直峰城(上越市安塚区)37.1406、138.4512
「のうみね」と読む。謙信の関東出陣の際の最初の宿城と言われる。
春日山城の東約20qに位置し、春日山城のある頚城平野の東を守る拠点でもあった。

↑南西側、県道13号線、牧野峠から見た直峰城、山頂部に曲輪群が見える。

↑山頂部拡大。最高部が本郭E、右下の平坦地がF、本郭左下が堀切D、さらに左下の平坦地が二郭C。

城山(343.8m)に築かれた山城であるが、直下まで車で行けるのがありがたい。
曲輪が展開している城域は約600m四方であるが、林道に沿って段々の場所があるのでもっと広いと思われる。
まあ、上杉軍団が集合する城であるので、軍勢の人数に応じた宿泊スペースがあって当然だろう。

城下町だったという麓の安塚地区の標高が77mなので、かなりの比高が稼げる。
城の南を国道304号線(松之山街道、旧三国街道)が通り、城山林道が北に延びる。
この林道を約1q行った終点が、城見学の駐車場である。
この駐車場、おそらく曲輪を転用したものである。
標高は240m、ここから北に登城路がある。

@主郭部直下には池がある。飲料用だろう。 A主郭部南斜面の段々の曲輪を登城がS字に登る。 B 頂上部西下の三郭。

または駐車場の東側の曲輪群(屋敷群)を登って行くと主郭に到達する。
ここまで車で来れてもまだ本郭まで比高100mある。
やはり半端ないごつい山城である。

C本郭(右)の北下にある二郭には段差がある。 D本郭西下には堀切(箱堀)がある。 E本郭内部は広大であり、眺望が良い。

この城も越後の多くの山城同様、切岸の勾配と高さがなかなかのものである。
駐車場から真っ直ぐ北に登ると主郭の南斜面に曲輪が次々展開する。@、A。

曲輪の多くには家臣の名前が付いた屋敷跡の標柱が建つ。
しかし、屋敷を建てるには狭く小屋が建てられる程度である。
こんな場所に家族同伴で定住していたとは思えない。

F主郭部南東に展開する尾根に土塁を持つ曲輪がある。 Gさらに下には広い曲輪が段々にある。 H土塁を持つ曲輪は城代の館跡か?謙信公在所か?

この城はおそらく城番が交替で常駐しており、一定数の兵が常時いたものと思われる。
その時の駐屯場所が名前の付いた屋敷跡だった、またはこの城は軍勢の集合地でもあるので、手勢を率いて来た侍大将クラスの指揮官の入る場所だったのではないかと思われる。

駐車場から少し登った「上杉藤五郎屋敷」の脇に池@があるが飲料用ではないかと思われる。
さらに登ると「池田隼人」「宅島若狭守」屋敷跡の標柱のある曲輪を経て、ジグザグに登って行くと主郭部である。

3つの曲輪からなり、最上部が本郭であるが、標高は343.8m、東に鋭い三角形をしており、東西約100m、南北最大約50mの大きさである。
本郭からは春日山城や日本海が望まれる。
←主郭から見た南西下の安塚地区、ここに麓居館があったという。下からの比高約280m。
北側を二郭Cが覆い、西下に堀切Dがある。二郭までは比高20mある。
本郭の東下に堀切がある。
本郭の東側は急であり、東に延びる尾根にはたいした遺構はない。
一方、主郭部から西に下る尾根筋には多重堀切等、複雑な遺構がある。

↑ 本郭から見た北の日本海、春日山城は木の枝が邪魔で写真が撮れない。
本郭の周囲は鋭い切岸になっている。
南に下る尾根筋が大手道であり、この尾根筋にも武将名の付いた曲輪が次々に展開する。
その中に「風間信濃守」屋敷跡Hという場所があるが、この人物、南北朝期の人物である。
他の武将達とは200年以上も前の人物である。
いくら何でもこの時間を越えた混同は・・・?

築城時期は不明であるが、南北朝時代、南朝方の風間信昭により築かれたといわれる。
南朝勢力が衰退すると、越後国守護上杉氏の支配下に組み込まれた。
永正4年(1507)、謙信の父、長尾為景と戦い敗れ関東へ逃亡中の守護上杉房能が当城に立ち寄ったが、長尾為景軍の追撃を受けて松之山に逃れ、8月7日に天水越で自刃する(永正の乱)。
天文年間(1532〜1554)の城主は、吉田英忠(吉田秀忠とも)であった。

景虎(上杉謙信)の代になると、関東遠征の際、春日山城から三国峠へ向かう最短経路上の宿城として整備された。
天正6年(1578)、御館の乱が起こった時、始めは景虎方であった城主、小日向隼人佐が景勝についた。
これにより、景勝の本拠、坂戸から犬伏城、直峰城を経由して春日山城に至る輸送路が確保され、景勝方の勝利に大きく貢献した。
乱後、天正12年(1584)、直江兼続の父樋口兼豊が城主となる。
慶長3年(1598)、上杉景勝の会津移封後、越後を得た堀秀治の重臣堀光親が城主となった。
慶長15年(1610)、堀忠俊が改易されると廃城となった。
(「甲信越の名城を歩く 新潟編」を参考にした。)