この北側が主要部である。さすがに有名な城だけあり、峻険な山城とは言え、遊歩道が整備され、オールシーズンOK(雪が降ったら無理かな?)案内・解説もばっちりである。

そのまま、北に歩くのが良いのであるが、その前に金吾丸に寄ってみる。
六角定頼が大永5年(1525)小谷城を攻撃した時、援軍の朝倉教景が陣を置いた場所という。
なお、金吾とは官職名である。(後世、小早川秀秋の官職として知られる。)
堀切からは20mほど高い場所であり、南北60m、幅15mくらいの広さであるが、あまりしっかりした造りではなく、単なる山の平場という感じである。出丸程度に用いられたのであろう。

堀切を北に向かうと土塁間の虎口を通ると番所@という曲輪である。
ここは40m四方程度の広さである。この先は斜面に帯曲輪が数段ある。
次に御茶屋という優雅な名前の曲輪Aがある。大きな岩があり、低い土塁が内部にある。
その上が、馬洗池Cと御馬屋敷Bという曲輪である。
御馬屋は東西60m、南北30mの広さで北側は切岸であるが、残りの三方は土塁で囲まれる。
内部は窪んだ状態であり、確かに柵で囲むと馬小屋のような感じでもある。

しかし、この山の上で馬は役に立つのか?馬小屋があったとすれば、清水谷だろう。ここは馬出であり、純粋な軍事施設だろう。
その北側に石で組んだ「馬洗い池」がある。ここは井戸だろう。

そこを過ぎ、桜馬場の東の道を通ると、首据石Dがある。
浅井亮政が、天文2年(1533)家臣の今井秀信が六角氏と内通したことを知り、今井秀信を神照寺で殺害し、ここに首を晒したという。

この西が桜馬場Eであるが、切岸に石垣が見える。首据石を過ぎると、赤尾屋敷と桜馬場に登る道が分岐する。
この分岐から100mほど行った場所が赤尾屋敷跡Kであり、本丸(当HPでは「丸」という曲輪名は近世城郭の名称のため、中世城郭の主郭は「本郭」と書いているが、「丸」は近畿付近の城郭では戦国時代から使われていたようであり、この城の解説板や本でも「丸」を使っているので、「丸」という名前を踏襲して用いる。)から討って出た浅井長政が、一暴れした後、本丸に戻って自害しようとしたが、既に周囲に織田軍の兵が充満して戻れず、本丸の東斜面にある曲輪の赤尾屋敷で自害したという壮絶な歴史を持つ。

桜馬場は東西2段の曲輪からなり、50m×30mの曲輪が2つある。
北側に浅井氏及家臣供養塔が建てられている。桜馬場の北に石垣があり、石段がある。ここに黒鉄門Fがあった。

ここを過ぎると千畳敷Gである。ここは広い。90m×40mほどある。内部には建物の礎石に使われたと思われる石があり、山上居館があったのであろうか。
その北が高さ7mほどの本丸であり、前面、側面は石垣Hである。
内部Iは2段になっており東西30m、南北40m程度。この場所の標高は350m、番所@からは50mほど高い位置となる。櫓が建っていたのであろう。
その背後が大堀切Jである。今は箱堀のような感じで、深さは8m、幅25mほどであるが、当時はっもっと深く、谷のような感じであったのだろう。
本丸の西側と東側は千畳敷から続く帯曲輪になっており、石垣造りの虎口がある。
おそらくここに堀切を越える木橋がかかっていたのであろうか。

ここまでが、小谷城の前段の部分であり、前進陣地として拡張された部分といわれる。
本丸という名前が付いているが、小谷城の本丸は最高箇所の山王丸であろう。
この本丸は前進陣地の指令場所というべきかもしれない。

築城当初の小谷城はここから北、中丸から山王丸までの高度差で60mにわたる部分であると言われる。
本郭北の堀切の西側の帯曲輪からこの北の部分に入る虎口がある。
入った場所に石垣の虎口Lがあり、ここを登ると中丸Mである。ここは2.5mほどの段差で20〜25m四方の曲輪が3段ほどに分かれる。
段間には石垣がある。

中丸の北が数段の曲輪を経て、京極丸Nである。
入口は高さ4mほどの石垣で固めている。浅井亮政が傀儡として天文3年(1534年)、京極高清,京極高広父子を擁立、この京極丸は京極父子が住んだところという。
50m×30mほどの曲輪があり、南東側に高さ3mほどの土塁がある。
その北側が高さ5mほど登り浅井久政の隠居所とされる小丸Oである。
天正元年8月の小谷落城時、清水谷から攻め上がった織田軍にここが攻撃され、久政は鶴松太夫の介錯により49歳で自害したという。

小丸の上に1つ曲輪があり、高さ6mほどの石垣間の虎口Pを登ると山王丸Rである。
山王権現(現小谷神社)が祀られていたところから名前がつけられたという。
標高395mの最高箇所にあり、ここが実質的な本丸ということであろう。
それにふさわしく、南側、東側は全面石垣であり、東側の石垣Qはほぼ完全な状態で残っている。

山王丸内部は3つの曲輪から成り、全長110m、最大幅50mである。中央の曲輪と北端の曲輪間に一文字土塁Sという高さ2mほどの土塁がある。
北端の曲輪から北は下りとなり、大嶽城にある小谷山と北東の越前に向かう裏街道が延びる月所丸、そして清水谷の3方向に分岐する鞍部に至る。

ここが六坊という曲輪であり、六つの寺院があったという。
今回は時間的に(熊も出るというが、熊対策もしていなかったので)山王丸までとし、六坊以北の大城や清水谷の西側の尾根にある山崎丸、福寿丸には行かなかった。

L中丸入り口の石垣 M中丸内部は3段になっている。 N京極丸跡 O浅井久政自刃の地、小丸。
P山王丸入り口の石垣 Q山王丸東面の石垣 R山王丸中央の曲輪 S山王丸北の一文字土塁。城の最高部

小谷城の西側の谷が清水谷である。
かなり狭い谷筋である。ここには浅井氏が通常居住していた居館や家臣団の屋敷、寺院などがあった。
根小屋であり、お市の方や茶々などもこの谷筋に住んでいたことになる。
緊急時には谷の入口を閉塞し、小谷城に避難する道が何本かあり、途中に何段もの帯曲輪があり、竪堀が何本も清水谷に下っているという。

織田信長が小谷城攻めをした際、羽柴秀吉の配下がこの道を通り、小丸を攻撃したという。
また、小谷城の尾根南端部の標高152m(比高50m)の場所に出城がある。
その東側山麓に先端部から登る大手道が通る。登り口付近に番所と門があったのであろう。

金吾丸内部 居館のあった清水谷、右の山が小谷城。
正面の山が大嶽城。
先端部にある出城 先端部から延びる大手道

以上、結局、見たのは小谷城の主要部のみであり、そこを駆け抜けただけである。
おそらく広義の小谷城の1/3程度のエリアであろう。
全部を見ようとすれば丸1日じゃ済まないだろう。さすが戦国屈指の巨大要塞である。

姉川の合戦 古戦場
小谷城の南東5q、国道362号線の野村橋が姉川にかかる付近一帯が主戦場という。
長浜駅からは北東5qくらいの場所である。現在では堤防の袂に碑があるだけで、付近は水田などである。
この姉川はこの付近では堤防間が200mほどあるが、水量は少ない。
当時はもっと水量が多く、堤防もなく広い河原になっていたという。

この合戦の一般に言われる説は次の通りである。
元亀元年(1570)同盟を破棄した浅井氏を攻めるべく、信長は6月19日、岐阜城を出陣、21日に小谷城下を焼き、さらに小谷城の横山城を攻める。
この横山城攻撃は浅井氏を小谷城から出撃させ、後詰決戦に誘いこむ手段である。
まともに小谷城を攻めることは不可能であり、信長が短期決戦で勝負を付けようとするのは当然である。

6月29日、浅井軍8000、朝倉景健の率いる朝倉の援軍10000と織田軍25000、徳川軍6000が姉川を挟んで激戦を交える。
この時浅井軍が織田軍と、朝倉軍が徳川軍と戦うことになった。
緒戦は本土防衛に燃える戦意の高い浅井軍の攻撃で織田軍は劣勢となる。

しかし、朝倉軍には助っ人に来ただけという意識なのか、戦意が乏しく、徳川軍の側面攻撃で崩壊。
朝倉軍崩壊の余波が浅井軍に及んで浅井軍も混乱、側面を徳川軍の攻撃に晒され織田・徳川軍が逆転し、長政は小谷城に撤退した。
浅井朝倉軍に大きな損害が出たが、ほとんどは退却時に追撃を受けたための犠牲という。
小谷城に逃げ込まれてしまえば、織田軍にもこれ以上の攻撃はできなかった。
戦闘は午前5時に始まり午後2時まで続いたという。死者は浅井朝倉軍1800人、織田徳川軍800人、負傷者はそれぞれ、その3倍と推定されている。

・・・・・というのが一般的に伝えられるこの合戦の経緯である。

野村橋の袂にある古戦場の解説板 現在の姉川、水量は少ない。

しかし、これ話、本当か?
この話だと、浅井朝倉軍の死傷者は参戦者の半数に達する。
近世の軍隊なら、部隊は壊滅という定義の損害である。
当然ながら戦闘行為の継続は不可能。浅井軍の規模なら小谷城篭城も危うい。

ところが、この合戦の3ヶ月後、浅井朝倉軍は湖西を京に向けて進軍し、織田氏の宇田山城を落とし、織田軍を撃破、比叡山に篭城する活動をしている。
戦意旺盛、軍事行動能力も問題がない。
大損害を受けたならこんな軍事行動ができる訳がない。

当時は織田、浅井方ともこの合戦を「野村合戦」、朝倉方では「三田村合戦」と呼んでいた。
今、一般的になっている「姉川の合戦」という名は徳川家における呼称とのことである。

ここでひっかかるのが、合戦の経緯である。
簡単に言えば、徳川軍の合戦により、織田徳川軍が大勝利するということになっているというシナリオである。
本当か?
この合戦の後、浅井、朝倉氏は滅亡、織田氏も小大名に転落し、世は徳川氏の天下である。
このことから、合戦の経緯も、大御所徳川家康をフューチャーした捏造としか思えない。
家康が参戦した合戦、家康の活躍で大勝利でなくては困る。
おそらく、実際は織田徳川軍が勝利した前衛部隊間の小規模な軍事衝突であったか、大規模な衝突だったとしても、双方の損害は同程度でそれほどでもなく、結果も引き分けだったのだろう。

為政者が創作した常識の嘘、この合戦のシナリオの中に隠れているようである。

虎御前山砦(長浜市(旧虎姫町中野)
小谷城の南西にある南北2qと細長い標高224mの独立した山で、別名、八相山とも言う。
この山の名が変わっているが、この由来は次のような伝説によるものと言う。
「昔、この山の近くに住む虎御前という美しい娘が、ある若者と結婚して身ごもったが、生まれてきたのは顔は人間で体が蛇という15人の子どもで、虎御前はこれを嘆き悲しみ、とうとう深い淵に身を投げて死んでしまった。
以来、この山を虎御前山というようになった。」
これが、虎姫町の名の元にもなっている。

麓の標高が93mというので比高は130m、意外と高い。
低い山かと思っていたが、堂々としたかなり高い山である。
東の山麓、小谷城との間に北陸自動車道が通る。

左の写真は南東側から見た砦跡である。
塔が見える場所が、伝滝川一益陣、その右側のピークが伝堀秀政陣、さらに右が最高箇所の織田信長陣である。

小谷城は写真の右に位置する。

元亀元年(1570)の織田氏による小谷城攻撃の付城が置かれた山であり、小谷城に面する尾根一帯に城郭遺構が残る。
なお、それ以前、南北朝時代に足利尊氏と直義兄弟の間で行われた「八相山の戦い」もここが戦場になったという。
現在残る城郭遺構は、もともとこの山には古墳が多くあり、曲輪などはこの古墳を利用したものという。

山に行くと、織田信長以下、堀秀政、木下秀吉、滝川一益などの諸将の陣の碑が建っているが、最高箇所の信長の陣跡とされる曲輪は多分、本当に信長がいたのだろうが、その他はかなり怪しいらしい。
(信長陣のすぐ北が秀吉の陣で、その北が柴田勝家の陣ということは、当時の序列ではありえなく、これは後世、秀吉による捏造であろう。)

この砦は2週間程度の突貫工事で完成したというが、各ピークにあった古墳を利用し、上部を削平し、斜面部の勾配を鋭くし、段々を造り、さらに堀切等を入れれば、比較的容易に単純構造であるが、一応、城砦の体は成すと思われる。
実際、砦は段差の連続のような感じのものである。

なお、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも位置的に秀吉の軍勢が駐屯していた可能性も否定はできない。
しかし、賤ヶ岳方面の砦に比べるとここは簡素な感じであり、改修して使った可能性はないようである。

砦には山の南端部から標高140m地点の滋賀県立虎御前山教育キャンプ場に向かう道路があり、途中まで車で行ける。
そこからハイキングコースが尾根沿いに延びているので、そこを歩けば各陣所をとおり抜けて北の山麓に降りれる。

南端部の陣は滋賀県立虎御前山教育キャンプ場などの敷地となってはっきりしない。
城郭遺構が確認できるのは標高202mのNTTの通信塔がある伝滝川一益陣付近@から北側である。
この北側はピークが連続する感じであるが、これらは古墳のような感じである。

所々、竪堀があるが、Aの竪堀は明確である。少し北が伝堀秀政陣であるが、ここは前方後円墳の形状をよく残す。
南側にBのような虎口のようなものがあり、墳上は直径10m程度に平坦化している。古墳としては全長50mくらいか。

そこから70mほど行くと、伝織田信長陣跡であるが、さすがここは他の部分よりは念入りに造られている。
南側に全長80mにわたり、4mほどの段差を置いた細長い曲輪Dがあり、直径30mほどの本郭とも言うべき曲輪Eがある。その北側は7m下に曲輪がある。

さらにその先に伝羽柴秀吉陣、伝柴田勝家陣があるが、そこまでは行かなかった。

小谷城はまともに攻めることは不可能な城であり、持久戦・心理戦や謀略以外で落とすしか方法はないと思われ、付城で包囲するのは妥当な戦法である。
小谷山南端の出丸と虎御前山砦の最近接距離は500mに過ぎない。
この至近距離で対峙し、凄い緊張感があったとは信じられないくらいである。 

虎御前山の南の登り口 滋賀県立虎御前山教育キャンプ場
の地は伝
丹羽長秀陣跡という。
@伝滝川一益陣跡。 A比較的明確な竪堀があった。
B伝堀秀政陣の虎口 C伝堀秀政陣 D伝織田信長陣南側の曲輪 E伝織田信長陣中心の曲輪

雲雀山砦(長浜市(旧湖北町)伊部)

天正元年(1573)、織田信長が浅井氏を攻撃した時、虎御前山砦とともに付城として砦を置いた山であるが、小谷城のまん前である。

写真は小谷城の先端麓から見たものであり、きわめて至近距離である。
ここまで至近距離に砦を置かれるのは凄い心理的プレッシャーであろう。

おそらく人の動きも丸見えである。
遺構は平場が何段もあるだけで、他は何もない。

長浜城(長浜市)
元亀3年(1573)浅井氏が滅亡すると、浅井氏の旧領はその戦功により羽柴秀吉に与えられる。
秀吉は山城で不便な小谷城を廃し、新たに琵琶湖湖畔の今浜に城を築き、この地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。

城は小谷城の建物を転用したというが、もともと、ここには京極氏関連の城があり、それを拡張整備したとも言う。
特徴は琵琶湖を取り込んだ水城であり、城内の水門から直接、船が出入りできるようになっていた。
いうに及ばず、これは湖上水軍を管理する城であるとともに物資輸送基地でもある。
船を使えば、大量の軍事物資と兵員を琵琶湖沿岸のどこにも速やかに展開することがこの城の最大の目的である。
言わば水上機動基地である。

この点では湖南の坂本城、大津城など同じであり、これらの琵琶湖を取り込んだ城と安土城で琵琶湖水運の完全制覇したのであろう。

想定は京の緊急時の兵員展開と来るべき、上杉謙信との対決ではなかったか?
それとともに秀吉は城下町も小谷城下から移し、湖上水運を管理することで街を発展させる。
当然、その収益が秀吉の経済基盤を醸成した。

秀吉が最初に持った城であるが、当初から秀吉が独創で計画したのか、誰かブレーンの知恵によるものかは分からないが、その後、天下を取った基盤がこの地にあると言えるだろう。

また、経済利益ばかりでなく、秀吉はその人脈もここでゲットする。

旧浅井家臣も家臣団に取り込まれ、何と言っても地元出身の石田三成の採用が特筆される。

彼と淀殿を中心とするグループは近江閥と言われ、秀吉の晩年ころから加藤清正、福島正則に代表される尾張閥と対立。
それを家康に上手く利用され、結局天下を奪われ、豊臣氏を滅亡に導く。
ともあれ、長浜の街はその後、繁栄する。
城址に建てられている模擬天守 ここが天守跡だったと言うが・・ 模擬天守から見た琵琶湖 琵琶湖湖畔にある太閤井戸

本能寺の変後、清洲会議で長浜は柴田勝家に渡され、勝家の甥の柴田勝豊が入城する。
しかし、賤ヶ岳の戦いでは勝豊は秀吉に降伏。賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊、内藤信成・信正と城主が替るが元和元年(1615)、大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡すると廃城になり、資材の大半は彦根城の築城に流用されたという。
彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。
市内の大通寺の台所門、知善院の表門は、長浜城の門を移築したものと伝えられている。

元和元年の豊臣氏滅亡に合わせて廃城にしたのは、この世から秀吉の影を抹殺するための徳川氏の意向が働いていたと思われ、そのためか、異常なくらいに長浜城は徹底破壊され、かつての縄張りさえ推定することが難しくなっているという。
現在の城址には犬山城や伏見城をモデルにし模擬天守が建てられ、市立長浜城歴史博物館として運営されている。
この中をのぞくとほとんどが秀吉と石田三成関係である。
石田三成博物館である。
最近、復権著しい石田三成のファンの聖地である。
肝心の遺構であるが、やはり良く分からない。模擬天守の北西の土盛が天守跡だったという程度。
あと、湖岸に太閤井戸の碑があるくらいであり、面影はほとんどない。