鮫ヶ尾城(妙高市)
御館の乱で敗れた上杉景虎の終焉の地として名高いが、元々は春日山城の防衛拠点として整備されたものという。
その時期は武田信玄による信濃侵略が活発化し、それに上杉謙信などが脅威を抱いた天文・永禄・元亀年間(1532〜1572)頃と思われ、発掘調査でも16世紀後半の陶磁器片が数多く出土したという。
頚城地方では春日山城に次ぐ位の規模という。
しかし、本来の目的で使われることはなく、上杉氏の内乱、御館の乱という思っても見なかった事件で歴史に名を留めることになる。
この乱の主人公、上杉景虎は、御館の乱で、御館を拠点に春日山城の上杉景勝と戦うが、実家の北条氏の支援軍は坂戸城で阻止され、武田勝頼も景勝方に回り、次第に劣勢となり、天正7年3月17日御館は落城、景虎は御館を脱出し味方であった堀江宗親の鮫ヶ尾城に入る。
これは景虎が実家の北条氏の本拠小田原に逃走するためだったという。

しかし、景勝の動きは早く、鮫ケ尾城は包囲され、堀江宗親に裏切り工作を行う。
堀江宗親は、これに応じて鮫ヶ尾城から退去。景虎は城で孤立し、3月24日、鮫ヶ尾城に火をかけ、て景虎は自刃する。
これを裏づけるかのように本郭北の米蔵と呼ばれる曲輪からは、現在でも落城の際に焼けた兵糧米が出土する。
さらに、三郭から最近の調査で、当時のものとみられる焼けた「おにぎり」が発掘されて話題になった。
この時、景虎は26歳であったという。

この御館の乱の後、鮫ヶ尾城は廃城となったと思われる。
このため、鮫ヶ尾城は天正期以前の戦国の山城の姿を残すという。
城は西から頚城平野に張り出した半島状の尾根の標高187mの高まりを中心に尾根沿いに大小200以上の削平地、16の堀切、11の竪堀、20の土塁を展開させ、その姿が「鮫の尾」のようなにギザギザしているのでそれが城の名になったという。

城に行くには斐太神社に大きな駐車場があり、そこに車を置いて登る。
城に行くルートは大手の東の尾根を登る道と斐太史跡公園のキャンプ場裏から登る道の2つがある。
どの道をいってもそこそこのきつさである。

管理人はキャンプ場の裏からの道で登り、大手道を下りた。15分くらいで本郭まで行けたが、本郭直下がかなり急勾配できつい。
本郭直下の北東側の斜面、縄張図ではいくつもの曲輪が段々になっていることになっているが、藪でちっとも分からなかった。
それでも沢を兼ねる大きな竪堀が下っているのが確認できる。

本郭直下東側は腰曲輪が2段ほどある。それを北側に曲がり、本郭と米蔵の間の堀切に出る。
この堀底で銭形模様の足のない生物がコンチハをしていたので、一気にやる気をなくす。
米蔵の曲輪は直径20mほど。
ここから焼き米が出土する。米蔵の曲輪までは草が刈られているが、その北の西郭などは完全に藪の中。この方面への侵攻は断念。

本郭はさすがよく手入れが行き届いている。おばちゃん連中がハイキングに来ていて、お昼を広げていた。お茶を一杯いただく。
本郭は50m×25mほど。東南に3mほど低く長さ30mほどの腰曲輪が付く。
さらに5m下に腰曲輪が付き、南に回ると二郭に出る。ここは40m四方ほどの広さ。
本郭からは10mほど下になる。さらに下に三郭があり、焼きおにぎりが出土したのはこの曲輪である。
この曲輪から南に曲輪群が展開し、搦手道があった。

一方、二郭を東に戻ると、大きな堀切があり、ここから東の尾根に大手道が延び、曲輪群が展開する。
この堀切の東に長さ50mほどの曲輪があり、その先に深さ10mの堀切がある。
その東に長さ40mの曲輪、さらにその先に径50mほどの東一郭があり、堀を介し、さらに曲輪がある。
ここから一気に30mほどの高さを下り、堀切がある。その手前が東二郭がある。
道は曲輪のある尾根を迂回して付けられ、さらに大きな堀切、竪堀が2箇所、小さな堀切が数箇所確認できる。

この尾根の先端に直径300mほどの緩斜面の平場がある。
これが斐太遺跡の「矢代山B地区」であるが、周囲が堀のようになっている。どうもこれが環濠のようである。
ここは鮫ヶ尾城時代は利用されていなかったのだろうか?

@本郭内部、さすが良く整備されている。 A本郭の南の腰曲輪 B本郭(左)と米蔵間の堀
C米蔵の曲輪、焼き米が出土する。 D二郭 E主郭部と東尾根曲輪群を隔てる堀
F東尾根下り2つめの堀切 G東一郭東端の堀切と曲輪 H東二郭東の堀切
斐太遺跡内部は緩斜面の平坦地であった。 斐太遺跡の縁部は堀状になっている。 麓にあろ斐太神社、城の守護でもあったのだろう。

なお、斐太遺跡は、弥生時代後期後半の集落遺跡。
鮫ヶ尾城の山麓付近の100,000uを超える広さの低丘陵上に200軒を上回る竪穴建物跡が発見された大規模な遺跡であり、弥生時代後期の集落遺跡としては東北日本最大規模という。
このころは中国の史書に「倭国大乱」と記された戦乱の時代で、卑弥呼が登場する時代。弥生の戦闘を想定した集落は西日本に多く見られるが、上越地方にもこれらに似た戦闘を想定した環濠を持つ集落が多く出現する。
その最大規模のものが斐太遺跡という。斐太遺跡は、ほとんど完全な姿で埋まっており、標高80m前後する丘陵の先端部に「百両山地区」、「上ノ平・矢代山A地区」、「矢代山B地区」の3箇所に沢で隔てられて存在する。
なお、近年、南北に隣接する観音平・天神堂古墳群内でも同時期の可能性をもつ竪穴の窪みが見つかり、分布域がさらに南北に拡大する可能性が出てきているという。

斐太神社は、平安初期大同2年(807)創建。延喜式(927 )にも名を残す神社。
祭神は大国主命・矢代大明神・諏訪大明神の3つ。斐太神社では中風に効く薬を製造していて、病気の神様として人々の深い信仰を集めた。
戦国時代は上杉氏の信仰が厚く、斐太地区の産土神として発展。
天正2年(1574)上杉謙信は現在地に合祀し、鮫ヶ尾城の鬼門鎮護としたという記録もある。
天正7年(1579)の鮫ヶ尾城落城の際、兵火にかかり、焼失し、さらに明暦2年(1656)にも火災が起き、社殿・宝物・古文書等が焼失してし、詳細な歴史が分からなくなってしまったという。
江戸時代、高田藩主となった榊原家も代々斐太神社にお参りしたと伝いい、寄進された三本槍と一本槍・薙刀が社宝としてある。
 

鳥坂城(妙高市)
頚城平野南部、長野県境に近い妙高市の高床山の北、標高347.5mの城山にある。
城のある山は南北に長い独立した山で、JR信越線二本木駅の真東にあたる。
山の東を関川が流れ、飯山に向かう飯山街道(国道292号)が、山の西には片貝川が流れ、野尻湖方面に向かう国道18号線が通る。
妙高市の中心部新井の標高が70mというので結構な比高がある。

山自体も堂々とした山塊で登るのは手ごわそうであるが、意外に簡単。
城の南にある「高床山自然公園」まで北の先端部から自動車道が延びている。
この道路、細くて曲がりくねっているが、標高359m地点の公園まで問題なく案内してくれる。
この公園の少し北に入る山道があり、車はそこまで行ける。
あとはここから尾根筋を600m、アップダウンしながら行けば城址である。

城は普通、尾根先端部の盛り上がった部分に築かれることが多いが、この城は主郭部が外郭部より少し低い。
このため、本郭の南側は徹底した防御がとられ、四重堀切になっている。
城は典型的な尾根式城郭である。高床山自然公園から城址に向かう途中、城址の南方に狼煙台がある。

したがって、この城が本城というわけではなく、どこかに狼煙で情報を伝達する役目を負っていることは明白である。
その通信先こそ、いくつかの中継点の鮫ヶ尾城、そして最終目的地は春日山城であろう。
城の位置からして、飯山方面または野尻湖方面から頚城地方に侵入する敵に対する城である。
当然、その想定する敵は武田である。
川中島の合戦の時期に今の規模に整備されたのであろう。もちろん、武田氏がここまで侵攻することはなかった。
もし、侵攻してもこんな険しい山城は簡単には落とせないであろう。
この城を無視して先に進むことは退路を絶たれる恐れがかり不可能であろう。

この山の上に壮大な規模で存在するだけで、意義があるのであろう。
この鳥坂城と鮫ヶ尾城こそが、春日山城防衛網の南の拠点である。
なお、建仁2年(1201)、城小太郎資盛が鳥坂山で鎌倉幕府と戦ったとの伝承があるので、このころ、簡単な砦があったかもしれない。
ただし、鳥坂城と、平氏一族の城氏との関係ははっきりしないというが、この話、胎内市にある同名の鳥坂城との混同だろう。

御館の乱で鮫ヶ尾城は登場するが、この城は登場しない。
御館の乱後、鮫ヶ尾城は廃墟となり再建されなかったようであるが、この城は春日山城の南の防衛拠点として健在だったと思われる。
廃城は上杉氏が会津に移った後であろう。

城の本郭部に行くには尾根上を真っ直ぐ進めば良いが、東の中腹にある「東郭」を経由して、主郭部に向かった。
この道を通ると四重堀切の四重目の堀底Dに出る。
そこは深さ4mほどの急勾配の堀。よく風化しないものである。2つの堀を越え、本郭背後の堀Cは深く、本郭側から7mほどの深さがある。
本郭@は南北30m、東西15mほどの曲輪で南側に土塁があり、北方面の眺望が抜群である。北下8mに二郭がある。
ここは西側に土塁Aを持ち、長さ70mほどで2段になっている。東の虎口Bと竪堀があり、東斜面に曲輪が段々になっているという。
末端には屋敷跡がある。二郭の北に深さ8mほどの堀切があり、さらに三郭等が並ぶが夏場の草茫々状態では行くことができず引き返す。

帰りは尾根道を行く。
四重堀切南端の堀Dの南の曲輪は長さ40mほどであるが、ほとんど細尾根である。
その南に深さ5mの堀Eがあり、そこを越えると若干高くなり、石の社がある。
その先に土塁Fがある。この堀は下りながら、東に50mほど延び、さらに北に曲がり、L形をしている。
この土塁の内側は土盛りをしたためか、堀のように抉れている。
この曲輪内部は平坦ではなく、自然の山状態である。

この曲輪の外には深さ4mほどの堀Gがある。堀は箱堀状であり、幅が15mほどあるが、これは埋没した結果か?
この堀も土塁に沿ってL形をしている。
この堀の南側は曲輪があるように描かれる縄張図もあるが、見た感じ、ただの山にしか見えない。
なお、城のある尾根の斜面部には畝状竪堀群が構築されているというが、藪が酷くてよく分からない。
この城、遺構をちゃんと確認するなら雪が降る直前が良いであろう。熊が出るかもしれないけど・・。

@本郭と北に見る頚城平野 A本郭北下8mの二郭 B二郭東の虎口
C本郭背後の堀切 D四重堀切南端の堀切 E Dの堀の40m南にある堀切
F 南端の郭のL形の土塁 G 南端の堀 H 東郭