イラスト集 常陸太田市旧市街
常陸太田市の旧市街は比高30mの南北に長い「鯨ヶ岡台地」に形成され、南北1.5q、東西500mほどの広さがある。
この「鯨ヶ岡」という名前は遠くからこの岡を見れば、岡が鯨のように見えるから付いたという。
茨城県北部を「久慈郡」と言うが、この「久慈」はこの岡の名前が由来ともいう。

この街は北に位置する常陸太田城の城下町として発展した。戦国時代は、岡の東西が崖である要害の地であったので、崖を防御施設として城下町全体が総構えの中にあったらしい。
坂には番屋があり、旧消防署付近には堀があったという。

つまりここは、小田原のような城砦都市であった。小田原城外郭の土塁と堀が、ここでは崖に当たる訳である。
佐竹氏が秋田に去っても、常陸太田城は太田御殿と名を変え、縮小するものの、水戸藩の支所として機能し、その城下町も戦国時代同様、棚倉街道の商業の集積地として繁栄、常陸国北部最大の都市として発展し、昭和初期まで発展が続いていたという。

しかし、その発展は減速する。その最大の原因はこの台地の不便さ、狭さである。
特に昭和40年代、車社会になると、道が狭く駐車場も十分になく、限界が来てどうにもならなくなった。
まず、岡下の低地部を岡上を回避したバイパスができ、まず、警察署、市役所が岡を下り、次いでその道沿いに広い駐車場を持った大型店舗ができ、商業の中心も岡の下に移り、岡の上は昭和末期から急激に廃れてしまう。
商店は次々とシャッターを下ろし、岡の下に移転したり、閉鎖してしまっている。
かつて多くの人が行きかった旧市街の道路も、現在では土日でさえ、猫が日なたぼっこの昼寝をしている有様である。
今は銀行などの支店がいくつかと、まだ頑張っている商店がある程度。
しかし、街をゆっくりと見て歩くと、これがレトロでいいのである。
この街は戦災もあわず、大きな災害もなく、昔のままの土蔵などがそこら中に見られる。
まるで明治〜昭和初期の世界がタイムスリップしてきたような感覚におちいる。あの「三丁目の夕日」と同じようなタイムカプセルの世界である。

梅津会館
登録有形文化財(建造物)常陸太田出身の実業家で函館で海産物問屋として財をなした梅津福次郎氏の寄附によって、昭和11年に建てられ、昭和53年までは太田町役場,常陸太田市役所として利用され、昭和55年からは常陸太田市郷土資料館として利用されている。

1階は特別展示室を兼ねた美術展示室、2階は歴史展示室と民俗展示室になっている。
南東隅に角塔を立ち上げ、東面正面に大アーチの車寄を張出した本格的な庁舎建築であり、主要部は筋面タイル貼で、車寄アーチのキーストーンなどの要所にテラコッタを用いる。

規模は小さいが静岡市役所庁舎にも似ている。
(函館人物誌より)
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu
/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/umezu_huku.htm
安政5年2月4日、梅津友三郎の次男として久慈郡太田村下井戸(現・太田町)に生れ、明治2年、13歳の時、太田村の醤油醸造業菊池方に奉公に出、商売のイロハをおぼえ、北海道が開拓で可能性が大きいということで、明治13年、新婚まもない妻ヤエを伴って函館に着き、ここで商売を始める。
まず、納豆売りを始め、塩魚類、食料、雑貨、酒の行商と店舗販売を行う。
明治19年には店舗販売のみにし、明治23年、33歳のとき「梅津商店」の看板を掲げる。
商売は繁盛し、道内各地に進出。次いでエトロフ、千島、樺太に進出、道内1、2位を争うまでになった。
しかし、明治40年、大正10年、昭和9年の3度の大火に会う。
しかし、彼は火災を考え、資産を分散させていたため、すぐに立ち直り、大火による特需で返って以前より繁盛し、天賦の商才をもって刻苦勉励し、一代にして巨万の富を築いた。

福次郎氏の偉いところは富の社会への還元である。
特に教育、公共の事業に寄与し、自治の振興につくした。常陸太田市の梅津会館こと、旧市庁舎の寄付もその一環である。
彼は故郷も忘れてはいなかった。また、育英事業に関心をよせ、函館高等水産学校(北大水産学部の前身)の設立に奔走し、函館市立中学校(現・束高校)の建設に率先して建設費を寄付し、明治末期から大正にかけて区会議員等を歴任した。

昭和17年6月23日、福次郎は85年の波乱に満ちた崇高な生涯を閉じた。
氏の信条は「人には容易に真似の出来ないことをして、体の続く限り、精魂を傾けて、働けるだけ働く」という言葉であった。

常陸太田市郷土資料館分館
本館よりはるかに古く、明治時代の中頃に太田共同銀行の建物として建てられ、以後、常磐銀行太田支店、常陽銀行太田第2支店、関東銀行太田支店など、金融機関の建物として利用されてきた建物で、平成7年に郷土資料館の分館となった。

1階には企画展示のほか,銀行が使用していた大きな金庫や商家の店先の様子を展示し、2階は商家の暮らしの道具や鯨ヶ丘の変遷を写真中心に展示している。

外観は当時のままであり、屋根の鬼瓦は常磐銀行,軒丸瓦は太田共同銀行のものが残され、鉄格子の入った観音開きの窓や内部の太い梁など、建物全体が展示資料である。



十王坂
南北に長い比高30mほどある岡にある常陸太田城の城下町であった旧市街には14ほどの坂下に下る坂があり、そのうち比較的広いメジャーな坂7つを七坂と言っている。

この十王坂、杉本坂、 板谷坂、 塙坂、 東坂、 下井戸坂、 木崎坂がそれである。

この十王坂は郷土資料館別館の北から西下の太田第二高校方面に降りる坂であり、石畳状にきれいに路面が化粧されており、坂の上から下方向に一方通行で車でも走行できる。
西には桜の名所で埴輪を焼いた窯が発見された西山公園がある山が望まれる。
その間の低地には源氏川が流れ、国道239号線が走り、太田第二高校が望まれる。

この坂には「だんご屋の幽霊」伝説がある。その内容とは、
『「山吹の里」と呼ばれていたこの坂あたりのだんご屋に毎日、日暮れになるとやつれた女がだんごを買いに来た。ある日、だんご屋のあるじはこの女の後をつけて行くと寺が並んでいる寂しい所あたりで女は消えてしまった。

するとどこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
その声は墓地の土の中から漏れてくるので掘って見ると、赤ん坊が手足を動かしていた。

赤子の母親が幽霊となってだんごを買いに来て、赤子にだんごを食べさせていたのだ。
この赤ん坊は生まれながらにして頭髪は真っ白だった。
子供に恵まれないだんご屋夫婦はこの子を育てることにした。
この子は無事成長し、極楽寺の住職となり、白頭和尚と呼ばれた。
その墓は新宿町の極楽寺跡の裏山にあり、白頭和尚入寂塚として今に伝えられている。』『おおた坂物語』より 

なお、極楽寺は浄土宗で旧誉田村新宿にあったが徳川斉昭時代につぶされて今はない。

さらに、この坂には「だいこん坂」という別名があり、こちらの名の方が十王坂よりも一般的である。

いわれははっきりしないが、もっとも有力と言われる説が、『この坂は女学校(現太田第二高校)の生徒の通学路であり、この坂の登り降りで鍛えられ、足が太くなる。』というとんでもないものであるが、妙に説得力がある。


ちまきの店「なべや

助川印刷

前島催事場

慈久庵塩町館

ヨネビシ醤油(内堀町)
常陸太田城の三郭跡地の北東端部にある。北側の道(堀跡)を挟んで北側が常陸太田城の本郭。
ここは寛政12年(1800)創業の醤油製造元。

慶応3年(1867)のパリ万博と明治9年(1876)のフィラデルフィア万博に、経営者高和利兵衛が醤油「ひな菊」を出品し、連続で賞を受けるほどの好評を博したという。
このことが欧米で醤油が知られるようになったきっかけだったようである。

元々は酒蔵であったというが醤油醸造を専業とし、後にヨネビシ醤油へとなった。
「米菱」は創業時の屋号「米屋」にちなんだもの。
そのヨネビシ醤油さんの店頭家屋です。
いつの時代のものかは分かりませんが、明治時代の建物と思われます。
ここの醤油、かなりおいしいです。お勧めします。
ちなみにここは順天堂大学の基礎を築いた佐藤進氏(男爵)の生家でもあるのだそうです。
元の姓は「高和」さんです。佐藤家の養子となり、日本で始めての医学博士号を授与された人物だそうです。

板谷坂
常陸太田市旧市街のある岡から東下、市役所方面に降りる坂。
元々は東の日立方面に延びる古街道がここから里川にかかる機初(はたそめ)橋を越え、亀作方面に延びていたという。

現在は岡下の低地は住宅街、商店街になっているが、かつては条里制遺跡でもある一面の水田地帯が広がっていた。

坂の上からは、阿武隅山系のやまなみを眉に例えて、この水田地帯の風景を「眉美(まゆみ)千石」とも呼んでいた穀倉地帯であった。
(今も宅地化は進んでいるが、水田地帯は健在、なお今は「真弓」と書く。)この坂は古文書では「番屋坂」と書かれており、文字どおり、東方面から城下に入る門があったらしい。

この坂は途中までしか車は入れず、坂の上部は石段になっており、歩行者専用である。

若宮八幡宮(常陸太田市宮本町)
常陸太田城の三郭南西端部にある神社。
本来は常陸太田城の本郭付近にあったという。

源氏である佐竹氏が義仁の代、応永年間(1400年頃) 鶴岡八幡宮から勧請して城内に祀り、守護神とし、以後、佐竹氏の祈願所となった。
佐竹氏が秋田に去ると管理は水戸徳川氏が行った。
一応、徳川氏も源氏ということにしているため(多分、捏造だろうが)、八幡宮はアリバイ上、信仰しなければならなかったようだ。
と、言うより、この神社を粗末に扱ったら佐竹遺臣の反乱が起きるのを懸念したのであろう。

慶長14年(1609) 水戸藩初代藩主徳川頼房が7歳の時、ここに病気平癒を祈願して全快したとされ、元禄5年(1692)二代徳川光圀(水戸黄門)が太田郷の鎮守とした。
宝永5年(1708)に太田稲荷神社と共に現在の地に社殿を遷したという。
本着色僧形八幡画像 、石剣形宝物 伝新羅三郎義光所用の軍扇が社宝として伝わる。
境内には県指定の天然記念物である樹齢約500年の大ケヤキがある。