箕冠城(上越市板倉区)37.1409、138.6464
「みかむり」と読む。頚城平野の南部、標高236.5mの「箕冠山」にある。
ここの南は信濃国境につながる山地である。
城の眼下を飯山駅を出て飯山トンネルに入り、頚城平野に出た北陸新幹線が上越方面に走る。
↑北下山部地区から見た城址。山頂部の本郭がくっきり見え。「かっこいい!」。城は後ろ側に長い尾根の先端にある。
北から箕冠山に向かうと山上にいかにも曲輪といった平坦地が目に入る。主郭部である。
その光景、「かっこいい」のである。
↑ 上の写真の山頂部拡大。右が本郭F、一段低く左が馬出E、堀切部分が窪んで映る。
さて、この山、山麓の山部地区からは約180mある。一直線には行けない。
行くには南側に回り込み、城の約1.5q南の西貝屋地区37.0170、138.3028から林道に入り北に向かう。
標高192m地点の駐車場まで行く。
駐車場から主郭までは比高40m、水平距離で約300m、そこまで車で行けるのである。
だいたい、この駐車場のある場所も城域だったようで堀切があったという。
ここから200m歩けば城内である。
城内は一部を除き、良く整備されており、見学は快適である。
こんなに簡単に素晴らしい中世の城郭を見れるのは非常にコストパフォーマンスに優れている。
でも、実際、どれくらいの人が来るのだろうか?
この城のある山、南から北に突き出た尾根先端の盛り上がった山にあり、城域は東西約400m、南北約300m。
山の東側には大熊川、西側には小熊川が流れ、外堀の役目を果たす。
城から南に続く方面が比較的緩やかであり、弱点である。
このため、城の南側の出丸のような曲輪、五郭H、Iがある。
なお、その北側、主郭側には池@がある。
この池は井戸も兼ねていたと思われる。
ここの標高は207m、東側が三郭ということになっているが、ジメジメしたような感じで果たして曲輪なのか?
@主郭部の南側に池がある。水場も兼ねていたのだろう。 右側が出丸のような曲輪になっている。 |
A 池の北側、一段高く二郭がある。 | B二郭の北側には横堀が東西に構築される。 |
この南側に尾根状の山が東西に横たわり、ここが五郭である。ここにはH、I、土塁が構築され、障子堀のような堀がある。
ここは防塁のような曲輪と言える。
この部分、藪で分かりにくい。
この部分と池、主郭の連続が長野市の桝形城と非常に良く似る。
もしかしたら桝形城のモデルはこの城か?
←主郭下に窪地のような場所があるのは長野市の桝形城とそっくりである。
池の北側が主郭部である。
池より一段高く、標高214m地点に二郭Aがあり、背後に横堀Bがある。
この横堀は西側で四郭Gとの間との堀切Cとなり、
西側には一段高く広い曲輪がある。
さらに8m上に帯曲輪Dがあり、さらに登ると本郭Fである。
C Bの横堀は西で堀切となる。 | D Bの横堀のさらに上側に帯曲輪がある。 | E 本郭から見た東側の馬出のような曲輪、間に堀がある。 |
曲輪が東から3段重なり、本郭東直下の曲輪Eは馬出というが・・。
確かにそのようにも見える。
本郭との間には堀がある。
山の最高箇所にある本郭Fは60m×40mの広さがあり、頚城平野の眺望が良い。
春日山城もばっちり見える。日本海も見える。
本郭の北下一帯にも曲輪が裾まで重なる。
F最高箇所の本郭は広く、眺望が良い。 | G二郭西側の曲輪上は広い。 | H 池の南側の出丸のような五郭の土塁。 |
築城時期は不明だが、越後国守護上杉氏の重臣大熊氏が居城として知られる。
大熊氏は戦国時代、重臣として越後守護上杉氏とともに越後に入り、仕える。
その後、上杉謙信(若い頃は長尾景虎)に仕え段銭方などの要職を務めた。
当時の当主が大熊朝秀である。
1553年(天文22)、節黒城(十日町市)の上野家成と千手城(十日町市)の下平吉長とが領地争いを起こし、それが周囲の土豪を巻き込み、朝秀も巻き込まれ、反乱を起こし、長尾政景、北条高広も反乱を起こす。
この領内の混乱が起こったことで、景虎は国主を放棄して出家を宣言する。
I池南側の五郭の東側の櫓台のような場所。 | 本郭から見た北方向には日本海が見える。 | 本郭からは春日山城もばっちり見える。 |
この騒動は景虎を翻意させることで終息し、反乱を起こした武将の多くも帰参道するが、朝秀は行動が速すぎ、越中に逃れてしまう。早とちりか?
越中から越後に侵攻するが破れ、武田氏の下に亡命する。
なお、朝秀は最期まで武田氏を裏切らず、天正10年(1582)天目山で戦死する。
その後の箕冠城の歴史は分からない。
しかし、残る遺構は戦国末期のものであり、朝秀逃亡後も城代が置かれ、南西約5qに位置する妙高市の鳥坂城と並んで信濃方面からの侵略を防御するための拠点であるとともに謙信の川中島出陣の際の軍勢の集合地、宿城として使われていたと思われる。
御館の乱での動向は分からない。
廃城は慶長3年(1598)の上杉氏の会津移封の時であろう。
(「甲信越の名城を歩く 新潟編」を参考にした。)
御館(上越市五智)
御館の乱で有名な館であるが、本来は前関東管領、上杉憲政の居館で、現在は主郭の中心部が、御館公園になり、館跡地を示す碑が立っているだけで、館の存在を推定させるものはない。
周囲も完全に宅地化してしまっている。
館は上杉謙信が越後に逃れた上杉憲政の居館用に弘治年間に造営したというが、それ以前から存在し、憲政以後も府中の街を治める政庁として使用してともいう。(政庁の一角に憲政の居館があった?) そして、この館の名前が有名になるのは、謙信死後に勃発した御館の乱の舞台となったからである。 上杉景虎は春日山城からここに拠点を移し、春日山城の上杉景勝と対するが、次第に劣勢となり、景勝勢の攻撃を受け、天正7年(1579)に落城。 周囲の街も焼失し、廃墟になったという。 |
御館公園に建つ館跡碑 | 公園内には館の遺構はまったくない。 |
その後、堀氏が利用したともいわれるが、慶長5年(1599年)時点で既に周囲を含めて耕地化されている。 発掘の結果出土した遺物も16世紀代のものが中心で、国産・舶載陶磁器や鉄砲玉が出土し、戦いがあったことを証明している。 JR直江津駅の西南、約700メートルの地にある平城であり、主郭は東西約120m、南北約150mの規模があり、庭園があったという。 その周囲は幅約20mの堀で囲まれ、周囲にはさらに4つの郭があり、それぞれ堀で囲まれる。 城域は東西約250m、南北約300mという巨大さで、館ではなく、完全な平城である。 御館の乱で長い期間持ちこたえたことからも、水堀による防御によりかなりの要害性を持った館と言える。 |
まったく、遺構がないが、何か面影がないのか探してみた。
その結果、昭和22年、米軍が撮影した写真に水田となっている館の跡地に館の姿がうっすらと浮き出ているのを発見。
その写真が上のものである。
この写真は上が南、右上に延びる線がJR北陸線であり、蒸気機関車の煙が写っている。
乱以後、館跡は戦後のころまで耕地化していたのである。
上右が館跡の公園にあった解説板にあった図である。
この2枚の図、若干回転にずれがあるが、
写真で確認できる浮き出ている館跡の方形形状が、解説板の図と良く一致する。
福島城(上越市港町)
上越市立古城小学校付近が本丸跡と伝えられ、校内に城址碑と右の解説板と図があるが、詳細は不明という謎の城である。 しかし、小学校の校内に城址碑を建てるのは困ったもんだ。 北が日本海に面し、保倉川、関川に囲まれ、西側が府中の町という完全な平城。 関が原直前、慶長5年(1600)ころ、上杉景勝会津移封の後に春日山城主となった堀秀治が、山城で不便な春日山城に代わる居城として築城を始めたという。 おそらく、莫大な利益を上げる直江津港の交易を直接支配することを狙った築城であろう。 しかし、経済的理由を優先し過ぎたのか、洪水という自然災害に対する考慮がされているとは思えない。 現在でも城のあったという場所は低地である。 現在は堤防等、治水対策が講じられているが、当時の治水技術では心もとなかったであろう。 案の定、完成後、何度か洪水の被害を受けたようである。 |
これではいくら港から利益を上げても、利益が散財することになってしまう。(修復事業発注という点では、経済効果は大きいが・・) ともかく、城は秀治の死後家督を継いだ堀忠俊の代に7年間もかけて完成、慶長12年(1607)忠俊が春日山城から福島城へ移転。 これもあったのか、堀忠俊の改易後、入った松平忠輝は、度々水害にあうこの城を嫌い、慶長19年(1614年)、高田城を築城して移転、福島城はわずか7年で廃城となった。 その移転のエピソードとして忠輝が『波の音で眠れない』と言ったという有名な話もある。 |
||
小学校内に建つ城址碑 | 本丸の地という古城小学校 |
なお、城址は昭和42年(1967)から部分的に発掘調査が行われ、石垣遺構や陶磁器片などが出土したが、全体像は判明していないという。
古城小学校内の城址の絵、どこまで真実か・・?
高田城(上越市本城町)
徳川家康の六男、松平忠輝の居城として天下普請によって造られた近世城郭である。
この地に忠輝を置いた理由は、加賀の前田家に対する備えに他ならない。
城の縄張と工事監督は忠輝の舅の伊達政宗という。
完全な輪郭式の平城であり、低湿地に築いたため、水城という感じであり、外堀などは幅100mほどもある。
本丸は220m四方の大きさであり、その外側に二の丸、南に三の丸、北に北の丸を配する。
石垣を使わない土塁の城であり、石垣はなかったという。 |
天守代わりの再建された御三階櫓 | 西堀 二の丸西側の堀である。 | 本丸内部から見た外周の土塁 |