佐和山城(彦根市佐和山町)
佐和山城イコール石田三成である。
この公式、間違ってはいないが、城の歴史は古く、その最後に石田三成が登場するにすぎない。
中仙道から北陸道が分岐する交通の要衝、米原の南に位置し、街道の管理監視、領内支配に格好の場所であり、しかも、見るからに城を築きたくなるような形の山にある。
このため、古くから重視されていた城であり、歴史上、それに相応しい登場をする。

築城は鎌倉時代に遡り、地元の土豪佐保氏という。
戦国時代は一時、六角氏の手に落ちたこともあったが、浅井氏の支城であった。
永禄11年(1568)織田信長は上洛をするが、この佐和山城で浅井長政と合流する。

織田氏と浅井氏が敵対関係になると、城主浅井氏家臣磯野員昌が織田軍と激戦を繰り広げる。
しかし、元亀2年(1571)2月に磯野は降伏し、開城。織田重臣丹羽長秀が城主になり、米原付近支配の拠点となる。
信長は岐阜から京に向かう際には佐和山城を宿城にしたという。

左の写真は東の大手方向から見た城址である。

天正10年(1582)信長が本能寺の変で死に、山崎の合戦で明智光秀が倒され、清洲会議が開催されると、城は堀秀政にさらにその後、堀尾吉晴が城主となる。そして天正18年(1590)石田三成が城主となる。
三成は大規模な拡張工事を行い、五層(三層説もあり)の天守が建てられたともいう。
このため、「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」と言わしめたというエピソードが残る。
ただし、三成自身がこの城にいたことはあまりなく、城は父の正継が管理していたという。

三成は関ヶ原で敗北した場合には、佐和山城で再戦を意図していたとされる。
しかし、慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の戦いで三成は敗北、佐和山城にたどり着くことができなかった。
城は徳川軍に包囲され、正継は抵抗を断念し、降伏開城することを家康に伝え、家康も了解する。

しかし、連絡が不徹底となり、攻城側の攻撃が開始されてしまい、これに対して、城兵2800人も抗戦、しばらくは敵を寄せ付けなかったが、城内で裏切りが発生、敵を城内に引きいれたため、落城。
正継や三成の妻など一族は自害して果て、女性は谷に身を投げたという。
ただし、それ以上の殺戮はなく、生き残った城兵などは全て助命されたという。


なお、その時のエピソードとして徳川軍の兵士は、三成のことだから、城内に蓄財された財宝があり、華美を尽くしたのだろうと想像し城内に乱入したが、城の壁は粗壁であり、何の装飾もない質素な作りとなっていた。
もちろん財宝など全くなかったという話が伝えられる。(『甲子夜話』)

その後、城は徳川重臣井伊直政に与えられる。
直政は三成が善政を敷き、領民からも慕われていため、三成の影を消すため、新たに彦根城築城を計画し、子の直継が築城に着手したという。

しかし、実際は山城の佐和山城では領内統治が不便だったことと、大阪城に健在な豊臣氏との戦いを想定し、琵琶湖の水運を利用して兵と物資を京方面に展開できる基地が必要であったこと、及びより大きな城下町を造ることが目的であったのではないかと思われる。

彦根築城に際しては、佐和山城などの建物の築材をリサイクルしたという。
このことから、佐和山城の建物はあまり焼けていなかったようである。
慶長11年(1606)に彦根城は完成し、これにより佐和山城は廃城となった。
この際、佐和山城は徹底的に破壊されたという。

この破壊も三成の影を抹殺することが主目的であろうが、佐和山からは彦根城が丸見えである。
まるで小田山から会津若松城を見た感じと似ている。
ここを占領され城として使われたら彦根城の防衛に支障が出る懸念も徹底破壊し、再利用を防ぐ目的だったかもしれない。

しかし、大きな破壊を受けていると思われる場所は天守が建っていた場所を中心とした石垣が積まれた部分だけのようにも思える。
確かに石垣は徹底的に崩されている。
しかし、それ以外の曲輪や堀切、土塁などの土の部分は形状が良く分かり、普通の中世山城の遺構と保存の程度はそれほど違う感じはない。

JR東海道線彦根駅の北東に見える標高232m山一帯が城址である。
麓の彦根市街地の標高が80mほどであるので、比高は150mある。結構高い。
大手は東側の新幹線が通る方面であり、彦根市街側の西側は搦手にあたり、この方面に船付き場があったという。
登り道は何本かある。西の山麓に三成の菩提寺である龍譚寺があり、ここからも登城路が延びている。今回はこの道を登った。

龍譚寺奥の墓地を抜けて、10分ほど急坂を登ると、北の弁天山との間を仕切る堀切@に出る。
ここから南方向に登っていくと主郭部である。
ちなみにこの堀切の北側、弁天山方面にも行ってみたが、城郭遺構はなかった。物見程度は置いていたかもしれないが、この堀切が城の北端のようである。

堀切の南側、15mほど登ると番所と門があったと推定される曲輪があり、ここから急な登りとなる。
12mほど登りきった場所が西の丸北端の硝煙倉跡Aである。大きな窪みがあるので地下式の建物があったのであろうか。
西の丸Bは3mほどの段差を置き、3段になっており、本丸側に堀切Cがある。

曲輪はいずれも50m四方程度あり、広い。何本かの竪堀が西下に延び、西下に分岐する尾根にも曲輪群が展開する。
この堀切の南に15m四方程度の曲輪が1つあり、ここから本丸まで一気に25mほどの高さを登る。
本丸Dは80m×30m位の広さであり、さすがにきれいに管理されている。
ここに歴史上の人物である石田三成や島左近が立っていたと思うと感慨深いものがある。

南西側と北側に枡形の残痕のようなものがある。南側に盛り上がりがあり、この付近に天守があったのではないかと思われるが、はっきりしない形状である。
徹底的な破壊を受けたためであろうか。
この場所の斜面部に大きな石が重なった石垣の跡Fと言われる部分がある。
太鼓丸方面に降りると曲輪が5段ほど重なる。南西側の斜面には岩盤をくり貫いた千貫井戸Gがあり、今も水をたたえている。
一方、北側に大きな80m×20mほどの帯曲輪Iがある。曲輪内には大きな石が転がっているが、本丸の石垣を破壊した時、転落した石ではないかと思う。
ここは、本丸からは20mほど下部である。
ここから落城時、女性が谷に身を投げ、女郎谷と呼ぶようになったという。しかし、急斜面ではあるが、身を投げても死ぬことはないと思うが・・。

太鼓丸Hには土塁があるが、内部は藪状態であった。その先に千畳敷があり、太鼓丸の入口を南に向かうと法華丸があるが行かなかった。
本丸の北東の尾根沿いには二の丸、三の丸が展開し、ここを大手道がとおり、東下の中仙道が通る内町地区にあったという城下町に通じる。
東の山麓には土塁、内堀跡などが残る。外堀は河川に利用されている。

外堀跡は河川となっている。右側が城址。 内町地区が城下町であった。 西の麓の三成の菩提寺龍譚寺。
ここから城に行ける。
@北端の堀切
A硝塩櫓跡 B西の丸中段の曲輪 C本丸部と西の丸間の堀切 D本丸内部。さすがここは良く整備されている。
本丸から見た彦根城天守 F本丸東に残る天守台の石垣 G千貫井戸 H太鼓丸は藪状態。周囲に土塁がある。
I女郎谷に面する曲輪 J本丸東下の登城路 彦根城から見た佐和山 佐和山城から移築したという彦根城太鼓櫓

彦根城
琵琶湖の湖畔に浮かぶ名城の誉れ高い城であるが、中世の城ではなく、完全な近世城郭。
彦根の駅前から西を見ると、大通りが西に延び、彦根山の上に天守閣が見える。
まさに彦根市のシンボルである。
ここ、琵琶湖の東岸には、南北に長い近江盆地があり、山地と湖間の平地の幅は最大でも5kmほどに過ぎない。
この盆地にある彦根の少し北の米原で、中山道と北国街道が合流し、京に通じる。現在もこの地は、その道筋を国道1号線、東海道新幹線、東海道本線、北陸線が通る交通の要衝である。

そのため、壬申の乱、姉川の戦い、しずが岳の戦い、関が原の戦い等の騒乱の舞台となり、小谷城、長浜城、佐和山城、観音寺城、安土城などの歴史に残る多くの重要城郭が築かれた。
 関ヶ原の戦いが徳川家康の勝利で終わると、石田三成の佐和山城は、家康の重臣、井伊直政に18万石の領地とともに与えられた。
しかし、佐和山城は防御上優れていたが、山城のため、領内統治には不便なため、直政は琵琶湖の湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に城を移そうと計画したという。
しかし、井伊直政は関ヶ原の際の戦傷がもとで慶長7年(1602年)死去した。その後を直継が家督を継いだが、幼少であったため、直政の遺臣が彼の遺志を継ぎ再検討の末、慶長8年(1603年)、琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の建設を開始した。
この築城は、大阪城に健在である豊臣氏に対する備えのため(越前松平氏への牽制であるともいう。)であり、築城工事には公儀御奉行3名が付けられ、7か国12大名(15大名の説もある)が手伝いを命じられる徳川幕府直轄の天下普請として行なった。
彦根城の特徴の1つに、長浜城、佐和山城、大津城など近隣の廃城となった城の資材転用がある。
天守閣は 4層であった大津城天守閣を3層に改装して移築したといわれている。
このため、天守閣がずんぐりしている印象を与える。
天秤櫓は長浜城から移築、西の丸櫓は小谷城の小天守という。(小谷城にそんなもんあったか?)
慶長11年(1606年)二期までの工事が完了し、慶長12年の天守閣完成と同時に直継が入城した。
元和2年(1616年)、大阪夏の陣で豊臣氏が滅ぶと幕府は工事から手を引き、彦根藩のみで第三期工事が開始された。
この時に御殿が建造され、元和8年(1622年)、全ての工事が完了し彦根城が完成した。その間、城下町も整備される。
井伊氏はの所領は寛永10年(1633年)には加増されて35万石にまでなるが、それにふさわしい城になったといえるだろう。
その後も大阪城とともに彦根城が西国の外様大名の抑えとして、櫓等が彦根藩のものばかりではなく、幕府の軍事物資の備蓄倉庫として使われたという。
 井伊氏は14代にわたり、一度も転封なく、明治維新まで彦根城を居城とした。
明治になると明治6年(1873年)に廃城令が出され、数多くの城が破却された。
この彦根城も破却の危機に瀕したが、大隈重信の上奏により明治11年(1878年)に破却を免れたという。
このため、国宝の天守閣を始め、多くの櫓や門などが現在まで残される結果となり、これらは国の重要文化財に指定されている。

城は標高136m(比高46m)の彦根山に築かれた連郭式平山城。
この彦根山は長さ700m、幅300mほどの細長い山であり、山全体が城の主部で、周囲を中壕が1周する。山の最高箇所に本丸を置き、北西側に西の丸、南東に鐘の丸を配置する。
藩主の住居、政庁などは全て山の下に配置される。
この部分を入れると城域は1200m×800mのほぼ長方形となる。
現在、琵琶湖は水位が低くなって、西側に後退した感じであるが、かつては山自体が琵琶湖の岸にあった。湖上水運を管理する城でもあった。
当然、湖上水軍基地が設けられ、琵琶湖を掌握するための城であり、緊急時にはこの城から船で大量の物資、兵士を速やかに大津付近まで輸送することになっていたのでのであろう。
彦根城のシンボルは、何といってもあの国宝の天守閣である。
天守閣のある本丸には、現在は天守閣しか残っていないが、かつては藩主の居館である「御広間」や「宝蔵」、そして「着見櫓」なども建っていた。

天守は3階3重で比較的小型であるが、屋根は「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓」、3階には高こう欄らん付きの「廻縁」を巡らせるなど唐風の美しい姿をしている。
上のイラスト。左は月見櫓跡から見た天守、左は西の丸から見た天守。
この天守は、通し柱を用いないで、各階ごとに積み上げていく方式をとっており、櫓の上に高欄を付けた望ぼう楼ろうを乗せる古い形式という。
昭和32年から35年にかけて行われた解体修理により、墨書のある建築材が発見され、天守の完成が慶長12年(1607)ころであることが判明した。
また、建築材を克明に調査した結果、もともと5階4重の旧天守を移築したものであることも分かった。
彦根藩の記録『井伊年譜』には、「天守は京極家の大津城の殿守也」とあるので、大津城の天守閣を移築した可能性が高いと考えられている。
ここには武具などが収納されていたという。
江戸時代は、軍事施設というよりも藩の象徴という役割であったようである。

本丸の入り口に重要文化財の太鼓門櫓がある。
太鼓を置き、城内に時を知らせていたという。
この櫓も他の転用物であったらしく、彦根城築城以前に彦根山の山上にあった彦根寺の山門を移築したものと考えられていた。
太鼓門櫓には門の柱に古い釘穴がたくさん残っているが、観音霊場では納札を寺の建物などに打ち付ける習わしが古くからあるので、これらの釘穴を納札を打ちつけた痕跡と考えて、彦根寺山門の移築説が生まれ、定説のように言われていたという。
しかし、山門説は、昭和31年から32年にかけて行われた太鼓門櫓の解体修理工事によって否定された。
解体修理に伴って実施された建物部材調査により、移築前の建物も、どこかの城の城門であったことが判明した。

しかも、元の城門は規模が大きく、それを縮小して今日の太鼓門櫓としたものという。
それがどこの城の城門だったのかは、今も分からないという。

本丸を下ると重要文化財の天秤櫓(下左のイラスト)がある。
大手門と表門からの道が合流する位置に築かれた櫓で、門を兼ね、「コ」の字形をしている。
中央部が門で両隅に2階建ての櫓を設けてている。
両端の櫓がに荷物を下げた天秤のように見えるため天秤櫓と呼ばれている。
なお、両隅の櫓は細かい部分が結構違っていて、決して左右対称ではないそうである。
天秤櫓の南は、鐘の丸と本丸間の尾根を大きく断ち切った堀切で、ここに木橋が鐘の丸との間にかかっている。
大手門から来ても、表門から来ても、一度、鐘の丸を通らないと本丸には行けないようになっている。
緊急時はこの橋を切って防御することになっていたはずである。(下 右のイラスト)

天秤櫓については『井伊年譜』では、長浜城の大手門を移築したものであるとしている。
昭和30年代の解体修理では、移築された建物であることや、往時の長浜城主内藤家と伝える紋瓦なども確認されているが、天秤櫓の前身が『井伊年譜』の記載どおり長浜城大手門と断定するには至っていないという。
この櫓は古いため、幾度か修理を重ねてきました。嘉永7年(1854)には、建物のみならず石垣まで積み替えている。
このため、右手の高石垣が、越前の石工たちが築いたと伝える築城当初の「牛蒡積み」。
左手が幕末の嘉永年間に積み替えた切石の「落し積み」であり、異なる時代の異なる工法が混在した状態となっている。

西の丸の重要文化財の三重櫓(右のイラスト)は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置し、その西の出曲輪間との間にある堀切に面して築かれている。
西側の搦手方面の守りの要であった。この三重櫓は、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓を「く」の字に付設しているのが特徴。飾りもほとんどない質素な造りである。
この建物は浅井長政居城であった小谷城の天守を移築したとの伝承もあるが、昭和30年代に行われた解体修理でもその痕跡は確認されていない。
なお、『井伊年譜』では、築城当初、西の丸三重櫓は家老の木俣土佐に預けられ、山崎曲輪に屋敷を与えられていた木俣土佐は、毎月20日ほどこの櫓に出務し、政務と取っていた事務所でもあったという。
西の丸自体は藩の文書庫があったという。
天秤櫓前の橋を渡ったところが「鐘の丸」である。
ここには建物は残っていない。
ここから南に下ると大手門。橋下の堀切を東に下ると表門である。
表門から鐘の丸方向を見ると、石垣を持つ竪堀が下っている。
このような堀がこの山の随所にあるという。
表門の前には中壕が城のある山を一周する。
表門の脇が彦根城博物館であるが、彦根藩の政庁であった表御殿を復元したものである。
中壕にかかる表門橋を渡ると馬屋があり、佐和口門がある。
重要文化財の佐和口多聞櫓(左のイラスト)は、元和8年(1622)ころ建てられたと考えられている。
その後、明和4年(1767)に火災で類焼し、現在の建物は明和6年から8年にかけて再建されたものという。
佐和口多聞櫓は、佐和口に向かって左翼に伸びており、その端に二階二重の櫓が建ち、多聞櫓に連接している。
佐和口多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度曲折する長屋となっており、この櫓の内部は7つに区画され、中堀に向って三角形「△」と四角形「□」の鉄砲狭間が交互に配置されている。

下のイラストは本丸の月見櫓跡から見た東下の佐和口方面である。
右下が再建された表御殿である。
城の北側には玄宮園・楽々園(国指定名勝)という大名庭園が配されている。
玄宮園は四代藩主、直興によって造営された池泉回遊式の大名庭園で、中国唐時代の玄宗皇帝の離宮になぞらえて造られている。
天守閣を背景に、四季折々の風情があり、特に秋の紅葉は素晴しいという。楽々園は直興によって造営された下屋敷であり、「御書院」、「地震の間」、「楽々の間」、「雷の間」、「新東西の間」や「鳰の間」など江戸時代後期の数奇屋建築が現存する。
江戸時代は「槻御殿」あるいは「黒門外御屋敷」と呼ばれており、明治時代以降に「樂々の間」から「楽々園」と呼ばれるようになったとされる。
御書院から望む庭園は玄宮園の池泉を借景とする枯山水である。 戦前までは庭園と御書院の間に池が広がっていた。