海津城外郭城砦群3

竹山城(松代町西条)


 海津城の南1q 通称、象山にある城。麓は幕末の英才 佐久間象山が生誕した地であり、象山神社が祭られている。
 城跡は公園化しており、象山神社の西側から遊歩道を歩くと15分程度で主郭部まで行くことができる。
 城のある山は固い岩山であり、このため、松代大本営の地下壕がこの城の真下に掘られている戦争遺跡でもある点が特筆される。
 築城は西条氏と言われている。当初、西条氏は清野氏の下で村上氏に属していたが、村上氏没落後は武田氏に属したと言われる。 

城は南側にある鞍骨山系から松代の町中に半島状に突き出た山にあり、大きく分けて3郭よりなる全長400mの直線連郭式尾根城郭である。
 城の最北端は象山配水城のある地と思われ、ここが三郭であったと思われる。
 ここから50mほど岩のゴロゴロした道を登ると南北50m、東西20mほどの平坦地が開ける。北端には櫓台跡と思われる土壇があり、東屋が建っている。ここが馬場あるいは二郭と考えられ、かなりの兵を置くことが出来そうである。
 現在、この場は桜が植えられ、春は花見の名所となっている。この平坦地の南にある高さ20m位の盛り上が本郭部である。本郭部は北側、東側に3段ほどの帯曲輪を持ち、一番上が本郭である。本郭は南北20m、東西10mほどの広さであり、1段高い中央部には拡声器塔が建っている。本郭の標高は476mであり、麓からの比高は120mである。この部分の石垣は昭和40年代初頭の松代群発地震でかなり崩壊してしまったようであるが、かなり石垣が用いられていることが分かる。ただし、塁壁全面が石垣で覆われていた訳ではなく、曲輪の補強用に最大高さ2m程度の規模で石垣を回している程度である。現在でもかなりの石垣は残されている。この山自体が岩山であるため、石材の調達には苦労しなかったであろう。本郭部の東側が張り出し、やや膨らんでおり、この方面に登城口が付いている。この道も石垣で補強されている。
 本郭の西側にも虎口があり、そこを下りると南側は低くなっており、3段の曲輪がある。その先は尾根道となり、100mほど行くと2重堀切があり、尾根が遮断され、尾根伝いの攻撃を防御しているが、それほど強固な防護ではない。
 これはこの尾根伝いに行くと鞍骨城に行けるため、万が一の場合、容易に詰の城である鞍骨城へ退避することを考慮しているためであろう。

 海津城の背後の山であり、この山に出城を構えるのは当然であろう。本郭までは1km程度の距離にすぎない。先端部は完全に松城城下町に飲み込まれてしまっている。山に木がなく全面白っぽい石垣で覆われ、櫓が建っていた姿はさぞ壮観であったと思われる。
西から見た城址。中央の高い部分が本郭。その左が二郭。本郭の右の尾根を行くと鞍骨城に至る。
二郭北の登り路。岩が非常に多い。 二郭手前(北側)の竪堀。 平坦で広い二郭内。本郭が南に見える。 二郭から見た海津城址。本郭から1kmの距離、竹山城は裏山に当たる。
北下から見た本郭。石垣が崩れてしまっている。 本郭虎口の石垣。 本郭内部。 本郭南の尾根を行くと二重堀切があり、ここが南端。先を行くと鞍骨城に至る。
本郭南の堀切から見た北側の本郭 本郭南下の曲輪の石垣 本郭東下の曲輪。曲輪の縁は石垣になっている。 本郭東下の曲輪より本郭を見上げる。上にも曲輪があり石垣で補強されている。


妻女山(松代町清野)
 永禄4年の川中島の合戦で上杉謙信が本陣を置いたという場所である。
 北の眼下に上信越自動車道が通り、その下を潜って、山上まで車で上がることができる。
 小学校1年生の秋の遠足がここだった。それ以来の訪問である。嬉しいことに山上の招魂社は、遠足の時撮った写真の姿のままでそこに建っていた。
 麓からの比高は70m位であり、武田信玄が本陣を置いた海津城までは2km強程度の至近距離にある。
 しかし、通称、妻女山という山は招魂社が建ち、展望台のある山ではない。
 この山は西条山と言い、本当の妻女山はこの背後の山を言う。

 しかし、この西条山にも、その山麓にも上杉軍は布陣していたはずであり、最前線の部隊間は1km程度の距離があっただけであろう。
 本当に上杉謙信がここに本陣を置いたのかについては疑問があるのは事実である。
 こんなところに布陣されたら海津城は丸見えで動けないはずである。
 そんなところに武田信玄が本陣を置くということは考えられない。
 これは現地を見て初めて実感できる。

 永禄4年の上杉軍の布陣が事実かどうかはともかく、ここに本陣をおいた部隊は確かにあった。
 永禄4年から20年たった天正10年の上杉軍である。この時、北条氏の侵攻を受けて、妻女山から鞍骨城にかけて上杉軍が布陣している。
 西条山は狭く大軍を置くには適していない。それに背後を考慮すれば必ず高い場所に布陣したはずである。
 しかし、西条山の背後の妻女山の尾根は平坦であり、そこから土口将軍塚古墳のある薬師山にかけて、及び天城城にかけての一帯にはかなりの兵を置くことが可能である。天正10年の上杉軍はこの平坦地に陣を置いたと言う。

 山上の方が攻撃に対して防御しやすいため、永禄4年に上杉謙信が布陣したとしても同じ場所に陣を置いたであろう。
 通称、妻女山と言っているはるか下の招魂社のある場所より、その背後の標高500m、比高150mの本当の妻女山の方が陣を敷くには相応しい。
 その場合、背後を防御するため、鞍骨城も当然抑えたであろう。
 鞍骨城を抑えない限り妻女山に布陣する意味がないことは天正10年の上杉軍が示している。

 永禄4年に妻女山一帯に上杉軍が布陣し、鞍骨城まで抑えた場合、竹山城からの尾根伝いを進軍する啄木鳥戦法は成り立たない。(小部隊であれば可能であると思うが、堅固な鞍骨城は突破できないであろう。)その場合は大きく迂回し地蔵峠方面から倉科に出て南から攻撃するか、千曲川沿いを上田方面から北上し、倉科側から攻めあがるしかないのではないか?いずれにせよ奇襲ではなく、強襲になってしまう。
 このように考えると通称言われている永禄4年の川中島合戦の展開は全く否定されてしまう。
 真実を知っているのは山上にあった古墳の主か。

妻女山にある招魂社、周囲に土塁が回る。しかし、ここは西条山であり、妻女山は背後の山である。 妻女山に登る林道。 林道は平坦な鞍部に出る。ここで天城城方面と薬師山方面に行く道に分かれる。写真は薬師山方面を見たもの。 左写真の鞍部には竪堀が見られる。これは城郭遺構と思われる。
土口方面の薬師山より北下を流れる千曲川を見る。 城郭遺構かと思いきや土口将軍塚古墳であった。この付近の尾根も広く、布陣に適する。 天城城への道の途中には広い平坦部がいくつかある。ここが妻女山であり陣を置いたのはこの付近であろう。 尾根より松代方面を見る。右端に海津城が見え、左の山が金井山城。正面が寺尾城。上杉謙信も見た光景か?