顕法寺城(上越市吉川区顕法寺)37.2011、138.4032
「けんぽうじ」と読む。顕法寺とは城址北側にある寺の名前であり、地名にもなっている。
元々、城には例のごとく名前などなく、とりあえず地名を付けたということなのだろう。
城があるのは春日山城の北東約18qの標高182mの山である。

しかし、ここに行くのが一苦労、城址の南側を通る林道を利用すれば車で城の直下まで乗りつけられるのではあるが・・・。
この林道、東下を通る県道61号線、道之下地区の37.1926、138.4140付近から西に入り進んで行けばよい。
しかし、荒れている。未舗装であるが、乗用車で行けないことはないのだが、轍ができており、車底を草で擦る。
できれば軽トラとかオフロード車で行くのが望ましい。
この他にも北側から登るルートもあるようである。

@林道からの登城路を登ると主郭と東尾根を分断する堀切
 に出る。
A主郭南下の帯曲輪 B本郭東下の二郭から一段高い本郭の切岸を見る。

ともかく、城の主郭部の南直下に城址入口の標識があり、そこを進む・・・のだが、その道というか階段のブロックが崩れかかっており、かつ周囲は藪化してる状況。
晩秋に来たのにこんな状態である。夏場に行くのはとてもお勧めできるものではない。


C本郭内部、ここからの眺めは良い。 D 主郭東下の帯曲輪、ここから顕法寺方面に通じる。 南東下、県道61号線近くから見た城址。

ともかく、ここを上がると、主郭南下の帯曲輪Aに出る。
この付近から東に尾根が延び、曲輪、堀切が連続する。でも、この尾根、酷い藪である。
主郭部との間は堀切@で遮断される。
堀切から北に行くと城址の解説板が建つ曲輪Dになる。
北東下から登る道がここで合流する。その道沿いにも遺構がある。その曲輪の西側が主郭であり、階段が付いている。
そこを登ると、帯曲輪(二郭)Bを経て本郭Cである。
主郭部は南北約60m、東西最大約80m位の広さか。
最高箇所の本郭は約20m四方の小さいものであるが、ここからの眺望は良い。

↑本郭から見た西の春日山城方面

さらに主郭部から北に延びた尾根にも遺構があり、顕法寺から西側に通じる道を抑えていたと思われる。
南北朝時代の正平10年(北朝暦では文和4年(1355)、観応の擾乱において、足利直義に付いた上杉憲将、宇佐美一族(一応、南朝方になるのか?)は当城で挙兵し、風間長頼(北朝方)と戦い、敗れて六角峰、更に柿崎城に拠ったが、挽回成らず四散したという。
その後、史料からこの城の名前は消えるが、今見られる遺構は明らかに戦国時代の遺構であり、戦国時代になると春日山城の支城として、井崎次郎左衛門、丸田左京が城代として在城したという伝承もあることから、春日山城の支城として存続していたようである。

御館の乱では、この付近の城は景虎方が抑えていたようであるので、顕法寺城も景虎方の城であったと思われ、御館への補給路を確保していたと思われる。
しかし、これらの城は次々に景勝方に攻略され、補給路が絶たれた景虎方が壊滅する。

御館の乱終息後は建物は撤去されていたようであり「古城」と呼ばれ、実質的に廃城状態になっていたらしい。
完全な廃城は慶長3年(1598)上杉景勝の会津移封後であろう。
なお、城代であったと伝えられ、越後に残った丸田左京は後の上杉遺民一揆で活躍した人物である。

↑本郭からは日本海越しに佐渡島も見える。

本郭からは、西に春日山城、東南に直峰城、東北に猿毛城、柿崎城、旗持山城が見え、日本海の彼方に佐渡島も見える。
城の北側にある顕法寺の地が居館であり、その避難場所兼狼煙台、物見台として築かれ、徐々に拡張されていった感じである。
(「甲信越の名城を歩く 新潟編」を参考にした。)

茶臼山城(上越市頚城区矢住)37.1945、138.3732
北越急行ほくほく線「くびき駅」の東約1q、「新溜」の北側に堤防があり、その東西に城郭遺構がある。
規模からして西側が本城で、東側が出城である。
両者の距離は約300mである。
溜池はかつては一方が開いた三方を岡に囲まれた水の湧く湿地だったようであり、2つの城は半独立状である。
おそらく、今の堤防の場所に木橋のようなものがあって連絡していたのであろう。

堤防脇から城に行けるのであるが、2つの城とも茶臼山城となっておりややこしい。
解説板はどっちも茶臼山城である。

新溜(左)の堤防上から見た西側の本城
反対側、東側の出城、頂上部には井楼形の物見台が建つ。

城に行く遊歩道には獣避けの高圧電線が張られており、注意が必要である。まず、西側の主城を目指す。
西側の山を登り、出城に近い東端部に行ってみる。しかし、平場になっているだけ。
取立てて何もない。この場所、出城と連絡をとる場所のように思えるのだが。

@本城の東端、普通は堀切だが、鞍部のようになっている。 A本郭は藪!辛うじて西側は少なく、土塁が確認できる。 B本郭の西下は堀というが・・箱堀状、曲輪といった感じ。

西に向かうがしばらく何もない。
道が下りとなり鞍部に出ると西側に切岸が見える。城郭っぽい。どうやらそこが主城らしい。
この鞍部、堀切があって良さそうであるが、平場である。@
斜面部は竪堀になっている。

遊歩道が城のある岡の南側、新溜を見ながら西に進むように付いている。
そこから、西の本郭に入る。
溜池堤防の所にあった看板には、ここは「まつりやま」ということになっている。
整備された広場なのだろうと想像したが・・・そこは一面の藪だった。
解説板がその藪に中に建っていた。
この曲輪、30m×75mの広さがあるというが大きさがちっとも分からない。標高は42mである。
西端部は土塁Aがコの字形に覆う。

西下が堀Bになっているが、腰曲輪がある。
その西が馬出になっているが、中は藪、その西に堀Cがある。

さらに西側Dは岡が続く。
一方、溜側には腰曲輪が3段ほどあり、井戸があるのだが、藪で写真にならない。
この城、西に防御の重点が置かれているが、御館の乱の時の景勝方になっていた春日山城を意識したものだろうか?

C馬出(右)西側の堀。 D Cの西側も城域であるがダラダラした感じである。

一方、東側の出城は径50mほどの小さな城に過ぎないが、主城よりはるかに整備されている。
当然、訪れる人はこっちの方が多い。
こちらこそが茶臼山城そのものと思っている人が地元にも多いという。

E出城の二郭には伝説を持つ井戸がある。 F出城の頂上部の本郭には展望台が建つ。

頂上の標高36mの本郭は東西32m、南北32mの広さで井楼櫓を模した展望台が建つF。
その西側、南側に腰曲輪がある。
北東下が二郭Eである。
かつてここから観音像が出土し、今日、矢住町内の寺院に安置されているという。

また、井戸跡Eがあり、次のような悲しい伝説が残る。
『城主、手島清蔵源影行は、御館の乱では景虎方に加わったが、戦況は徐々に劣勢となり、茶臼山城景勝方に包囲され、城主手島氏は、城を支えきれないと判断し、城を捨てて逃れることにした。
城内には美しく琴の名手であった姫がおり、手島氏はこの姫を愛していたが、姫をともなって落ち延びることは困難と考え、姫を残して自分だけ落ち延びることにした。
女性なら助かると期待したからであろう。
手島氏は姫と泣く泣く別れ、城を後にした。しかし、姫は手島氏と別れた後、悲しみのあまり、敵勢が城に攻め入る前に、井戸に身を投じて死んでしまった。
数日後、人々が、姫が身を投じた井戸に石を投げ込むと、「ぼちゃん」という水音に続いて、井戸の底から、美しくも悲しい琴の音が響いきたという。
まるで、悲嘆にくれて池に身を投じたはずの姫が奏でているように聴こえ、人々は琴の音を聴いては悲しんだ。』

なお、この井戸には柿崎浜に抜けるものだという謎めいたいい伝えも残る。

顕法寺城の支城として、南北朝時代に築城されたという。
伝承によると南北朝時代は南朝方の河野弾正通信、上杉時代は黒金摂津守の居城という。
一方、頸城村史には、御館の乱で手島清蔵源景行の代に景勝方の猿毛城将・上野九兵衛尉の攻撃を受け落城し、城から落ち延びたとあり、このときの伝説が上の話である。
御館の乱で茶臼山城は景勝方に落されたが、手島氏は脱出に成功し、家臣6名とともに柿崎浜から船で新潟の島見浜にたどり着いた。
その後、手島氏は新潟市島見町の浄土真宗西厳寺の住職になる。
出城には非業の死を遂げた姫の追悼碑が建つ。
この碑は城主末孫第十五世にあたる手島恵昭氏と城主の四天王・六人衆の末孫が昭和62年11月に建立したものであり、碑文は手島恵昭撰である。

本城地区は大規模な空堀と土塁に防備された山城であるが、以外にもこの城は地元の人々に知られていない。
主郭と第二郭と思われる西側の曲輪を挟んだ空堀(竪堀)は麓迄長く掘り下げており、土塁の規模も大きく、城地の規模は小さいが南方の新溜と北東にある田地は、圃場整備が行われる迄は腰まで浸かる深田であったと言われ、湿地帯で軍事的役割を果たしていたと思われる。