春日山城(上越市)
ご存知、戦国最強の武将、上杉謙信の居城である。
上杉謙信の名前にふさわしくオーラが出ている城であり、その規模も広大である。
訪れる観光客もさすが凄い数である。休日などは観光バスでやって来る。
周囲の砦群まで含めれば、郷津港まで城域であり、数q四方の規模があるともいう。
とは言え、普通、春日山城といえば、春日山神社付近から本郭、そして南の柿崎屋敷あたりまでであり、このエリアが一般的な観光コースであり、遊歩道が整備されている。
@ 城址に建つ謙信の銅像 |
上杉謙信の名前が輝きすぎ、春日山城=上杉謙信という公式が一般的である。
まあ、ほぼそれに間違いはないが、南北朝時代、越後国守護上杉氏が越後府中の館の詰め城として築城したのが始まりといわれる。
永正4年(1507)、上杉謙信の父、守護代長尾為景が上杉定実を擁立し、守護上杉房能を追放。
新守護として定実を傀儡にまつり上げて府中に入れ、自身はが春日山城に入り、越後の支配者としての実権を握る。
以後、越後の支配者として、為景、晴景、上杉謙信(長尾景虎)、上杉景勝、四代の居城となる。
今の城は上杉謙信、景勝の代に徹底して拡張整備され、戦国最大の要塞となった姿である。
上杉景勝が会津へ移った後、越後には堀氏が入るが、統治には山城は不便なため、慶長12年(1607)に直江津港近くに福島城を築城して移り、春日山城は廃城となる。
おそらく城の建物は移築されたと思われる。
現在、林泉寺の惣門は春日山城の搦手門を移築したものであると言われている。
廃城となった山は再利用されることなく、一部は畑になるが、ほとんどが森林となり、その中にこの壮大な中世城郭の遺構が手付かずの状態で眠っていた。
城は上越市の直江津地区と高田地区の中間の西の山、標高180mの春日山山頂を中心にした山全体が城であり、天然の要害を持つ難攻不落の城といわれる。 別名は「鉢ヶ峰城」ともいうが、主郭部が鉢をひっくり返したような形をしているためから付いたという。 通称の「春日山」の名は、城の東方にある春日神社に由来するという。 この春日神社の創建年代は、天徳2年(958)説、守護上杉氏の築城の際とする説、文明年間(1469〜86年)と3説があり分からない。 以下、春日山城の遺構の解説を行うが、写真番号、曲輪名等は右の図による。 最も一般的なコースは謙信像が建つ、春日山神社の入口まで車で行き、ここに車を置いて、春日山神社の裏から登るコースか、その南、但馬谷に沿う道を行く。 後者の道は多分、当時の道ではないようだ。 この謙信像のある場所@、その前の駐車場が堀切で、売店がある地が「馬場」であったという。 春日山神社Aは江戸時代に創建された神社であり、もともとはこの場所も曲輪である。 |
ここに来るまでの間にも曲輪はいくつかあり、神社参道の階段前の駐車場も曲輪の跡であったという。
春日山神社の裏手から主郭に登る道があるが、これが搦手道Bである。
その途中、東下の斜面を見ると曲輪が何枚も重なっている。でも内部は藪である。
末端部に広大な屋敷跡があるという。この道を登って行くと、千貫門の曲輪Cに出る。
A春日山神社の曲輪の1つ | B神社裏の搦手道、右側には曲輪群が展開する。 | C搦手道は千貫門に至る。ここから先が主郭部である。 | D千貫門の先に堀切があり、ここを越えれば直江屋敷となる。 |
ここが主郭部の入口である。ここを上がると堀切Dがあり直江屋敷Eという曲輪に出る。
ここは三段ほどになっており、長さは100mほどか。直江兼続の屋敷があったというが、景勝時代の話か。
それ以前は直江景綱がいたのだろうか。
この上に「お花畑」という薬草園がある。
ここから本郭の東下の曲輪に帯曲輪が回る。
お花畑のさらに上が毘沙門堂のある曲輪、さらに護摩堂があり、その南に本郭が聳える。
この間の曲輪間の高度差は数mあり、傾斜は急である。
E直江屋敷は3段の曲輪 | F毘沙門堂 | G護摩堂跡 | H本郭東の急勾配の切岸 |
本郭Iは多くの本などに写真が出ている有名な場所でさすがに観光客が多い。
ここからは頚城平野や日本海もばっちり見える。
謙信が見た風景である。景勝が御館をここから睨みつけたはずである。
本郭部は南北2つに分かれ、北側が「実城」I、南側を天守閣跡Jとなっている。
もちろん天守閣などなかったのであろうが、それに相当する建物はあったはずである。
本郭部は真ん中に堀切がある。ここには橋があったのであろう。
はたして上杉謙信はどこで生活していたのだろうか?この本郭内に住んでいたのであろうか?
御館の乱では、景勝一派は始めに本郭の金蔵を抑えたというので、この本郭は金蔵でもあったことになる。
それなら、謙信は金と一緒に生活していたか?この辺は尽きぬ謎である。
本郭の西側下には井戸曲輪Kがあり、今も水がある。ここの水を謙信も飲んだのか?
I 本郭(実城)内 | 実城から見た直江津港 | J 天守閣跡という曲輪 | K 本郭西の井戸曲輪 |
井戸曲輪の南が堀切Lを挟んで、鐘楼M、ここは狭い。直径10mほどしかない。
さらに堀切Nを介して景勝屋敷Oである。
L井戸曲輪と鐘楼間の堀切 | M鐘楼内部 | N景勝屋敷入り口の堀切 | O景勝屋敷内部 |
本郭に向かう道は他にもいくつかある。
城の大手道は南側を巻くように大きくカーブしながら登る道であり、本郭までは1.5qある。
この道筋に南二郭、三郭などの多くの曲輪群が展開するが、曲輪は林と畑になっている。
大手道は柿崎屋敷Pに出る。
柿崎屋敷という名が付いているが、ここに柿崎和泉守の屋敷があったかどうかは分からない。
春日山城の曲輪には武将の名が付いた曲輪が多数存在するが、どこまで真実か?
柿崎屋敷はともかく、直径100mほどもある広大な曲輪であり、南一郭とも言われている。
庭園があったともいうので迎賓館のような施設があった可能性もある。
西側には宇佐美屋敷と呼ばれる曲輪があり、景勝屋敷との間には池があったらしい。
P広大な柿崎屋敷内部 | Q二郭から本郭を見る。高い! | R米蔵 | S三郭または景虎屋敷 |
ここから本郭までは景勝屋敷、鐘突堂の堀切を通り、井戸曲輪経由で入るか、東下の帯曲輪から入ったのであろう。
この道を「御成街道」ともいうが、これは古代の幹線道路である。
その幹線道路を取り込んだことになる。
もともと、築城当時の春日山城はこの幹線道路を抑える目的として築城されたのかもしれない。
まあ、この大手道から登る道で行く人は少ないだろう。
一方、本郭の東下15mに腰曲輪があり、下に曲輪が重なる。その下が二郭Qである。
本郭との高度差は30mくらい、凄い勾配である。
御館の乱では二郭を景虎側が抑え、本郭との間で激しい戦闘が起こったというが、やる気満々の連中に本郭を抑えられたら、この30mという高度差は不利である。上からは鉄砲でどこでも狙い撃ちが出来る。
この二郭の下が三郭、米蔵Rと上杉景虎屋敷Sという曲輪である。
米蔵には土塁がきれいに残る。
その裏側は豪快に竪堀が下っている。
本当にここに景虎がいたのか分からないが、本郭を抑えた景勝派が食料難に陥ったということから、ここの米蔵を景虎派に抑えられたことは十分に考えられるかもしれない。
この三郭を下ると甘粕屋敷に出るが、ここは道路になって改変されている。
さらに下に数枚の曲輪が重なる。まだまだ、藪の中に多くの曲輪が存在するようであるが、とても把握できない。ここはそれほど巨大な城である。
林泉寺
春日山城から直江津方面に少し行くと謙信ゆかりの林泉寺がある。
この寺は長尾家、上杉家の菩提寺であり、明応6年(1497)謙信の祖父、守護代長尾能景が亡父の17回忌供養のため曇英恵応を開山に拝招して創建した。
能景、為景の保護を受けて長尾氏の菩提寺となった。
上杉謙信が幼少のころ、次男であったため、僧になるべく7歳から14歳までの7年間、この林泉寺ですごし、6代目住職天室光育和尚から教え受け、人間形成に大きな影響を受けたという。
さらに国主になった後、7代目益翁宗謙和尚からも禅の奥義を学び、後、出家時には和尚の名の「謙」の一字を貰い『謙信』と名乗ったという。
先にも書いたがこの寺の惣門、春日山城の搦手門を移築したものと伝わる。
確かに古そうな形式であり、春日山城が機能していたころの建築のようである。
ただし、確実な証拠がなく、市の文化財指定に留まっている。
この寺には上杉謙信の墓がある。
上杉氏移封後は一時衰退するが、堀秀治によって再興され、以後、堀氏、さらに高田城に入った松平氏、榊原氏の菩提寺となり、堀氏3代、秀重、秀政、秀治の位牌と墓がある。
また、2代将軍秀忠から御朱印で寺領224石を授けられ、高田藩主から禁制の特権を与えられていた。
しかし、寛永年間と弘化4年(1847)の二度火災に見舞われ本堂や山門などが焼失する。
今の山門、本堂は全て新しくそれほどの感銘は受けないが、惣門と墓地は雰囲気がある。
春日山城の搦手門を移築したという 林泉寺の惣門 |
林泉寺境内 | 上杉謙信の墓 |
監物堀と東城砦
さらに直江津方向に進むと春日神社があり、その先に春日山城史跡広場とものがたり館がある。 調査によって確認できた監物堀と東城砦が復元されている。 監物堀は堀氏が一揆に対抗するために築いたといい、春日山城の東の低地部に総延長1.2qくらいにわたって存在したという。 東城砦は数多く存在した砦の1つであり、木柵、番小屋が復元されている。 |
復元された監物堀と土塁 | 監物堀北側には東城砦がある。 | 復元された東城砦内の番小屋。 | 東城砦東側 |