大間城(上越市三和区)37.1416、138.3757
直峰城の西約5qに位置し、春日山城からは東に約15q、両城の間に位置する。
頚城平野の東が山地になる場所にある。

↑南西側から見た大間城。右の林の先に阿弥陀寺池がある。山の左側の稜線部が大手道。
県道43号線の北にある「阿弥陀寺池」の北側にある標高102mの「城山」が名前の通り城址である。
池の西側の堤防北側から登る道がある。
ここを登って行くと東屋があり、広い尾根が続き、勾配が急になってきた付近から横堀、竪堀が現れる。
その上の曲輪は緩斜面であり、本郭がその北側に位置する。この登城ルート沿い、遺構がパッとしない。
いきなり気合いが入った本郭が現れるのである。

それもそのはず、このルートは大手道ではない。
大手道は西から登る尾根筋なのである。大手道@を登った場所が本郭の北側の曲輪であり、その東側、北側に横堀が多く構築されている。
しかし、一番よく出来ているのは本郭Bであろう。
約30m四方の大きさであり、周囲を土塁Cが覆い、曲輪の外側を横堀A、Dと土塁が覆う。

@大手道は比較的幅が広い。所々、堀のような場所もある。 A本郭北側の横堀 B本郭内部
C本郭周囲はほぼ土塁が一周する。 D本郭南側の堀 E本郭南側の曲輪は緩斜面であり、十分に整地されていない。

どうやら元々はこの本郭部のみの「狼煙台」として構築され、順次、周囲に拡張していったように思える。
春日山城の支城で、上杉謙信の家臣、島倉越前守の居城と伝わるが、春日山城と直峰城と間に位置するため、いわゆる両城間の「繋ぎの城」の役割であったと考えられる。
本郭からは西に春日山城が望まれる。↓


虫川城(上越市浦川原区)37.1546、138.4490
直峰城の支城であり、北約1.8qに位置する。
霧ヶ岳(507)山系の北東末端に位置する保倉川と細野川の合流点にある標高98.2mの山に築かれ、比高は約40mである。
この2つの川が水堀の役目を果たす。
北側を国道253号線が保倉川と並行して走り、根小屋を分断する。
山の南側を「北越急行ほくほく線」の「霧ヶ岳トンネル」が貫通する。
すぐ西側に「虫川大杉駅」である。

↑ 西側から見た城址、正面の岡が根小屋、居館跡

山頂の本郭から北西斜面に曲輪が展開し、西の麓が水田地帯より一段高く、根小屋、居館跡という。
山頂の本郭Dは1辺40m、30m、30mの三角形をしており、中央部と西側に櫓台跡という土壇がある。
その約8m下が二郭Cであり、北側が広く、本郭の東西をコの字形に覆う。
広さは本郭を含め、南北約60m、東西約40mである。

山続きの南西側の尾根に堀切があり、その下は隧道になっている。
二郭の下、約11mを三郭Bが覆う。
三郭は幅約15mの帯曲輪であり、二郭周囲をコの字形に覆う。

@登城路を登って行くと平坦地が広がるが一面の藪。 Aさらに登って行くと、正面に切岸が立ちはだかる。 B三郭は平坦であるが、笹が多い!
C二郭の北側を低い土塁が覆う。 D本郭内部には櫓台跡という土壇が2つある。

さらにその下約8mに北東に向けて緩斜面になっている広い曲輪A、@があり、根小屋に至る。
主郭部の遺構はほぼ失われていないようでる。
本郭には東屋やトイレもあり、公園になっている。
登城路も整備されている。
しかし、現在は管理された状態ではなく、藪化が進行し、ジメジメし、登城路もかなり痛んでいる。

城の歴史については詳細は不明であるが、伝承によれば築城は南北朝時代で、直峰城主風間信濃守信照の家臣本田(杢田)主膳が城主であったと伝えられる。
それ以降の城主等については不明であるが、位置的に直峰城の北下にあり、支城として機能していたものと思われる。